今朝も自転車で3㎞ほどの散歩をしました。5年ほど前に大改修した市営野球場の脇を通ったら蔦が建物の周囲に植えられていて地上から1メートルほど壁を伝ってのぼっていました。雨どいの所だけは4メートルほどぬきんでて高くたっしていました。その時蔦の強い意志というものを感じました。鈴木大拙先生は命というものは前へ前へ進むものだといいました。全くその通りで蔦の命は文字通り猛烈な生命力で進んでいるのが感じられます。あと10年もすると屋根まで覆うようになって建物の内部の温度を夏は下げ冬はあげたりしてくれるでしょう。自然界には成長がなかなか感じられないものや蔦や夏草のように1日でわかるほど成長するものといろいろあります。そしてどんな生命体でも「死」がやってきます。最近目にして記憶にあるものに冷蔵庫に入れて置いたリンゴ4,5ケ透明なセロファンの袋に入れておいたら前日まで皆大丈夫でしたが翌日その中の1ツだけ白っぽい黄色になって全部腐っていました。前日まで外見何ともなくみえていましたが12時間ぐらいのあいだに一挙に全部腐っていわば死んでしまったわけです。生と死の境界は瞬時にして移行するようです。私は人間の死に立ち会ったことはありませんがおそらくリンゴと同じく今まで呼吸していたものが呼吸が止まり脈が止まって死となるのでしょう。最近は生命維持装置で人工呼吸器ではあはあ呼吸だけはしていて体温も温かくして何日も生かしておくことができますが実際は脳は死んでいるので私なら人工呼吸器は最初からやらないよう頼みます。現代文明は無限に生命を栄養や手術や器具で伸ばそうとしていますが老人ばかり増えて若者がなかなかゆとりがなく気の毒です。インドなどは平均年齢が20代と聞いた気がします。そういうインドでも先進国をモデルとして追いかけていたらやがて老人の多い棺桶型人口になってしまうのでしょうか。
今日はこれから数十年は伸びて成長する蔦をみて生命というものを思い人間はより若い者にある一定の年齢がきたら譲るくらいの覚悟をもつことが必要と感じます。「老」とはすべての身体と精神が退化、異質化して正常とはとても言えない心身に変化していきます。
「死」を限りなく先延ばしするより平均85ぐらいのほうが人生が張り切れるのではと思います。昨日駅前で偶然6歳下の友人に何年かぶりで会いました。やはり年取ったなあという印象でした。数年前の青年のような雰囲気と違って顔がやはり老人になっていました。私も傍からみたらそう思われるでしょう。大抵の人は年取ると顔がぷくーっと膨らんできます。そういった顔になると死がすでに始まっています。却って痩せてしまう人のほうが元気で長生きします。パリの日本人同業者で60過ぎて亡くなったひとを思い浮かべるとそういった独特のぷくーっとなった人です。私が自分の感覚ではもう死という種或いは菌がもう体内で動き始めたと感じています。生まれたときから死はうごきだすのですから当然です。しかし成長期に自ら死を感じる人は少ないでしょう。例外的に幼児から死を感じたことのある人間もいます。白隠などはそういった一人です。私に死は楽しみでもあります。現世の苦しみから逃れられますから。ただ現世の悩みがあります。作品群をどう整理するか、アトリエと住まいを撤去する費用を土地所有者の姪に残さなくてはならないことなどすっきりしないと死ねません。老年や死がこれほど大事業とは思いませんでした。でも放っといて死んでも何とかなるでしょう。世の中のことで時間で解決しないものはないでしょう。これが超有名なアーチストだったら遺族の喧嘩の原因にだってなるかも知れません。とにかく一日一日今日が最期と生きるきりありません。あとは天に任せるて。生きてるから悩み心配するのです。有難いことかも知れません。