昨夜たまたまテレビで水俣のドキュメンタリーフィルムと現在の取材を織り交ぜての番組がありました。日本発の公害の悲惨な事実が世界にひろまったきっかけになった事件でした。日本は産業でのし上がっているがこのような非人間的な犠牲の上に成り立っていると喧伝された。やっかみも多分にあったでしょう。20世紀の物質的繁栄の陰で弱者の犠牲は粛々と進んでいたのです。陽の当たる場所があるということは必ず陽の当たらない場所が生じるということです。社会の二極化はこれを象徴しています。水俣病を不知火海全体に亘って取材し被害者、熊本大医学部の医師と取材したカメラマン名は忘れましたがストックホルムの国際会議でマニフェストしました。これをきっかけにばらばらに行っていた水俣病の研究と闘いが一本化されていきます。このカメラマンの活躍が大きな力になります。その頃カナダのインデアン居住地で病気が発生し調査したところそこにあるパルプ工場の廃液が沼沢地に垂れ流しそこの魚を食するインデアンが犠牲になっているということです。このカメラマンが中心になってカナダで水俣のフィルムを多くの場所で上映し市民を動かしとうとう政府も公害を認め水俣のように大事に至らぬ前に処理できたということです。、薬害、放射線害その他のものを身体に受けて人生を台無しにしたのの多さも20世紀の特徴です。南米などの公害は想像以上に広がっている可能性がありそうです。いまさら現代のシステムを変えるといっても不可能かもしれません。それで強者は潤っていますから。ガンジーも云ってたように社会のテンポが速過ぎる。出来るだけ自分で必要なものは自分でつくる。そして人生の目的を真理を掴むということにおかなければと言い続けました。ガンジーやマザー.テレサなど人間に希望を与えてくれますが大勢は物質の繁栄を追いかけて楽して快適に生きようとします。社会が制限無く欲しいもの与え続けて地球の危機的状況になりその陰で犠牲になった人々がありいままでなかった人間の変質が感じられるこのごろです。70代の脚本家は若い人の書くものはどんどんストレートにぶっつけるようになり我々の世代のようなニュアンスはないといってます。人間が剥き出しになってきているということでしょうか。確かに日本がここ10年くらいで弱肉強食の様相が強まってきていると感じはします。そして美術誌などの内容がなくなってきています。作品そのものがどんどん色褪せていています。嘗てゴルフ場の芝生が人工的に色鮮やかに染められていることがあったそうです。そんな緑に馴れてしまえば自然の緑は気が抜けたように見えるでしょう。人工が進めば人は自然のニュアンス音痴になることだってありえます。巨大に増幅された音楽を聴きなれてしまえばシャンソンなど心に響いてこなくなるかも知れません。外見的に強いもの(音、色、味、臭いetc)を競っているうちに感覚音痴になってしまうでしょう。絵画みても暴力的な色彩の作品も目立ちます。人間を超えた感覚の増幅は人間からデリカシーさを失わせるでしょう。現代はデリカシーな人間が弱者となり引き篭もりなどに追いやられているでしょう。現代は日夜武器を使わない世界戦争をしているようなものです。20世紀の繁栄は陽の当たらない人々の犠牲を生みましたが最大の犠牲は地球そのものでありましたしまた人間全体例外なくお金様の奴隷となりました。ガンジーの提唱したものが如何に大切なものだったが身に沁みます。