一年に一度の健康診断でA判定を貰えない皆様、こんにちは、かくいう私もA判定(アミラーゼで引っかかる)を貰えずに憤っている一人ですが、私の場合はbmiが適正は当然、体脂肪率一けた台を目指して日々修練を積み、医者さんに「一体何やっている人」と問われるぐらい熱をいれ過ぎて心拍数が少ない、白血球の数が基準に満たない、γ-GTPが基準よりも低いなどやりすぎ不健康です。

 

 

ルイス・ネリがまたしても体重超過を犯した。超過は1ポンドというから454グラムになる。いうまでもなくここに出てくるOverweightは太り過ぎ(メタボリック)の話ではなく一般の人であれば500mlのペットボトルの水分をサウナにでも入って落とすのは、それほど難しい事ではないと考えられるが、絞り切った体から500mlを削るのは、まさに身を削る行為になるのだろう。それは対戦相手も同じで計量をクリアした選手は練習と減量で身を削り予定されていた試合の前日までに体調を作り上げているから超過(相手の調整ミス)によって試合がご破算になるのは悲劇以外何物でもない。それのみを考えると、とんでもないことをしてくれた(自分に降りかかることであれば怒りしかわかないだろう)という考えがわいてくるという一般的な共通意識はあるが、厳罰(追放)を求める声、それは賛同しかねる。 

 

 

体重超過は全体でどれぐらいの頻度で起きているのだろうか?もしある程度の発生率があるとすると印象も変わってくるでしょうがデーターは見たことがないのでわからない。超過に関する注目は大体、世界タイトル戦等の上位の試合に限られていて、其れだけだと繁盛に起きる事象ではなく、一部の人が犯してしまうものに見える。その一部を排除すれば体重超過を一掃できるのだろうか、残念ながら私はそう思わない。それはいたちごっこであって本質の解決にはなっていない、本質を解決しないで一部を排除してもまた別の一部がでてくる。全体が判らないから上位の試合に限定して思考していく。

 

 

賛同しかねる第一の理由はメモ前にも指摘したように厳罰によって健康被害に繋がったら本末転倒ということで厳罰には消極的、2つ目はキャッチウェイトもそうですが減量は天賦の才との差異を軽減させる有効な手段であるということで、勝負の根幹に関わる部分はなるべく#1いじらない方が適切ではないのか、権威が脊髄反射的な衝動で罰則の強化を図るのは妥当なのかという疑問がある。勿論、1と2には不健康の否定と承認という相矛盾があることは理解して書いているのですが、天賦の才を持たない方が過酷な減量を引き換えに勝機を見出すとするのはそれしかないということを考えると斟酌してしまう。だが流石に生命に関わることは妥当性を欠くので超過があった場合は合理的に判断して今回のロドリゲス陣営のように中止することで対応したほうが適切

 

 

#1

体重制の競技で減量がチキンゲームになるのは優劣が関係しているからで、それに天賦の才を持つ選手までが参加して高い評価に繋がっているから熾烈な競争になる。公正の兼ね合いを考えると例えば「天賦の才がある方とない方では実力に差異があり試合も予定調和だから公正の為に天賦の才を持つ方には権威が相当の階級を指定して規制」は妥当なのだろうか、公正さのみを考えると妥当だと考えられる。それは体重制度のことを考えると無差別級(オープンウエイト)でないということは本来は不自然で権威の介入で重量級という天賦の才が生かされていないということになる。体の小さい天賦の才は階級制度で庇護されて重量級という天賦の才が庇護されないのは同じ天賦なのにおかしい。しかし無差別級で体重50キロの人が100キロの人に圧倒される予定調和もどうなんだろう。100キロの人に公正の為に50キロに体重を合わせろというのも倫理的ではない逆もまた然り、それなら体重制度を設けて人工的な自然(不自然)を作り出したほうが競技的には公平感を出せて良いのではないかが妥当だと考えられるならば「天賦の才を持つ方には権威が相当の階級を指定して規制しろ」の改変(権威の介入)も能力の差を埋めるという理屈は同じなので成立するし、そうなれば病的な減量から解放されて厳罰よりも体重超過の軽減につながる効果になる。しかし天賦の才をだれがどのように査定するんだ(難しい問題だがアマチュア経験がある選手をプロモーターはある程度能力を見越してスカウトしているので不可能ではない)恣意もはいるだろう(そりゃそうだ)差異が売り物になっているから面白いのだろう(確かに)だからいらん事をするな(だろ=営利が第一)、これは少しおふざけが入っているが階級制は経験知による漸進的(約170年)なものだから妥当性があると認識されていると考えられる。それを脊髄反射的な衝動で改変するのが安直とするなら階級制ができたことで生起した能力の差を填補するための減量を躊躇させるような罰則の強化も安直なのである。現状は天賦の才が高い評価を得るための過酷な減量の参加もルール上は何一つ問題はないけどモラールがどうのこうのいう人がいるので、そういうことなら批評にて対応しないといけない。

