床の中で急に57で肝がんで死んだ兄のことを書いてみようと思いました。彼は私より8歳上で生きていたら今90です。旧制中学3年(15歳)のときに予科練にはいり滋賀航空隊で4年訓練を受け敗戦間際に九州の特攻隊基地にいて敗戦が2ケ月遅れていたら飛び込んでいたと昔言っていました。敗戦直後に割合すんなり家に帰ってきました。海軍兵士が持つナップザックにサケの缶詰数個そう麺その他の食糧と衣類など持って帰りました。帰ってすぐ予科練の同期生と連絡を取って滋賀航空隊にあった数十台のトラックをチョンボ(盗む)しに行く計画をたてましたがお袋に猛反対されてやめました。そのころ旧制中学時代不良で退学して土地のやくざの組に入っていた友人がしょっちゅう家にきていてお袋がやくざになるのではないかと心配していました。自分で腕に兜と桜の入れ墨をしたのを覚えています。結局やくざにはならずトラックの助手を1年やって免許をとり実家を抵当に入れ薪で炊くエンジン、いわゆる木炭車のトラックを買って運送業を姉の亭主と始めました。仕事は沢山ありましたが運送代が支払われず倒産、兄はまだ22,3歳で義兄に整理をまかせ上京、2年間「はとバス」で観光バスの運転手をやって東京の地図を覚えそれからタクシーの運転手、その頃はメーターを倒さずに客をのっけることを「煙突」といいました。メーターが出ないので新婚旅行に出るカップルが東京駅まで行くのにメーターなら半額で済むところ倍払っても新婚旅行だから文句もいいません。そのように当時のタクシー運転手は文字通り雲助であぶく銭を稼ぎました。10年で川崎に小さな木造モルタルのアパートをつくりました。タクシー業界が煙突営業を禁止してから儲けられなくなり一念発起して30過ぎてから競艇の選手になります。そのためには国の内燃機関の資格を取らなければならず猛勉強して競艇選手になります。なってからも時間があるのでウナギ屋も自分で板前をやり私たちが結婚し挨拶に行ったとき浴槽がウナギのストック場になっていました。一番デラックスのうな重をご馳走になり、神奈川県の辻堂に店がありクルマを貸してもらって伊豆の西海岸を2泊3日の旅をしました。その後ウナギ屋を止め競艇選手も止め茅ヶ崎でキャバレーをやりました。しかし何年か後区画整理で取り払われお金が入り海岸近くにカラオケバーを開きましたが赤字のまま病気で亡くなりました。近くにローンで建てた自宅は保険で支払い奥さんのものになりました。二人息子の独身の下の息子と暮らしていましたが息子は去年60で亡くなりました。兄は辻堂にいたごろ創価学会の教義を知り入会しました。ついで嫁さんを入れ画家の姉を入れ遂にお袋を折伏し入信させました。最初は箒で掃きだされて抵抗してましたが一番親孝行息子でとうとう入ってからは南無妙法蓮華経百万遍を3回唱えたといってました。そのせいかお袋百歳3ケ月で亡くなるまで薬も飲まず痛いと言うことも無く大往生しました。私がパリ生活当初お袋は味噌や食料を送るとき必ず創価学会の本を入れてありました。それを全部読みました。しかし学会に入ろうとしたことはありません。友人がくれる宗教の本も全部読みました。私自身結婚前に禅の坊主になりかけたことがります。本来宗教になじむ性格ではあります。私は兄と姉が3人ずついました。今はわたし一人です。この兄とは小学生のとき2年くらい一緒に同じ釜の飯を食っただけであとは家をでていったのでしみじみと話したことはありませんでした。一度だけ私が大学を出てアーチストをめざし実家に帰って食うために店売りしない女子向けのフェアレデイという雑誌を売っていたときどうしてもクルマが必要で上京し中古車を買うとき兄と一緒にさがしました。そのとき5,6時間彼のクルマに乗ってさがす途中ずーっと兄の人生や家庭の話など聞きました。それが唯一兄とすごした時間でした。彼は小さい時は親戚の人気者で高い木の上の鳥の巣から雛をとったり柿の木に登って実をとったり体が効いて遊ぶのがうまく人気がありましたが特攻隊から帰ってからそんな明るさはついぞ見たことはありませんでした。おそらく一生人生の暗さを背負っていたようです。この兄だけが例外で女を手当たり次第にやってたようです。ついに梅毒にも罹りました。酒をほとんど飲まないのに肝がんはこの病気のクスリと関係があると思います。最後東海大附属病院に2ケ月入院し最期に奥さんに信仰で治せなかったなと言って逝ったそうです。私には兄にとって唯一創価学会の日蓮宗の勉強をしましたがその間科学や合理的思考が欠落してしまって自分がかなりの力を持ったと誤信したのではと思います。しかしもっといろんな話をしておけばよかったとおもいます。総じて私のきょうだいは幸せは訪れ難い性格と運命をもっているようです。両親は昔の師範学校をでて小学校の教師をして大恋愛をし生徒に便所にまで相合傘に名前をかかれ結婚式の前に長女を孕んでいました。しかし子供が2,3人目ぐらいになると性格の違いか生い立ちの違いか夫婦の仲は冷たくなり遂におやじが46歳のとき僻地の校長をお袋に無断で辞めその時私はまだ生まれていず兄姉6人を抱えお袋はパニックになりましたがお袋の金持ちに嫁いだ姪の助けもありなんとか乗り切りました。そんな状況下でこの兄は旧制中学校を2年で辞め滋賀予科練にはいったのです。学費も生活費も国からでました。私は敗戦時小学4年生で敗戦後の家の混乱や大変さをよく覚えています。私が冷静に回りをみる性格になったのも私だけが一人離れて小さかったので巻き込まれることがなく観察者になったのです。おやじは誰にも相手にされず孤独だったと思います。こういった家庭で幸福な家庭を築くことはまあできないでしょう。二番目の兄も退職してからは家に泊まらず昔住んでいた住宅に一人で住んでいまして彼も65で亡くなりました。みな性格が変わっています。人間にとって家系や性格は実に一生を左右します。ゴッホの家も代々牧師の家系で精神病を持っています。若し私がサラリーマンになっていたら止めるかまあ惨めな人生だったろうと思います。今までの人生も至福とどん底の繰り返しで昔はよく人間に生まれず花の咲く木に生まれたらよかったと思ったものです。それでもこの仕事に打ち込んでいるときだけはすべての苦しみから解放されて「我」を忘れました。今は今朝床の中での痛みから解放され兄の思い出を書いてしばし至福ではないが老の不安、惨めさから少し解放されています。兄のことを急に思いだすと言うことは何らか死が近づいているのかも知れません。家内の寝顔をみるとほとんど死顔のようです。かくもこの1,2年で変わるものかと恐ろしいです。先日知り合いから送られてきたスペインで長く制作した日本人画家の画集の人物画は皆「死」を感じさせます。スペインの伝統の思想の根底には「死」が厳然と鎮座しているのかもしれません。

とにかく今こうして生きていることは有難いと言うべきなのでしょう。