私の人生を振り返ってみて恋愛というのをほとんどしたことはありません。大抵は恋をしてそれを10年位片思いとして人生のエネルギーにしてきました。大学受験の浪人のとき家の前を通学する女学生がいて私には美人に見え憧れていて長らく隣に住んでいた一級したの幼馴染の女の子に紹介を頼みましたら家に彼女を連れてきてくれました。それから1,2回本を貸したりして我が家にきましたが恋愛に発展することはなくそれで終わりになりました。外見の興味だけでは恋愛に繋がらないという人生で初めての経験でした。大学の時も武蔵野美大の女子学生に惚れましたが彼女は卒業して姉の嫁ぎ先で子供に絵を教えていてその町で初めての個展をし案内状が届いたので33歳で亡くなった人生の友に金を工面してもらって彼女の個展に行きました。大変喜んでくれ姉の嫁ぎ先に泊めてくれました。翌朝近くの小学校の校庭に散歩に出た折彼女が後ろから抱きつきました。私はその頃絵を続けることに行き詰まりを感じ今回は伊豆を徒歩旅行して絵を続けるか止めるか決めようと大きなリュックに寝袋やポンチョを詰めて本は2冊「タゴールの詩集」とリルケの「若き詩人への手紙」をもってきました。伊豆の旅にでることを話したら一緒に旅に行きたいといいましたが絶対一人でなければならないとことわりました。旅の途中から長い手紙を何通かだしました。家に戻ってもたまにハガキの往復があったくらいでしばらくして縁が切れました。10年後パリで同県出身で4,5歳若い武蔵野美大を卒業した画家と知り合いになり週1回私の所に銅版画を習いにきましたが話していたらその女性と同じクラスであり文房堂の画廊で私が見たグループ展のメンバーでもあったそうで彼女のことを聞いたらピアニストと結婚したといってました。とにかく天性の明るさをもっていましたが在学時代に絵に行き詰まって毎日悩んでいたことを知り合った当時私にその苦しさを話しました。私が思ってもみなかったアーチストへの道に踏み込んだ運命の第一は何といっても古本屋でゴッホが弟テオに書き送った精神科医でもあった式場隆三郎訳の書簡集であった、と同時に彼女が絵画というものに打ち込んで悩んでいたという感動もあったことは確かです。その頃は恋は純粋な思いとして脇にとっておき青春を謳歌して女性も入れて遊びました。どっちかというと男の友人と会うことが多く遊びの女性はその刺身のつまみたいでした。33歳で結婚2週間前に胃から血を吐いてそれが呼吸喉に入ってフィアンセが第一発見者となった人生の友と私は共通の友人によくお前らはホモかとからかわれました。私の要求は大抵金ですが工面してくれました。伊豆旅行の費用当時の金で¥25,000大学での地方公務員の初任給が¥9,000くらいでしたから今の50万はあるでしょう。私の静物の力作を事業をしている従弟に売ってくれたのです。潤沢な金をもって出かけ結局なし崩しの形で絵はつづけることになりましたがこの野宿旅行が祟って腎炎になり後年パリで腎移植をする原因をつくりました。その33で死んだ友人は母親の家で司法浪人をしていましたがいつまでお袋を心配させたくないと私はお袋を泣かせていましたから一緒に上京しようと相談していましたが私はそのために腎検査にいったら入院ということになり、彼は私たちが入り浸っていた画廊喫茶の経営者の友人の奥さんの妹が父の事業の後を取ることになりその女性と婚約しましたが前述の突発事故で逝き私も入院中に見舞いに来てくれた女性と結婚することになり上京は止めました。それから5年後にパリ行きを決行することになります。パリから一時帰国中知り合った当時大学の準教授だった女性を恋するようになり15年ぐらい続きましたがそれも収束し今も友人です。私は恋愛型の人間ではなく若かりし頃高校の女子学生を紹介してもらっても燃えなかった経験と他の経験で恋と現実は別物という観念が頭にこびりつきまた両親の結婚をみて結婚に理想がもてなく結婚しようとは思いませんでしたが入院して不安になったのが引き金で退院と同時に一緒に暮らし始めました。人生というものは本当に偶然と偶然が重なるものですが私の印象としては過去を振り返ると天が決めた運命を少しの狂いも無く行っているという印象なのです。未来は全く読めませんが死ぬ前にもう1回ジャンプがあるような気がします。それは外の世界のことではなく内の世界の気づき、それによって死を克服できるようなもののような気がします。