今朝は7時半に出発しました。国道を通って郊外に出るのに30分かかりました普通10分ぐらいのところ。暮れというよりこの時間帯は混むのでしょう。しかしラッシュを抜けると割合スムーズにいきました。心配したのは路面の凍結です。しかし前日天気がよく乾いたせいかほとんど心配なく普通より20分ぐらい多くかかって病院に着きました。かなり緊張して運転しました。4時ごろ郡山に着きました。途中眠くなったので4,5年前同じ道路で二人して居眠りして時速60㎞でガードにぶつかったことがあり中間地点の‟道の駅”で止め少し休みました。眠りはしませんでしたがクルマを止めて休むことは非常に大事です。あとはなんとか無事に帰りました。病院から国道にでてすぐクルマが流れないと思ったら黒い中型車が完全にひっくり返って道路をふさいでその1分ぐらい後救急車が到着警察が整理をはじめたので前へでれました。運転は多分若者一人で割れた窓から出たとみえ立っていたので怪我は大したことはなかったようでよかったです。1ヶ月半にいちど診察にいきますが無事に帰ると本当にほっとします。私はどうも事故を起こすタイプのようですので毎回神に祈って出発します。ケータイをかけながらの運転をみると心の中でバカヤロウを叫びます。そんなわけで実に疲れました。2時間ほどコタツで横になったら少し元気になり屋根裏に上ってブログを書いています。サンフランシスコに住む二人の息子をもつ家族から彼らのWishesが届いてました。原発の発生のときもメールもらいました。旦那が高校のときパリにホームステイにきましたが気が弱くノイローゼになり彼の親と共通のアメリカ人が私たちにat homeの歓迎をしてくれと連絡がありウィークエンドに同級生の女の子と一緒に我家に何回かわたしの家族のようなフランス人カップルも1回、また別のフランス人が10人ぐらいのホームパーテイをして二人をよんでくれすっかりノイローゼがなおり楽しいフランスでのホームステイを終ったようです。それからわたしの推測ではハーバードの法科をでて香港で英語か法律かを教えてから東京の国際法律事務所で2年経験をつみアメリカでいろいろな職業に従事しセナター(上院議員)の選挙の応援でワシントンにいました。将来セナターになりたいとそのころいってました。彼は民主党です。もう7,8年前のことです。今、彼は何をやっているのかわかりません。奥さんは良妻型で海洋学か生物学の研究者と記憶しています。高校生で出会って今は50ぐらいではないでしょうか。まあこうして30年忘れないでいてくれるのは嬉しいことです。私は何国人という区別はあまりありません。根本は人間の質です。心が通じ合うことが気持いいのです。お互い利害なんてありません。ただ人間がこころで繋がっているということが嬉しいです。お互いの国が険悪にならないことを祈ります。パリ時代太平洋戦争のとき部隊長だったという中国の鍼の先生によくしてもらいました。日本人にたいしてよい日本人と悪いの半々だといってました。人間気持が通じ合うと国籍は重要ではなくなります。ただ国も個人も利害がある場合たとえば国際結婚が離婚になる場合は日本人同士とは一味違ったものになるでしょう。いずれにせようまくいってるときはいいのですがこじれた時の修復です。別れてしまうのは簡単です。しかし長い付き合いを修復維持するのはむずかしいです。わたしも長い付き合いがなんとはなしに切れた例も2,3はありますが、わたしの方の理由は実行できないする気もないことをわたしほど言葉を大切にする人間は少ないと思っていますがそれを知らないのか信じられないことを平気で嘘をつくその人間性の本質みたいなものに嫌悪を感じてしまうともうなかなか許せなくなくなります。自分が大人になりきれない人間であることはわかりますがこの点がわたしが世の中で成功できない最大の理由でしょう。この歳までくると観念しています。でも残念ではあります。西部 邁氏の「国民の道徳」には戦後の教育に宗教がうとんぜられはずされていることが躾けの根本が喪失した理由といっています。宗教を何々教といった具体的なことではなく人間が何故長いあいだ宗教を必要としてき全ての道徳の元をなしているということの重要性を教える意味での宗教のことです。お世話になっている教会を守っている奥さんとお付き合いして6年ぐらいになりますが本当に強く朗らかです。宗教が民族、部族対立の原因にしばしばなっていることは残念ですが各宗教を信じている本物は他宗教に対して寛容だと思いたいです。共産主義も70年くらいで崩壊しましたがその間禁止、弾圧を受けていたロシア正教の僧侶たちはそれに耐えました。そして人々の深層には信仰は消えてなくソ連が崩壊した時人々は真っ先にロシア正教教会に集まりました。2,000年も続いたのにはそれなりの理由、価値があるはずです。宗教が無ければ美術、音楽、文学は生まれなかったでしょう。たとえ教義に反対してもすでに何千年も人々の深層に入って人間を規制しているのです。祈る姿ほど美しいものはありません。映画ですがジャンヌ.ダルクが出陣の前教会で祈る姿、自分を超える力が必要なときはみな神に祈るのではないでしょうか。人間が祈らなくなってきました。元旦に神社では家内安全を祈願しますが。しかしもっと真剣な祈りは少なくなったのではないでしょうか。歳をとると今まで見えなかった人の苦労や自分に向けてくれた愛などの片鱗がわかってきます。昔の人は若い時からそれが見えるように躾けられたのでしょう。一生というものは一瞬みたいなものですが生まれてきた意味は何なのかそして何が価値なのかこれは宗教でないと深いところでみつけられないのではないだろうか。宗教の書はぎっしり生きる知恵のつまったものではないだろうか。