 

ベアナックルにまで遡ってみれば1681年クリストファー・マンク公爵と肉屋さんとのベアナックルの試合があったという記事が残っていて、軽量級(light weight)は1780年代に活躍したイギリスのカレブ・スティーブン・ラムズボット( Caleb Ramsbottom ボールドウィン )が最初の軽量級と知られているが無名の人もいたでしょう。1719年ジェームスフィッグがヘビー級初代チャンピオンに、1885年にはジョンLサリバンが近代ボクシングルール(ロンドン・プライズリング・ルールズ)のチャンピオンとなった。ミドル級は1884年ノンパレル・ジャック・デンプシー、これを見てもわかるように無差別からはじまり、2階級、3階級・・と増えていって8階級(当日計量の時代)、それで今は17階級(前日計量&リバウンド)と細分化している。ちなみにベアナックルチャンピオンのダニエルメンドーザは無差別時代で170センチ、ジョーゴスは173センチという小柄

 

 

過去、体重超過をした人を調べてみると、北米、南米の人が目立ち、超過を繰り返ししている人も何人かいる。性質によるものだろうか、意図的なのだろうか、個人的な考えではどちらにしろ既定の体重を作れていないのだから失態ということには変わらないが、17階級の4団体68タイトルある中で数としては人為的過誤の許容範囲だと思うから、いやらしい話、意見調整して金で解決するのが妥当ではないのか・・・などと著名人が口を滑らすと不謹慎だと集中砲火を浴びてしまうかもしれないし、それでは超過を犯した相手は反省しないだろうという声も出てくるかもしれないが、超過した人が反省したところで超過の本質は反省しないし期日を守って体調を作った人からしても反省されてもうまみがない。それならお金で解決した方が幾分かは救われる。トラブルが起きると、トラブルの元になった選手にスポットが当たるのは仕方がないが、興行の責任者である興行主の顔はメディアを通じてあまり見えてこない。映画、仁義なき戦い代理戦争に「泥棒の番しているやつがおのれで泥棒して誰がケツを拭くんじゃい」というセリフがあり川谷さんが演じるヤクザが木刀で殴られていたが、その回答として「あんた」と指させばさらにどつかれていたでしょうが、最終的な責任はあんたにあるのです。興行主は選手を使い金儲けをしていて全試合に責任がある。責任があるのだから試合が行われないときの保証も最初から決めておいて、その損失も補填しないといけない。そういう話が行われていて仕組みが出来ていれば欠損になるとプロモーターは痛手を負うので管理に注意を払うようになる。今回の場合はTGB Promotionsになるが、それに懲りたらもう使わなくなるだろう。しかし使った方が得ならまた使うだろうと市場判断に委ねた方が権威の仕事しています感をだすためだけの決定よりは正直で良い。権威の仕事しています感ってどういうことだよですが、この件の本質は良質な人材と階級制度が関係しており、階級制度の規律を守れないだらしない人材がいるという話であるから、だらしがない人を排斥しても階級制度がある限り超過も潜在的に残り続けるそれに市場判断に委ねた方が権威のあいつは良くてこいつは駄目のご都合主義を露呈せずに不体裁にならなくて済む。権威が超過に抜本的に本腰を入れると階級制度の廃止になるので二度と超過を見ることはなくなるが、そうなると非難している人たちも困るだろうし権威もそんなことはしないというのは結局、解決するつもりはないということである。

 

 

訂正 仁義なき戦い広島編としていましたが代理戦争の間違いでした。広島編では船に縛られて泳がされていました。お詫びします。

 

