昨日から結構強い風が吹いています。アトリエの6時半の温度が0.5℃でしたから寒いほうです。昨日から食パンが切れていたのでゴミを出しにいくついでに街のパン屋にいった、私の聞き違いでなければ6時半からやっていると聞いていましたのでいってみたらシャッターが下ろされていました。すぐ24時間営業のスーパーに行きましたが後でもしかしたら裏口に回れば売ってもらえたのかなと思いました。大量に工場でつくるパンを買って食べたらこれがパンかなとがっかりしました。現代で食されているパン類が本来のパンとは違うようにおもいます。あれだけ軽かったら実質小麦は少なく人工の膨張剤がはいっているはずです。かえって食べ過ぎないでいいという意見もあるでしょうがそういった人工の化学補助剤がガンの引き金になっているのでしょう。本物とは何かという素朴な疑問に答えられないほど我々の食品にはいろいろなものが入っています。そうしないと膨大な食材が駄目になってしまうし大量の物流が成り立たなくなることも確かでしょう。地産地消のまだ都市化も進まなかった時代はそれでよかったですがこれから人間はどんどん都市に住むようになると統計が予測しています。住空間がますます人工的になり天候に左右されない所で守られるようになると完全に科学やテクノロジーに即した人間になってくるでしょう。人間は完全に管理されるようになるでしょう。パンが本来のパンでなくなったように人間も本来と違って体の一部に器械が合体したり化学物質漬けの人間になるでしょう。かつての自然パン時代と新しいパン時代の人間とでは人間が自然の一部という考えから、人間が自然に対して屹立して自然からの離脱の意識が強くなるのではないでしょうか。腕が弱くなれば腕を補強する器具をつければいいという風に。しかし何としてでも生きればいいという考えはそれに似合った生き甲斐が見つかるものでしょうか。西野式健康法は正しい呼吸によって60兆の細胞を活性化して細胞によるエネルギー代謝を促進するという考えです。そうすると人間が真から元気になるといいます。細胞が再生を繰り返す回数と細胞の一生をかけると人間は125歳までいきる可能性を秘めているそうです。人間の細胞には驚くべき力が秘められているといいます。しかし現代の支配的考えはテクノロジーを発達させて人間の形而下的欠陥をどんどんテクノロジーで補っていく方向です。とにかく文明はどんどん金のかかる方向に進んでいってるようです。歳をとると毎日毎日が同じような繰り返しが時のたつのを早くさせるといわれています。こどものころは毎日毎日が新しいことの発見で時間の経過が遅く感じられるといいます。もしテクノロジーが発達して人間の一生が大体予測されるようになると若いうちから毎日毎日がカリキュラムに従った生活になって一生はすごく早く感ずるようになるのではないだろうか。命の可能性の選択肢がテクノロジー社会で不可欠なものを学ぶことにあらかた費やすようになれば同じような人間が大量にできるようになるでしょう。このままいくとクルマは10年後には居眠りしても目的地までいくでしょう。仕事の量も今の2倍ぐらいこなせるようになるでしょう。しかしますます人間の要求はふえるでしょう。しかしこのような発達が本当に人類の発達、進化によいのでしょうか。これからの人間は何かパニックがあるとすぐくずれてしまうような脆いものになるのではないでしょうか。だからますます金の価値はゆるぎないものになっていくでしょう。脆いということは建物の大黒柱がしっかりしていないということです。風や雪、地震がある度にちじむ思いをしなければならないということです。テクノロジーはこれらから守る手立てを生むでしょう。安全になっても生きるという何か骨太な精神はますます細っていくのではないでしょうか。我々は身近なところでは昭和30年代を懐かしむようになっています。それはまだ貧乏でも家族がまとまって暖かいものをもっていたことを思い出すのでしょう。文明は何を付け加え、何を無くしたか、人間の知識はまだまだバランスをとって進化することは至難です。考えようによっては文明は常に次に向かっての過渡期です。人間は常に間断なく思考し検証し続けなければならないでしょう。

フランス人の友人から彼女の義姉で私たちが大変お世話になった71、2歳の友人がアルツハイマーになったと知らせがありました。彼女は未婚で息子一人の母で老後は金銭的には心配ありません。ユダヤの家族で兄弟は皆金持ちです。今年に入って人間は年を取ってやがてしぬものだということをしみじみ感じさせられます。これはブッダ時代と本質的に全く変わっていません。現代は社会的に現代文明は「死」を隠匿しているので「死」とは自分のことだとはなかなか気がつき難いです。突然姿を現すように感じます。私にとっても真にかくの如しです。何か人生に新しい視野がひらけるということは人生の新しい面が現れてくるということです。社会で老の智慧というものがいわれなくなって久しいです。しかし人間が死ぬ存在であるかぎり、老の智慧は有効とおもいます。老人というものはなかなか内面を吐露してくれません。私も老人の範疇ですが自分が老人の意識がなく気持ちだけは若いと自認しています。しかし今年になって急に自分の死があまり遠いものでないことを強く感じます。感じつつ最後まで年寄にならないよう抵抗していきます。それには若かったころの一途な気持ちをもういちど思いだし心を柔らかくして恐怖を持ち込まないようにしなければとおもいます。つまるところ恐怖心が一番の大敵です。これから日々これとの闘いがあるでしょう。