時々テレビでタレントや若手俳優など旅にでてあたりばったり予定をつくらずいろんな土地を訪ね、時として民家に上り込んでその家の自慢料理などを即席で作ってもらってご馳走になる模様が取材、放映される。その時の出演者のマナーのことだが座敷に上がり飯台に座っても帽子をとらずに自慢料理を食べて平気でいることである。アメリカあるいは世界でこれが当たり前だから日本の若者もこんな無様なことをテレビで平気で放映していることを何回か見て日本の礼儀も地に落ちたものだなと慨嘆しています。ちょっとしたことが原因で人間、国民が蚕食されることは歴史をひも解くといくらでも例はみつかります。この若者が人の家で帽子も取らずに料理あるいはお茶をご馳走になることがどんどん礼を失ってそれこそ礼節の民族と言われた日本が蚕食されなし崩しに非礼を非礼とも思わぬ国民になるのです。目上に一目おくということはまだ韓国が守っているようですがやはり風前のともしびかもしれません。 自然界も人間界もちょっとしたタガがはずれることから国の存亡にかかわる事態までエスカレートするものです。清朝末期、中国はその無力さに乗じられて各国から蚕食され多くの富が外国に持っていかれ、国民は自信を奪われた。反対に今の中国は漸く時期到来と積年の屈辱を虎視眈々と挽回することを画策してもちっともおかしくありません。むしろあって当然です。私がいいたいのは個人、国家同じように極く小さな一角が崩壊することから個人の、国家の存亡に繋がっていくということを喚起してほしいのです。有名になって高額の金を稼ぐようになって人間崩壊する人は珍しくありません。それはこの人間が金によって破滅するくらいのメッキ人間だったことであるということである。人間は自分自身、周りの人間、国家、その時の世界によって育てられるものである。その環境には悪い因子と良い因子があり、如何に悪い因子を抑制して良い因子を伸ばすかにかかっています。その判断は大人自身が示さなければなりません。この帽子をかぶったまま食べる非礼をテレビ局でコントロールできないことが今の日本を象徴しています。こんな些細なことがやがて日本が、尖閣諸島を中国に奪われる遠因にならないとも限らないのです。このつながりは論理的に推論は不可能ですが人間の心構えはそれこそ想像もつかなく連鎖しているものです。例えば擬態植物、擬態動物を見てどうしてそんなメタモルフォーズが可能なのか、その動植物が種を維持進化するために意志を持っているのか、それとも単にDNAのなかにそんな能力がすでにあるのか、種の中で一つが先ず変身しそれを良しとする連鎖がおこるのか、人間の智慧を遥かに超える知恵、本能力が備わっていることは明瞭中の明瞭です。人間の論理力を遥かに超える想像を絶する能力の世界、それを我々は神の世界とよぶきりないのでしょう。現代ではすっかり失われましたが人間にもかつてはあった能力でしょう。その能力を回復する方法は各民族が編み出していました。ヨガ、道教、アボリジーニの宗教、メキシコのウイッチョルドのシャーマンになる方法など、世界の天才科学者たちが近代になって進めた成果の半分の陰の部分は公害を地球上にもたらしましたが、こんなに手間暇金を掛けないで動かないで人間の至上の境涯にいたることは可能のように直観ですが感じます。人間は言葉にしないとなかなか伝わりません。しかし言語化することによって真理はデフォルメされ誤って伝えられそれがまたまた垢をつけられてつたわりどんどんひどくなっていきます。これが近代文明の根幹に在る不幸ではないかと思います。しかし現代人、金の価値以上を考えられない現代人が自分自分で自分の中に眠っている人間を超える動植物に在る力に目覚められるかです。私が漸く人間界の喜怒哀楽を少し超えたと自覚できるのに78年かかりました。人間は仏教でいう阿頼耶識その下まで降りていかねば本当の存在者にはなれないのでしょう。やはり私には仏教は深いと思います。そして生命は大きな一つの生命に収斂、即ちそこからすべての生命は出てきていると思います。そこに本来我々は自他を超える存在である根拠があります。言うは易く行うは難し、でも人生に目的が有るのと無いのとではまるっきり人生航路は違います。しかし死の土壇場で反転して悟るのも面白いものです。人は死の直前でも一瞬にして大変化できるものと感じています。人間はまた日々変身できる存在、禅でも浄土真宗でも瞬間瞬間の命の刻みといっています。瞬間瞬間命が生まれ変わっていると鈴木大拙先生もおっしゃっておられます。本当だと思います。わたしは人生なんて大したことない、しかし誰にでも宇宙と同じ広さをもっているとてつもない素敵なものだとも思っています。