家族のようにしている40年付き合いのあるフランス人カップルの奥さんが昨日送られてきたメールに私は19世紀に生きてるようなものだとありました。私も同じで時代より文明的には遅れて生きています。だから40年以上仲良くできるのかもしれません。彼女はPCをメールと知識を得るため以外は使わないと、買い物などなどやメルマガを読んだりはしなということです。最近は年取ったせいかさすが手紙は寄こさず専らメールです。しかし欠かさず私たちの誕生日には何か送ってくれます。古風というか自分の生き方を固守するフランス人は多いです。テレビでフローレンスの親子二代の仕立て屋を訪ねたルポをやっていました。彼の心の原点は市内にある古い僧院で嘗ては多くの修道僧が瞑想をしていたところで回廊の壁は今は白く塗られていますが剥げ落ちたところは以前は緑にぬられていたことがわかります。それを若かりし頃そこを訪ねて発見したそうです。内庭にも緑の芝生が一面生えていて壁は昔は緑でさぞ心が静かになって瞑想にはもってこいの環境だったでしょう。屋根瓦も時代がたって薄い紅色で明るい乾いたそして清楚な感じです。街中にあのような空間が観光客も訪れずにひっそり存在しているフローレンスは素晴らしいところです。この仕立て屋さんの色感はすばらしく上着の仮縫いが終わるとそれを持って裏地屋を訪ね何百種類とある裏地から実地にえらびます。裏地屋の主人に意見を聞きながら、この仕立て屋さんは本人が来ないと引き受けないといってました。髪の色人間の感じなど総合から決めなければフィットするものができないそうです。今はこのような仕立て屋は少なくなっていて古いお得意さんで手が一杯のようです。そして親から続いている裏地屋やボタンなどの付属品の店なども何代もつづいているところなのでしょう。私の望む社会は今のように社会が急変しないでゆったり流れながら着実に良い変化を続けていく、そして人間の信用が金よりも大切で仕事は信用で行われる。新参が入り込むためには相当の努力が必要ですが受け入れてもらえる寛容さもある社会、私はそういう社会が好きというのは徒弟時代にあこがれているのかも知れません。またテレビで京都の印伝のことをやっていました。本来印伝は武具の一部に使われていて男ものが女ものより多くつくられていたそうですが現代は女物、バッグや財布など女物が主流とのことです。しかし京都のおしゃれな男には着物には印伝の財布(紙入れ)がよく似合うそうです。また皮草履の鼻緒が渋い印伝のもあり素敵なものです。伝統工芸には何千年もかけて磨き上げられた素晴らしさがあります。私には20世紀に入って石油製品、プラスチック、人造繊維、食品などができてから、アレルギーや心身症が増えたという気がしてなりません。もうこの現実を後戻りさせることは不可能でしょう。しかし今日のように精神が現実社会にフィットできずに才能がありながら家に閉じこもっている特に男子が多いのは社会を構成する諸々がデリケートな人間を活用させなくするものに満ちているからではないかとおもいます。私自身を振り返ってみますにもし私がアーチストの道に入らなかったら、完全にサラリーマン失格者、もし妻子がいて働かざるをえなかったらやはり精神科の世話にならなければならなかったでしょう。アーチスト以外にできるとすれば工芸関係とか仏像修復師など人の組織と関わらない職業でしょう。幸いにも独学でなんとか54年やってこれたのは支えてくれる人間が要所要所に現れてくれたこと、子供がいなかったこと、少数派のメゾチントというやや特殊の技法一筋にやってきたなどなど、体の弱いわたしがここまでやってこれたのは自分の性質、体力など知って決してその限界を破ろうとせずその範囲で一生懸命やってき自分の能力とタイミングをうまくコントロールしたからかもしれません。私はいつも俺は「待つ」という才能をもっているのだと自負しています。この言葉は何かの文章の中にありました。「待つ」という精神、たとえ生きている間に成就されなくてもいいのです。向かっている方向にぶれがなければ待ち続けることができるのです。今のぎりぎりの経済状態が突如10倍の収入になったとしても少し最晩年が心配無いかなと安心するくらいです。安心しすぎると人間は駄目になります。いい仕事はやはり背水の陣のときにできるものです。私の54年の作家人生でもっとも実り豊かだった時期は腎臓移植直前の人工透析をやっていた1989年から移植が成功しその翌年の1990年までの2年間に傑作が集中しています。これは移植が成功してもいつ拒否反応が起きて駄目になるかという緊張の中で一日一日仕事に向き合っていたからです。アーチストの大部分は成功する前の無名で厳しかった時代の作品が遥かに成功後の作品よりいいのが普通です。坂本繁二郎、三岸節子などは例外です。現代でも有名なパーフォーマンス的大作作家がいますが芸術の本質から外れて彼らの多くは己の核が時と共に熟成して、世阿弥のいう「老いの樹に咲く花」最高の花にはならないだろう。この文明自体若さと力を誇示するものだから成熟はあり得ないだろう。我々は「老いに咲く花」の存在を忘れては欧米文明に敗北してしまったということになります。今こそそれを自覚する分かれ目ではないでしょうか。この精神をかく乱する文明の中で思い切って生活を単純化して捨ててみる、この思い切り、引き算的豊かさをやってみる価値は大いにあるでしょう。











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