愛する魂の冒険者たちへ
ある日、禅寺として
めちゃ有名で
けんちん汁の発祥の地でもある
「建長寺さん」にうかがって、
お参りした後にご飯食べていました。
食事中に田宮さんから、
「西田さん、
禅について外国の方に
ひとことで説明するとしたら、
なんと説明しますか」
と尋ねられました。
あまりに高難度の
いきなりの問いに、
鼻からけんちん汁と
蕎麦の束が吹き出そうになりました(すみません)
悟り、
生活の中で悟ること、
なんて言葉が浮かんできますが、
それは、言い換えただけだなあ、と。
で、
「目の前の今ここに集中すること」
って言葉が浮かんできました。
「いつも現在に存在していること」。
と、話したら、
田宮さんは深くうなずいていましたよ。
「神道の中今(なかいま)の精神と
共通するものがありますね」(田宮さん)
中今(なかいま)の精神っていうのは
「全過去と全未来の中心にある
今の一瞬一瞬を
感謝とともに生きること」。
さすが田宮さん〜〜〜。
「目の前の今ここに完全に集中すること」
これは、
「過去と未来にまつわる心配」から
自由になることでもありますね。
わたしたちは、ふだんほとんど
・過去への後悔=持ち越し苦労、
・未来への不安=取り越し苦労、
この二つの苦労を
心のどこかに抱えています。
で、苦労を四六時中、
持ち越しているか、
取り越しているか、
どっちかをしていること、
けっこう多いみたいなんですよ。
禅には、
而今(にこん、じこん)
という言葉があります。
これは、今この一瞬に集中しきること。
すべてが生じて、
すべてが消えていくのは
今ここにあるとわかること、
というような意味のようです。
このことが深く体感できると
悩みや苦しみから解放されますね。
なので、過去や未来に飛んじゃったら
「いまここ、いまここ・・・」とか
「じこん、じこん!」
「にこん、にこん」
「なかいま、なかいま・・・」
といった、
自分にとって
「今を生きていること」を
思い出させてくれるコトダマをつくっておいて、
唱えてもいいような気がします。
もともと禅は
サンスクリット語の
「ディヤーナ」から
「禅那」(ぜんな)となって
「禅」となったそうです。
ディヤーナとはヨガでは瞑想を指します。
「お釈迦様もヨガの行者だったんですよ」
とは沖ヨガお師匠さんの佐藤先生の言葉。
ディヤーナは
完全に今に集中することで、
ころころ動く心が動揺しなくなって
完全集中した状態で・・・
なので、座禅もそうですが
瞑想して
「今に完全集中」の状態にあること、
限りなく「純粋な今ここ状態」になることを
目指すわけです。
禅寺さんはどこもピカピカに掃除されていますが、
掃除も、
自分の頭を空っぽにして集中するのに役立ちますよね。
掃除は「動く禅」なので
「動禅」なんて言葉もありますよ。
どうぜん。何があっても動じない。どうぜん(!)
目の前にある食事に
感謝して集中して食べるのも
禅になる。
仕事もそうです。
完全に没入し切って
目の前の仕事に没頭している時、
その人は神仏の領域に近づくようです。
実業家でも、
芸術家でも、
農家のかたでも、
漁師の方でも、
医療関係の方でも、
会社員でも、
主婦でも、
研究者でも、
教育者でも、
どんなジャンルでも、
こういうかたっていらっしゃるんですよね。
この没入状態をヨガでは
サマーディと呼び、
仏教では三昧(さんまい)というそうです。
なので、蕎麦職人の方が
おいしいお蕎麦をうつことに没頭して
集中し切った状態を
蕎麦ざんまいっていうんですよ、
と教わりました。
ってことで、この考え方からすると
禅は、
「生活の中で悟ること」
「本当の自分であるための精進努力」
ともいえるかもしれません。
これは肉体を持ったままでの次元上昇そのもので、
わたしたち全員に可能です。
「全員がそのためのご縁を与えられている」と教わってまいりました。
特に今は、こうした情報が
どんどん広まっているので、
次元上昇が加速しているんですね。
ありがとう、ありがとう、いまここ、いまここ。
ではすてきな1日を!
今日も命にありがとうございます。
西田普
にしだあまね