極論、金で解決とは拝金かという非難も聞こえてきそうだが、そうした非難の念頭には、これは職業倫理に欠ける問題だというのがあるのだろう。それはその通りで、私も「だらしがない人」と書いているように体重制の競技なので規定の体重を守るのは責務ということは間違いないが、減量を実直に守れる人が多数なので「だらしがない人」になっているけれども、この職業倫理は力石徹的(あしたのジョー)なストイックが要求されており、超過への憤りは仕事に穴をあけて他人に迷惑をかけたという心理にある。そういうことでいえば怪我、病気も健康管理を怠り試合を欠場し興行に穴を開けたという部分では何も変わらず、この場合も無理を押してでも出場することが美談になるのだろうが、「剥離骨折だと?(熱でもかまわないが)そんなものは唾つけとけば治る、試合に穴開けることがどれだけの人に迷惑をかけると思っているんだ」単なる力石徹的ストイックの空想だが、ワイドショーが好きなアマチュアスポーツに対するスキャンダルにこういうのが出てきたらものすごく燃えて焼尽してしまうだろう。倫理も切り口次第で印象は変わるということだ。力石徹的ストイックという職業倫理には組まれた試合に穴をあけないというのが含まれているというのは少々体重が違っていても生活のこともあるし目のまえにいる相手からは逃げられない意見調整し対戦している人の方が、これも多数だということで理解できるのではないだろうか。それに照らし合わせると僅か1ポンドで試合を拒否するのは職業倫理に反するということにもつながるので職業倫理を前面に押し出して厳罰というのもどうなのかと考えてしまう。だから私は合理的に考えて試合を中止にするのも反対しないし、拝金かということに対してもボクシングを職業に選んでいる人の動機の半分は金とその希望にあるのだから意見調整をして試合に挑む人がいることにも反対しないが、誰かが責任を取らないといけないということならば「あんた」が責任をもって管理に注意を払い対応しないといけないとしている。例えばセハも超過して、この興行は二つの超過を出しているが直近の試合で長所を潜めたリゴンドウに倒されていているセハの体調管理は大丈夫なのかと、そういう管理をしていれば同興行で2件の超過は出なかったのではないだろうか。

 

 

ネリはこれまで4回、一度目の計量を失敗し、2回目の失敗で2度計量失格になっている。キャリア30戦の中で2回の計量失格、これをどうとらえるのか、最初に悩んだのは、これら体重超過の扱いを過誤にするのかヒューマンエラーとしてとらえるのかである。考慮の上で不誠実ゆえにやらかしてしまう人もいるでしょうから人為的過誤にしたが、病的な減量にまつわることなのでヒューマンエラーの方もいて、コミッションエラーやオミッションエラーの結果、超過になった可能性も否定できないが、権威が罰則を設ける以上、あいつは良くてこいつは駄目のご都合主義というわけにはいかない。たとえそれが力石徹的ストイックのヒューマンエラーであっても一律に罰則を順守する。権威が罰則を強化し制定するということはそういうことだ。

 

 

ところで厳罰の効果はいかほどなのだろうか?結論としては有意はあるけれども・・・ということを見ていきたい。飲酒運転の惨事があり連日、メディアに報道されると並行に新たに罰則が設けられ強化もされた。飲酒に関する行政処分 改正(2002年、2007年 2009年 厳罰化)危険運転致死傷罪(2001年)その結果、飲酒に纏わる事故が2000年には26000件発生していたのが2015年には3500件に減少、飲酒に纏わる死亡事故も1200人が200人と共に減少している。これには副次的な効果もあって1989年の習慣飲酒者55%に対して2011年の調査では35%に減少と国民の健康意識にも影響している。酒類合計消費量(ただし酒類市場は3兆円を保っている)も減っているのですべての人に恵みがもたらされたわけではないが劇的な効果があったと言ってよいだろう。これを見ると罰則は効果があるとしなければならないが訝しさもある、健康に関する豆知識を書いた理由もそこで、罰則は飲酒をして車の運転をしてはいけないであって飲酒を禁止しているわけではないにもかかわらず習慣飲酒者自体が減っている、これはどういうことか、勿論、厳罰化の影響で環境が変わり、これを機に禁酒を決意した人もいたでしょうけど規範や生活様式に変化が起きたのではないだろうかと仮定してみると、ここを見ると「若者の酒離れ」、本当の理由とは?2016年の統計で20~39歳の若年層は習慣飲酒者は(20~29 10%、30~39 29% 平均33.3%)減少していて、理由は収入が厳しいから飲酒している場合ではないとある。(2002年の30~39歳 42.3%)

 

平成22年国民健康・栄養調査結果の概要 

      男性飲酒(若年層)  男性喫煙

1989年 55.6%        45%

1993年 46.3%(25.8%) 44.8%

2000年 50.8%(27.8%) 47.4%

2002年 49% (23.8%)  43.3% 

2006年 35.4%(15.1%) 39.9%

2008年 35.9%(19%)

2010年 35.4%(14.7%) 32,2%

2016年 33.3%(10%)   30.2% 

 

 

