3階の窓から2階の銀に塗った屋根に水玉が輝いているのを眺めるのは気持ちのいいものです。今どき自分で屋根を塗る人はまずいないでしょうし銀に光った水玉を楽しむ人もあまりいないでしょう。これが他のエンジ、グリーン、ブルーだったら水玉はでき難くその上銀に底から反射して水玉が一層浮いたようになり神秘的に見えることも無いでしょう。
「星の王子さま」に僕が育てたバラなんだ、毎日水をやり時として棘に刺され、対話した僕のバラなんだ、だから一般のバラと違うんだ、というくだりがあります。ちょっと飛躍しますが自分の家を自分で管理して繕いながら大切に住む者にとって自分でペンキを塗っただけでもうれしいのです。私が30年住んだパリのマレー地区の17世紀のアパルトマンは当初3軒共同のトイレに電気がありませんでした。私自身電気を引いて30年私もちで3軒で使いました。1970年代初頭にはマレー地区にはまだ廃墟のような建物が街の陰に結構ありました。散歩の折奥まったところに足を踏み入れると大きな嘗て貴族の館であったろうと思われる家が無人であったり当初ですから誰かに咎められないかと思ったりしました。すぐ知り合った韓国人の20歳位年上の画家は取り壊しつつあったもう残っているのは行く先の無い老夫婦と彼だけでした。そんな毎日ぶっ壊す槌音のするアトリエ兼住まいで彼は壁に大きなカンバスをはりつけ抽象を描いていました。彼は最後の最後目一杯立ち退き料をせしめるために妥協をしなかったのです。その粘りにびっくりしました。その頃は独身でヘーター先生の銅版画のアトリエで知り合い友人になりました。彼は後に16年ぶりで帰国して一躍時の人になり奥さんを連れて帰ってきました。そして102歳かで亡くなる直前フランス政府からレジョンドヌール勲章をもらいました。私は彼の他世界的な言語構造学者の韓国人の友人がいましたがこの二人に限って言えば韓国人の忍耐力は半端なものではありません。彼は奥さんをもらってからもアトリエは郊外のテコンドウの道場の隣の汚いところでパリに住居はあるのですがシングルのベッドに夫婦逆さまに寝てその頃は高齢でキャンバスに抽象の制作はできなく新聞紙に墨汁でカリグラフィーの習作を沢山書いていました。奥さんもその忍耐力はたいしたものでパリに着いた当初はノイローゼ気味でした。ばったり市場などで会うと私と立ち話をすると名医に診てもらうようだと喜んでくれた時代もありました。奥さんはかつて韓国の一流大学を卒業しジャーナリストとして働いていましたが友人の紹介で結婚しました。パリでも結婚式を中華料理店でやり日本人でよばれたのは私たちだけでした。当時すでに韓国では超有名画家でしたがまさかレジョンドヌールをもらおうとはおもいませんでした。奥さんは私の1,2歳上でまだパリに住んでいるようで先般韓国の美術館で大回顧展がありパリに住む共通の日本人の友人が見にいってきたといってました。私は朝鮮民族というのはものすごい力をもっているとおもいます。大中国の一部のような半島で独立を守るのは並大抵ではなかったでしょう。思考力の深さは日本人の淡泊さと対極にあります。私がいろんな所でご夫妻に会ってお茶を飲んで彼らが払ったことは一度もありませんでした。奥さんは「氷の上を渡るような生活」といつもいっていました。しかし週何回も中華レストランにいっていました。無駄な金はびた一文払わないという哲学なのでしょう。とにかく生活と生命力はすごいです。私は日本人の中でも超淡泊人間で何かあったら一番先に犠牲になる種の人間です。世界の中では愚か者と言えるでしょう。馬鹿は死ななきゃ治らない、本当です。
私の人生で魚が水を得たように制作、交流と信じられないような人間と出会い画商も作品を買ってくれパリの30年は人生の黄金時代でした。「人間」というものも学びました。国家試験全国6番でうかったという優秀な医師が不治の病になり奥さんのために我々の斜め向かいに開いた画廊のオープニング寸前にご夫妻の知遇を得て家内は契約、私は最初45枚もシート作品を買ってもらったり今考えると夢の連続でした。それから10年腎不全が進行して人工透析、腎移植そしてそれから30年が過ぎ帰国して20年になりました。私の境涯も全く変わりました。あのイタリアルネッサンスの巨匠ボッチェリも最晩年は1杯のブドウ酒にも事欠くほどに零落したとあります。だからこそ人生は悲劇でありまた喜劇でもあるのです。枯れ木に花を咲かせるのは至難です。