タトゥーというとアメリカを想起してしまうのは映画(ケープ・フィアー1991年 メメント2000年 アメリカン・ヒストリーX1998年 レッド・ドラゴン2002年)やミュージシャン、スポーツ選手等による影響だろうか、2019年の時点で人口の四分の1が何かしらのタトゥーを入れているというアメリカ。そのアメリカも~1970年代頃は(不良的な)軍人や船員がいれているもので、80年代初頭も不良や受刑者がいれるもので不衛生な施術による肝炎の心配も重なって一般人には近寄りがたい代物だった。サミュエル・オライリーが1890年代にエジソンの電子ペンを改良してロータリータトゥマシーンを製作、これにより技術革新が起きるのだが、エドハーディの師匠セーラージェリーの時代~1980年は、まだ染料の種類は少なくデザインもオールドスクール(漫画ポパイのイカリのようなデザイン)のものが多かった。それが1980年~になると徐々に染料とデザインもオセアニアやアジアをオマージュすることで増えてきてニュースクールが登場、そのニュースクールを有名ミュージシャンなどが入れて好評を博すると刺青に対する風当たりに変化がでてくる。とりわけ著名人や社会評価の高い職業の人たちもタトゥーをいれ始めたことで承認されて国民の4分の一がいれる代物になった。近年はタトゥーアーチストのデザインや技術を評価するリアリティショーInk Master(インクマスター)という番組などがあり視聴者数が一定数取れなければ打ち切られるケーブルテレビにおいて2020年までシーズン13まで放送されているということは支持者獲得に何かしらの影響を与えているだろう。そういうことでアメリカも元々は社会から認められていたわけではなく承認の一端には日本の刺青も関係していて、日本の刺青の影響を受けたタトゥーアーチストがミュージシャンなど有名人にタトゥーを入れ、それを見た日本人が逆輸入で影響を受けている面白い構造です。

 

 

さて日本ボクシング界隈はイメージを悪くするかもしれないことを許容することはできるのだろうか?という設問に対しての答えは現時点ではその二の最初に挙げた通りだが、ルール設定の根源が世間の評価を気にしているものなので社会の評価(価値観)が変われば簡単に、それに追従することが想像できる。その価値観を変える一つの手段として井岡がしたように有名人が公の場に刺青を出して登場し好印象を与えることで市民権を獲得していくという方法自体は私は間違ってはいないと思うけれども、刺青をファンデーションで隠す指導をされている経緯からして今回のことは何かしら意図のある行動だと推測したが、単にJBC職員による管理ミスと井岡陣営のうっかりによるミスというのであればこれはこれで相当間抜けな話だが亀田の時は混乱を生じさせたと厳罰にしておいて自らを律するという姿勢はなく、またそれを問われもしない「軽さ」は日本ボクシングというものが、そもそも、その程度の代物であることを証明しているわけで、世間体とかルールを守るとか絵空事に過ぎないのだからどうでもいいだろうとは#1思うけれども、そんなところの刺青騒動に刺青団体や刺青を入れている他の著名人が井岡の擁護に回ったが当の井岡は多くを語らず結果として厳重注意処分で終了したことから騒動が起きただけに#2見えた。意義でいえば大阪市職員による刺青の事案、無名の一般人ですが、こちらの方にはあったと思う。事の起こりは児童福祉施設の調理職員が危険な調理器具のある場所でふざけないようにと子供を注意したことが発端で、それが刺青を見せて脅かしたという話(メディアがそのように報道した)に変換されて、その職員は配置転換、大阪市長はそれらを受けて大阪市の職員に刺青調査し公務員として不適格な人材は免職にすると#3息巻いた。調査の結果、約3万5千人の職員中、113人が刺青を入れていることが判明、15名は調査の回答拒否、回答拒否者には上役の命令違反ということで処分が下されたが、その中の2人が調査は憲法13条(個人の尊重)21条(表現の自由)を侵害しているとして提訴。市側も個人情報保護法には該当していないとして反訴、最高裁の判決は調査は刺青が明視できることで畏怖する市民がいる以上、人目に触れない配置転換の為の調査は問題ないとして大阪市側の勝訴で終結した。ちなみに2人の方は刺青は入っておらず、そのうちの一人は調査に応じなかったことで配置転換させられたことについても訴訟を起こしていて、こちらは勝訴しているとのこと。この2人は刺青の擁護には回っていないと思うし刺青の是非について問うた裁判でもないけど、このことで顕現したのは調査は違憲ではないという判決には刺青は今も市民に畏怖を与えるものであると最高裁の裁判長が認識していることにあり、大阪市は大阪市職員基本条例を2012年に制定、大阪市倫理規則に「刺青を市民に見せないこと」 「施術しない」を明記し市の意向を示しても世間から大きな反発が無かったことを鑑みると世間も同じ認識なのかもしれない。2020年にも寿司屋の職人が刺青が入っていることを理由に解雇され弁護士が間に入ると解雇を撤回して下ごしらえの業務を命じるが職人は現場復帰していないうえで提訴、労働裁判に委ねている。

 

 

 

 

