前回の記事に、こんな趣旨のコメントをいただきました。
考えるきっかけを与えて下さってありがとうございます。m(_ _)m、心より感謝いたします。
ブログやYouTubeは、商品を売るためのものではない。
お金にすることが目的になるから、嘘や大袈裟な発信が増え、おかしな人たちが出てくるのではないか。
その意見を否定したいわけではありません。
実際、お金を得るために事実を歪めたり、必要以上に不安を煽ったり、再生数や売上のために過激なことをする人はいます。
人の焦りや弱さにつけ込み、高額な商品を売る人もいます。
そうした販売を擁護するつもりはありません。
ただ、この問題を、
「お金にしようとする人が悪い」
「売る人がいなければ問題は起きない」
という話だけで終わらせると、もっと根深い歪みを見落とします。
悪質な市場は、本当に悪質な販売者だけで作られているのでしょうか。
有料だから悪い、無料だから善良なのか
まず、分けて考えたいことがあります。
それは、
有料であることと、悪質であることは別の問題だ
ということです。
お金を受け取ること自体が悪いのであれば、書籍も、学校も、病院も、相談サービスも、すべて悪いことになります。
そんなはずはありません。
誰かが時間を使い、経験を整理し、責任を持って価値を提供する。
その対価としてお金を受け取る。
この仕組み自体は、何もおかしくありません。
一方で、無料だから誠実だとも限りません。
無料のブログ、無料動画、無料相談が、高額商品の販売につながる入口として設計されていることもあります。
もちろん、入口が無料であることも、その後に商品を案内することも、それだけで悪質とは言えません。
問題は、その先です。
何を提供するのか。
誰に向いているのか。
どこまで対応できるのか。
反対に、何はできないのか。
成果を出すには、どんな経験や作業量、資金、環境が必要なのか。
料金は内容に対して妥当なのか。
それらを説明せず、都合のいい未来だけを見せて売るから問題になるのです。
つまり、見るべきなのは、
「売っているかどうか」
ではありません。
どう売っているか。何を説明し、何を隠しているか。
そこです。
無料か有料かという分かりやすい二択だけで善悪を決めると、本当に見るべきものが見えなくなります。
「怪しい」と思いながら、なぜ買うのか
たとえば、
「1日10分で月100万円稼ぐ方法を、無料で教えます」
と言われたとします。
普通に考えれば、いくつもの疑問が出てきます。
なぜ、そんな方法を会ったこともない人に無料で教えるのか。
その人は、どこで利益を得るのか。
本当に月100万円を稼げた人は何人いるのか。
売上ではなく、利益はいくらなのか。
結果を出すために、どんな条件が必要なのか。
その人自身は、その方法で稼いでいるのか。
それとも、その方法を教えることで稼いでいるのか。
ここを確認するのは、相手を疑って攻撃するためではありません。
自分のお金と人生を守るためです。
ところが実際には、
「怪しいと思わなかったから買った」
という人ばかりではありません。
怪しいとは思っていた。
話がうますぎるとも感じていた。
それでも、
「0.01%くらいは本当かもしれない」
「今回は違うかもしれない」
「ほかの人は失敗しても、自分ならうまくいくかもしれない」
そんな期待に動かされることがあります。
このとき、人は事実だけを見ているわけではありません。
自分が信じたい未来を見ています。
買っているのは、情報そのものではないのかもしれません。
「この人なら、自分を変えてくれるかもしれない」
「これさえあれば、今までの遅れを取り戻せるかもしれない」
「苦しい状況を、一気に逆転できるかもしれない」
そんな希望や期待を買っている。
だから、説明に穴があっても目をつぶる。
都合の悪い条件が書かれていても、自分だけは例外だと思う。
本来なら確認すべきことを、
「信じたい」
という感情が追い越してしまうのです。
会ったこともない人に、判断まで預けていないか
考えてみると、不思議な話です。
会ったこともない。
自分の生活も、資金も、経験も、得意不得意も知らない。
信頼関係もできていない。
そんな相手から、
「あなたには、これが必要です」
「あなたは、この方法なら成功します」
と言われて、そのまま受け入れてしまう。
本来、その人が言えるのは、
「この条件に合う人には、役立つ可能性があります」
というところまでではないでしょうか。
それを超えて、
「あなたは変われる」
「これで成功できる」
と断言するなら、売る側には、その言葉に見合う説明責任があります。