平成30年中の交通死亡事故の特徴等について

わが国の飲酒パターンとアルコール関連問題の推移

 

若年層の習慣飲酒自体が軽減してきていることは事実だが、しかし2000年26280件起きていた飲酒に関する事故が僅か3年で16374件、2008年には6219件と8年で2万件減少、一般事故も2004年から減少傾向にあり95万件あったのが2015年には53万件になっていて有意はあるかもしれないが若年層の飲酒離れだけが飲酒運転や一般事故を雪崩れ的に減少させている説明にはならないが、少年の道交違反送致人員及び道路交通法違反取締件数の推移をみると昭和60をピークに減少、平成2年(1990年)ごろから若年の交通死傷者数も減少、負傷者も平成12年(2000年)のころから減少と流行というか車の乗り方自体に変化が現れ、30歳未満の単身勤労世帯の自動車普及率の推移「1999年から2009年の間に男性では63.1%から49.6%へと13.5ポイント減少」でもわかるように免許所持者や自動車は増加しているけれども若年層の自動車保有数は減少している。その分、高年齢者の交通死傷者数は上昇しているので平成16年(2004年)まで事故件数は伸びているのだが死亡事故は厳罰化以前の平成8年(1996年)から減少傾向にある。話を整理すると暴走族による暴走行為の減少と共に多かった若年層の事故も減り、近年では飲酒や車保有という規範や生活様式にも変化が見られて事故減少の援助になったのではという推測、それに規範ということでは惨事を連日メディアが取り上げたということに奏功性があると考えられる。例えば少年の重大事件「増えている」78% 内閣府世論調査少年事件は減少傾向にあるのだが社会の耳目を集める凶悪事件が相次ぎ、それをメディアが連日報道すると増加しているような心理に陥るメディアの影響力という話だが、厳罰化は確かに効果はあるけど国民の何割が改正された刑罰を記憶しているのだろうか?厳しくはなったけど曖昧な感じで覚えているだけではないだろうか?それは刑法や判例を熟ししていれば危険運転致死傷罪の適用は案外ハードルが高いということも理解できるはずで、それに厳罰効果で飲酒関連の減少はわかるにしても一般事故も雪崩れ的に減少させている相関はなんだろうか?、当然、わざと事故する人は少なく注意しても起きるのが事故、それが約11年間で40万件近く減少している。ここらあたりが私が訝しく考える理由で、それは1970年代の第一次交通戦争での死亡事故の減少は環境整備(日本列島改造論の影響、信号機やガードレールなど道路の安全整備)と規範(罰則も含む)の向上によって減少していることが窺えていて、つまり長期の推移でみると罰則があるから交通事故の死亡者数が軽減したのではなく様々な要員が重なって減少しているとみることができる。それは受刑者 推移(景気との相関性がある)や他殺による死亡者数の推移も右肩下がりしているが、以前から殺人の刑罰には極刑も含まれている厳罰なのだから減少の要因は社会環境や規範の向上を示している。いわゆる消極的一般予防か、積極的一般予防の罰則か規範教育のどちらが犯罪や再犯を防ぐのか?という議論である。長期の推移を観察すると減少の要因は環境と規範が重要で罰則というものは規範の中の一つでしかなく(曖昧な記憶)罰則を設けたから減少したというものではないと私は考えていて、第一次交通戦争はインフラ整備が追い付かない状況でモータリゼーションになったので事故が多発していたが環境整備で減少、しかし50年代から免許所有者、自動車保有台数の増加(平成に入りATが増え)と比例的に1994年の第二交通戦争のピークまで上昇するが、これが比例的だとすると再度、減少するのも何かの比例にと考えると私は人口動態が関係しているとみていて、日本の人口動態を見ると2005年が人口のピークだが現役世代は1995年を境に減少して高齢者が増えてきている。また人口減でいうと2005年~2010年までに21万人減 2010年~2015年200万人減と無視できない数字になっている。このように複合的な理由と厳罰化が丁度、符合して雪崩的に減少していったのではないのか、それか40万人の人は一般事故扱いだが実は42万件の飲酒事故だったかもしれない。それが厳罰化で・・・と262の法則に照らし合わせると2千万人(一億人として)のやらかしかねない人がいることになるから、262の法則から考えるとあり得るけど一桁の2の人は厳罰化だけで適応するのだろうか?結局何が言いたいのかといえば積極的一般予防だけで犯罪等が無くなるとは言わないけれども、それは消極的一般予防も一緒で、その背景には複合的な要因があるのではないのか厳罰化したら解決するものでもないという意見。

