今朝も床の中で考えた,「希望」ということについて。最近、ヴィクトール.フランクルの「夜と霧」やサンテ.グジュペリの「星の王子さま」から引用されることが時々目にする。それは世界が行き詰まっていて皆なが不安だから、言葉やフレーズによって元気になったり勇気ずけられたいからだろう。言葉は生きていてエネルギーをもっているので、実際、旨いものやストーブ以上に効果があることもある。特に精神的にダウンしているときは旨いもの出されたって食う気も味もしないだろう。最近、オウム真理教から分離した元幹部が開いた名は忘れたがそんなものが会員を増やしているらしい。セクトや新興宗教が信者を増やしているのは当然だろう。既成の宗教が悩める者を済度してないのだから、このような不安な時代にセクトや新興宗教はそれが目的なのだから若い人たちが飛びついて当然でしょう。既成の宗教だって創生当時は新興宗教でそれなりの迫害を乗り越えて既成となったのです。ブッダだってキリストだって生きているときは宗教以前の生きた人生の師に過ぎなかったのです。常に新しい師が出てその中から既成になっていくのは異常でも何でもなく正常でしょう。現代はほとんど新興宗教やセクトに対して迫害はないのであまり話題にならないうちに信者を伸ばし伽藍が建ってる場合もある。現代人は生きる上でどのような「希望」を胸に秘めているのだろう。フランクルはアウシュヴィッツというある種の極限状況のなかで生きることを止めて自殺したり、狂ったりした者と最後まで生き抜いた者との違いを精神分析者の目で考え記録をした。それによると日常の些細なことを大切にした者、泥靴を毎日ぼろきれで磨く、ガラス片でヒゲを剃る者、服を修理して長持たせた者など。また自分はどうしても別れた息子と再会するまでは生きるという強い意志を持ち続けた者、3/4できている論文をどうしてもここを出て完成したいという願望、など自分を放棄せず希望を持ち続けた者が長いので4年の収容所生活を生き抜いた人たちの存在のありかただったという。気が狂ったり、自殺したり、体力より早く逝った者はすべて「希望」を失った者だとフランクルは観察しています。彼自身収容所で妻と二人子供、彼の両親を亡くしています。彼の極限状況での自分の専門の人間観察への透徹した目と人間愛が些かも揺らいでいない、しかも決してユーモアのエスプリを失わなかったことがわかります。彼は「夜と霧」のなかで決してナチに対する呪詛を表していません。専ら極限状況のなかでの人間観察に終始した記録だけをかいています。今の世相、特に原発で家を追われ仮設に暮し農業や稼業の再開が不可能で歳をとっている方々が「希望」を見つけ出すことができないものかと案じます。知り合いの30年営々と築いた乳牛飼育をしていた66歳の子供のいないご夫婦の奥さんは当初鬱になっていましたが、2か月半にわたって知り合いの同業者の牧場を3,4軒手伝って大分元気になりました。歳で全く新しい土地で乳牛の再出発は無理なのでせめて自分の土地を買って自給自足のささやかな農業をやるべく目下土地探しに北は北海道から南は広島まで行きました。まだ理想の土地は見つかっていません。しかし最後まで農業から離れないという「希望」を抱いています。彼らは66歳でも30年という経験が支えになっているのでしょう。また農業を最高の仕事と思ってもいるのでしょう。大抵の被災農家は余所に土地を見つけて再出発の意志と経済的な裏付けを兼ね備える人はそうはいないでしょう。そのような人たちが「希望」を抱くとすればどんなものだろう。孫の成長だろうか、子等が農業を離れて安定した企業に勤めることでしょうか。それとも被災者全体が幸せを再び得ることだろうか。環境が何度か変わったのが原因で亡くなった方々、絶望の末自分で命を絶たれた方々、このような環境でお年寄りが「希望」を持つことの難しさは計り知れないものでしょう。私はあと2ケ月で77歳、些細なことでもそこに喜びをもって最後まで何らかの進化をしたいと念じています。