しかし同時に、受け取る側も考えなければなりません。
なぜ、この人は自分のことをほとんど知らないのに、必要なものを断言できるのか。
自分は相手の何を信頼しているのか。
実績の数字なのか。
話し方なのか。
有名であることなのか。
優しい言葉をかけてくれたことなのか。
それとも、
「この人に任せれば、自分で決めなくて済む」
という安心感なのか。
人は疲れているときほど、誰かに答えを決めてほしくなります。
自分で調べるのは面倒です。
比較するのも疲れます。
失敗したくないから、強く断言する人に従いたくなります。
その弱さを利用して売る側には、重い責任があります。
これは間違いありません。
ただし、
「騙された自分には、振り返ることが一つもない」
で終わると、販売者が変わっても、同じことが起きます。
前の人は悪かった。
では、次の人はどうなのか。
今度の人は優しそう。
今度の商品は安い。
今度こそ本物かもしれない。
そうやって、同じ期待を別の相手に預けます。
問題の人物から離れても、判断の仕方が変わっていないからです。
買う人がいるから悪質だ、という単純な話でもない
ここで誤解してほしくないのですが、
「買う人がいるから悪い」
「騙された側にも同じ責任がある」
と言いたいわけではありません。
売る側と買う側の責任は、同じではありません。
情報を多く持ち、
人の心理を学び、
言葉を設計し、
不安や期待を動かし、
申込みまでの導線を作っている側。
その側の責任のほうが、明らかに重いです。
知らない人と、知っていて利用する人を、同じ重さで扱うことはできません。
ただ、
悪質な販売者を市場から一人追い出せば、問題が終わるわけでもありません。
「簡単に変わりたい」
「すぐに稼ぎたい」
「面倒な努力は避けたい」
「自分だけは例外かもしれない」
という期待が残る限り、その期待を刺激する別の商品が現れます。
「簡単」が売れるなら、もっと簡単に見える言葉が作られます。
「誰でも」が売れるなら、条件はさらに隠されます。
大きな数字に人が集まるなら、売上はより派手に見せられます。
不安を煽るほど売れるなら、未来はより悲惨に描かれます。
市場は、売る側だけで作られているわけではありません。
買う側が何を欲しがり、何に反応し、何を信じたがるかによっても形を変えます。
この事実を見ることは、被害者を責めることではありません。
むしろ、同じ被害を繰り返さないために必要な視点です。
善人を探すより、判断できる自分になる
結局、本当に必要なのは、
「この人は善人か、悪人か」
を見抜く特殊能力ではないのだと思います。
人の本心を完全に見抜くことはできません。
誠実そうに見える悪質な人もいます。
言葉は不器用でも、丁寧に仕事をする人もいます。
有名だから正しいとも限りません。
無名だから危険とも限りません。
無料だから善良でもなく、
有料だから悪質でもない。
だから見るべきなのは、印象よりも構造です。
誰が、どこで利益を得るのか。
示されている実績は、売上なのか利益なのか。
何人中、何人が結果を出したのか。
結果が出なかった人について説明されているか。
成果が出るための前提条件は何か。
できることだけでなく、できないことも示しているか。
質問したとき、不都合なことにも答えるか。
決断を急がせる理由は、本当に買い手のためなのか。
販売者が責任を負う範囲は、どこまでなのか。
こうしたことを一つずつ確認する。
その地味な作業が、自分を守ります。
売る側には、
誤解させない責任があります。
必要な条件を説明する責任があります。
都合の悪い事実も隠さない責任があります。
受け取ったお金に対して、誠実に価値を提供する責任があります。
買う側には、
自分の期待と事実を分ける責任があります。
分からないことを調べる責任があります。
相手の断言を、そのまま自分の答えにしない責任があります。
繰り返しますが、その責任は同じ重さではありません。
情報と力を持っている販売者側の責任のほうが、重い。
それでも、
売る側だけを悪者にして、受け取る側が考えることをやめれば、同じ市場は残ります。
今の販売者が消えても、別の誰かが同じ期待を売り始めます。
だから、一度だけ立ち止まって考える必要があります。
自分が今見ているのは、事実なのか。
それとも、
「こうなってほしい」
という未来なのか。
騙す人をなくす努力は必要です。
同時に、
騙されにくい判断力を持つことも必要です。
どちらか一方だけを語っている限り、この市場の歪みはなくならないのだと思います。