 

 

道路交通事故の動向

道路交通事故の長期的推移

第1次交通安全基本計画

第2次交通安全基本計画

 

特定検診制度 2008年

1985年シートベルト義務化

アルコールチェッカー(2011年運送事業者に対して義務化)

居酒屋、炉端、パブの飲食業は2006年から右肩下がり

 

長々と書いたのにすみませんが、こうした議論が無意味になりそうな解決方法が目の前に迫ってきている、自動運転化だ。自動運転システムで事故を起こすとそれ見たことかとメディアで取り上げられるが、恐らく人間よりも確実に任務を遂行するだろう。そうなれば今話題のながら運転、煽り運転等、車に関する問題を解決していくことが考えられる。つまり根本原因は人間の過誤というところに行きつく、結局、人間の行為には過誤が付きものだろう。それを抜本的に解決(厳罰化で)するなら禁酒法 車禁止という話をしないといけないが経済合理を考えると妥当ではないから自動運転の方向に進んでいっているのだろう。ボクシングも映画リアル・スティールのようにロボットにしてしまえば人間ゆえにやらかしてしまう様々な問題も解決していくのだろうが、人間のやることに価値があるというのなら、ある程度の過誤は許容範囲としてこれまでのように金銭で解決していく方がいいのではとしているのだが、それは許されないし階級制度の廃止も誰得だから不可という事であれば当否はさておき厳格な人材」が集まる環境にする努力が求められる。もし試合が実行されていれば今回のネリのファイトマネーが約3259万円(前回のパヤノ戦は約1600万円)ということで、そんなに価値があるんだと少し驚いておりますが、ヘビー級タイトルの前座で会場はMGM、PPV WBCバンタムの挑戦者の権利もついてくるを考えるとおかしくはないのでしょう。一方のロドリゲスは約814万円、このファイトマネーなら他にチャンスがあって必ず勝てる保証が無ければ回避するのは合理的な判断といえるでしょう。こうした金額(とりわけ高額)の公表は厳罰よりも良質な人材が集まる職場に繋がると目算できるが、高額なファイトマネーを公表していても超過が発生しているというのは一体どういうことなのだろうかということを考えた方が厳罰で溜飲を下げるよりは有意義である。それは「この件の本質は良質な人材と階級制度」と指摘しているように世界タイトル戦等の上位の試合で体重超過が見受けられるということであり、選抜された本来なら「良質である」上位で職業倫理でもある超過が出ているということはどういうことなのか?これはHAERETICUSのネタなのでここまでにしておくが、最後に超過をした相手は反省していないという話は、試合をしていれば3000万円手にできるのに1ポンド体重を落とせずふいにした。私なら反省どころか気絶ものだが、チャンピオンはタイトル剥奪 挑戦者はタイトル戦の資格なし、なによりもお仕事して本来は貰えるものを手にできない金銭損失、それに社会的な信用も失う。結構な損失だと思うがどうなんだろう。それでも抜本的な対策を望むなら順番として「厳格な人材」が集まる環境にする努力をする、「天賦の才を持つ方には権威が相当の階級を指定して規制」、根本なら「無差別級」にする。解決したいなら厳罰を求めるよりこちらを求めてほしい。

 

 

少し関係があるので追記、私はこれを書くのにあたって見出しは目に入っても日本のボクシングサイトのネリ関係の記事は読まなかったがウィキペディアの体重超過は拝見、IBFの負けても王者(ソリスが超過しているので)にも行き着いたから読んでみると事の顛末は書いてあったが「立会人にルールを変更する権限はない」で済む話、しかし、あれがすべてで正答と思い込んでしまう人がいるということを考えるとセンター試験の記述問題導入が話題になっていたけど解答は専門性を要するから学生バイトに採点さすのは難しいでしょうね。事の顛末なんかいくら書いていても私が採点したら0点ですが、ことの顛末が正解だという人もいるでしょうから。これを書いていて思い出したのが1991年ジェムストニー×フランチェスコデラクイラのIBFミドル級タイトルマッチで、この時はチャンピオンのトニーが¼ lbs超過だったが挑戦者が条件を飲みこんだことで世界タイトルマッチとして執り行われた・・・普通なら挑戦者が条件を飲もうが体重超過の時点でタイトルはく奪なのだが1990年代といえば、その後、収賄で連保政府の管理下に置かれたロバートリー体制で、この時にも立会人がルールを変更。それを考えるといかに「立会人にルールを変更する権限はない」の采配がまともだということが理解できる。日本ではそうじゃないみたいだけど。