今日思い立って暮れに89歳で亡くなった知り合いの88歳の奥さんのところにご機嫌伺いにいきました。隣に一人暮らしの実の娘はいますが一人暮らしは寂しいようで家内といくと喜んでくれます。このご夫婦はかつて150人の会社をやっていて工作機械を作って輸出もしてましたが辞めて30年以上にもなります。そんな時信州大学の医学部の先生が献体が少なくて学生の勉強に支障をきたすという話を聞かされ、今から30年近く前に福島医大に献体する協会に登録し暮れに亡くなってすぐに翌日取りにきてもらう電話をし翌日朝9時にきてもらったそうです。一年後くらいに研究に役立ててもらったあと医大内に火葬の設備があり懇ろに火葬され壺に入れられて遺族の元に届けられるということをききました。奥さんの方もそうすると聞きました。30年前は今のように献体が一般化してなかったそうです。献体を登録した人たちの親睦会があり年1回その集まりがあり昼食をしながら和気藹々と色なことを語り合って楽しい集いなそうです。大変興味のある話を聞きました。私にとっては若いときから死を考えることは縁起でもないという考えとは反対で観念的ではありましたが死を想像したり死について考える傾向がありました。もうそんな観念的に考えるというより現実の問題になりました。今日は家内と死ぬ前の家の整理など語り合いました。私には死後魂みたいなものが続くのかどうかは全く分からないしそれはあまり考えないことにし生きてる間はできるだけ合理的に考えたいと思います。死んだあとにどうなるかわかるでしょう。死は永遠に続く意識の喪失状態ならば魂が存在するのかどうかも分からないかも知れません。話は我々のこの現実のことですが一般に真実と思われていることが巨大な力を動かすとその事実をひっくり返すことが可能であることを歴史は証明しているということです。ソ連で革命当時レーニンから指導者がスターリンに移って幹部が映っていたレーニンの隣にいたトロッキーが写真から抹殺されたことはあまりにも有名なことです。ポーランドでポーランドの将校など何千人も殺されカチンの森に埋められた事件は当初ナチの軍隊がやったと長らく思われていたがあとでソ連軍がやったことが分かりました。そしてこのごろナチがホロコーストでユダヤ人を600万殺したと言われますが110万しか殺してないという声があがっているそうで、すべて証言者からの数字で未だ客観的な科学的な検証はあまりなく、その事実の検証は見えない力が働いていわゆる「正史」に手を入れることは不可能なようです。ヴィクトール.フランクルがいっていますがユダヤ人が正しく、ナチが悪いという観念には最後まで組しませんでした。彼は収容所で決して収容者を殴ったことが無く自前でクスリを買って与えていて、死んだユダヤ人は墓を作ってならなかったが分からないように埋めた所に実名を書いていたナチ親衛隊の収容所所長を知っています。それに反して同じユダヤ人でもカポという収容所を取り仕切る立場のなかにものすごい非情で暴力的な人間が多かったそうで、フランクルは人間にはいい人間と悪い人間があるだけで悪い民族、いい民族があるわけではないと言い切っています。往々にして我々もジャーナリズムも中国は悪い、韓国も悪い、北朝鮮も悪いと一色に見がちですが中国にも韓国にも北朝鮮にも心の中で自国の政策に心を痛めているひとはかなりいるとおもいます。自分の身の安全上公言できないだけです。ものや国を一色に考えることは大変危険な考えであります。世界の人間と付き合うと人間に変わりがないことをしみじみ感じます。世界の情勢をみると大きな混乱が起きる予感がします。それは今まで70年つづいてきたバランスが基本となる数々の因子に変化が起きてそれらが時間を経てモメント(作動)し出す、いわばダムに水が溜まり決壊する予感がするのです。世界はますますグローバリゼーションの流れが加速しその流れに倒され、流され、時代遅れになってなったか、運悪く巻き込まれたか、とにかく世界の力を結集しても阻止しきれない津波が襲ってくるのではとこのごろ感じるのです。世界の歴史の中では百年に一度くらい何か大きなことが起こっています。世界のシステムは安い賃金のところへ生産拠点が移っていますが安い賃金の終着点にきたときはその利益にあずかることは困難になって人類同士の搾取ができなくなり格差は増大しさらに生産がロボットで賄えるようになると社会にいらない人間が増えてきます。そういった世界的な矛盾が大きな革命というか大混乱を生むと思います。先週だったか名古屋大の女子学生が人を殺してみたかったといってるそうで、心理学では人を殺すということも自分を殺すことも心理の構造は同じといわれます。というのは「命」がものと同じような感覚でとらえるようになっているのかも知れません。この疲れるストレス社会で命が輝いてなく人間が擦り切れたぼろきれになったことの証明ではないでしょうか。考えてみると子供の頃に自然は光輝いていました。しかし自然は破壊され汚れてしまっています。ヒマラヤなど映像でみると神々しいです。しかし山はゴミが捨てられ実際は汚れているのです。人類が自らが生んだ文明によって我々自らを汚し続けている面があることは否めない事実です。我々が後戻りできないとすれば世界の人間一人ひとりの意志で今必要なものと必要でないものと峻別して生きる以外に方法はないのではないでしょうか。一度書きましたが4年前72歳のホームレスをクリスチャンの友人と生活保護をもらわせたことがありました。それまで彼は空倉庫で8年間生きていて日中は8時間くらい歩いていて多くを過ごす公園の東屋ではラジオを聴き歴史小説を読んでいましたが、生活保護をもらい私の隣人の離れを借りるようになって2年目からすべてコンビニでお茶に至るまで買ってもう自分で炊飯器でメシも炊かなくなりよく歩いて転んで大けがするようになり部屋でうんちをして流しに置いたりするようになり4年目にしてそういった問題のある老人の施設に入りました。二人部屋で施設内を歩くこともなく大抵寝ています。私は何を言いたいかというと格差社会で多くが生活保護をもらうようになって10パーセントぐらいの階層が経済をになってよい生活をするようになると保護を受ける階層の生きる意欲の喪失で人間が全く駄目になってしまうという気がします。格差社会は本当の人類の進化には逆行すると思います。私はこのホームレスの体験で人間が如何に自立心を失ったら崖を転げ落ちるように人間としても生物としてもいかに自己崩壊するかを観察しました。人間の命も何処まで尊厳されるべきなのか大いに考えされられるこの頃です。