日本の文化の根底には無心の境地に入らねば認めないという伝統があった。その理由に日本人は゛我(が)"を意識の捉われとみて自在闊達の境地に達するには超えねばならないものとした。剣術には無双剣か無想剣かはっきりしないが気がついたときには相手が吹っ飛んで気絶していたというような凄いものらしい。剣士は生涯に一度できたら本望と言うくらい難しいとのことである。雪舟は筆を摂る前に尺八を吹いて心を悠久に遊ばせてから始まったと読んだ事がある。そうゆう世界に類がない文化の精神は日本が欧米化を進め覇道の優秀な生徒になってから急速に姿を消したものである。日本には一神教のような宗教がなくてもすべての文化がこの゛無心"の境地を目指すことにより社会は清く美しく簡素にしっかりしたモラルで回転できたと思います。しかし敗戦後特に゛我(が)"を主張しなければものが存在しないと思うようになり我(が)の肥大社会が到来した。゛無心"など目指したら消し飛ばされてしまう。そして゛無心"を叫ぶ人もいなくなった。アートの世界みても肥大したエゴのぶっつかり合い、嘗てアートは精神や魂の昇華のためにありましたが特に現代は奇妙なもの度肝を抜かれたいと見にやってくる人も多い要するにパフォーマンスなのである。その作家の考える一面だけその時だけわかってもらえばいいと思ってやっているのである。社会のテンポが速過ぎるので瞬時を捉えなければもう遅いのである。美術館での古典の展覧会が長蛇の列ができるのは人はそこに普遍なものを確認することと人間がかくも高いレベルまで到達しえたという感慨にしばし耽りたいという欲求なのだろう。それは即ち精神と魂との昇華でもあります。嘗て芸術には真善美が含まれているといわれ作品によってはより真のパーセントが多かったりまた善のパーセントが多かったりと常により高い境地を誰でもアーチストは目指しました。そしてそのレベルの判定には゛無心"の境地にあるかということが暗黙の了承事項であった。それは絵画ばかりでなく刀鍛治、陶芸家、剣士、茶道などすべてに共通した境地であった。それは宗教とさえ言えるかもしれない。この゛無心"という価値をもう一度日本人は思い出し新しく日本を作り変える必要があると心底考えます。力で力をねじ伏せ続けるところに決して平和はこないでしょう。だれでも文句のいいようのない価値の基準にのっとる社会を実現する必要が特に今日あります。言うは易し行うは難し、ですがまず想うことが始まりであるでしょう。わたしは批判、文句ばかり言ってますが制作にできるだけ反映させる努力とブログで社会に参加しているつもりですが勉強不足であることは認めます。恥をかきながら死ぬまで頑張るつもりでいます。宜しく。