意義というのは、儒教などの影響を受けて刺青は廃退していったのだけれども、これらの話も上意下達の儒教的であり上意におとなしく従うのが善とされるが、勿論、#4内戦が起きている国を見ると儒教の「正しさ」は理解しているけれども生類憐れみの令を例にしてもわかりますが、その心意気は大切やけどのように目的と結果が違うこともあって「正しさ」の追求で原理となり結果が本末転倒では報われない。おとなしく従うことで良い結果をもたらすのならば結構なことですが、そうではない場合は声を上げることも大事だから間違っていると思うことに対して個人の自由を盾に声を上げた(法治国家らしく法的手続きで)ことはとても勇気(3万分の2)と意義のあることだと私は考えているが同時に我々の中に儒教思想が根ざしているということも再認識した。声を上げるといえば以前にアメリカ映画を観ていたらカジノかバーかは忘れたけど、そこの店員が仕事中に女性をナンパしているのを経営者に咎められ解雇を言い渡されたが反省するどころか、だったらこれまでの賃金を払えと開き直るという一齣があり、どこまで表現に誇張があるのかは判らないが随意雇用が原則にある国ですから実際にもありえるのかもしれません。そんなアメリカも縁故は重要で貴賤もありまくるが何か得体の分からない自己というものを持っており上記の一齣のように中には行き過ぎて主張の強い人(訴訟社会)もいますがフロンティア精神というのかトーマスジェファーソンのAll men are created equal(すべての人間は平等に創造されている)が身についているのかはわかりませんが外から見ると自己肯定感が思想に結びついているように見えます。それはインターネットの利用方法にも実名が多い欧米に対し匿名が多い日本という形で表れたりしている。宗教はあるが君主や貴族は存在しない共和制のアメリカ、ここら辺が上下関係を重要視する儒教との違いで刺青に関する価値観にも影響を与えているのではないでしょうか。自己で一つ書き加えるとボクシング界にはかつて自己の権化みたいな人がいて例えばヒップポップを辿っていくと(I Am the Greatest)に行きつくというように、いろんなところに影響を与えている。

 

 

 

丁度、これを書いていたらオリンピック、パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長の女性に関する発言が騒動になっていて、上意下達は日本のシステムとして安定感のあるものなのだけれど、海外からの視線という上位概念的なものが出てきて、これはひとたまりもないなということで対置にある価値観を変えるかもしれない方法が落ちてきた。外からの視線に弱いということも伝統的で判り易く言えば見栄っ張りなので海外から否定的な声が巻き起これば今の価値観を保てる自信はあるのか?微妙だろう。「いやそんなことはない捕鯨では海外からの批判を一蹴してIWCから脱退した。」それはそうだが捕鯨継続の理屈が「文化の継承」だから刺青と掛け合わされると色々と都合の悪いことが出てくるし捕鯨が盛んだったのは太平洋戦争後の食糧難が理由で解消されてくると同時に消費量も減ってきて自然に捕る意味がなくなるのではとBBCが指摘していた。おっと、ここにも海外~の出羽守の影が、ところで近年はクジラが売られていないのでご無沙汰だけど子供の頃は鯨をよく食べていてコロもベーコンも好きだから外人に言われたぐらいで考えは変わらないが残念だけど価格には勝てない。

 

 

 

 

目は歴史の産物で対置にある人の価値観を変えるのは難しいの再考で外圧に変化した価値観は外圧で変化するかも知れないという変哲のない話に行きつき、今これを書くために使用しているパソコンがアングラから一般化してきた流れも目撃してきたから絶対にないとは言えないけれども刺青は、その性質からして儒教思想が根ざし物量に満たされている時代には必然的にメインカルチャーになることは難しいし何かしらのパラダイムシフトが起きて刺青が承認される状況(それがどんな状況か想像することが難しい)というものが望ましい環境とは限らないからタトゥーについては欧米という外からの目を気にすることはないでしょうし施術することを選択することも違法ではありませんのでアンダーグラウンドカルチャーとして残存していく。それがいい。

 

 

 

 

#1

私は温いのが好みなので退っ引きならぬ事(刑務所に入る)をすればアイク・イベアブチのようにどうせ試合はできなくなるのだから格闘技という特異な商売に「試合を認めない」などの2重の罰則自体いらないのでは(要検討)というのが元々の見解なのだが、規則がキリッという人がいて一理はあるから、それではそれを基準に考えてとしているが、このボクシング界隈というところは物事を好悪で決定するので、当然、ころころ考えが変わり話に脈絡がなくてお話にならないことがある。刺青云々いぜんに社会の目を気にしているなら出鱈目な活動していても咎められないというのはボクシング自体が社会から杜撰でも問題ない程度の存在と思われているということに気づくのが先でしょう。

 

 

#2

私から見ると、この騒動はボクシング界隈は風見鶏ということを再確認しただけにしかならなかったが驚いたのは

 

東スポから抜粋

「それがあまりに広範囲に及んで医者が「これ以上の移植は無理」と判断したことがあった。ルールを厳格に適用するとリングに上がることはできない。だが「皮膚移植をする努力までした選手を『まだ見えてる』との理由で排除してしまうのは正しいことか? となり、それならば塗布剤を使うことで見えないようにしなさい、となった」(JBC事務局長)経緯がある 」

 

とする発言で、移植手術は重度のやけどと同じで尻の皮を剥いだりして移植する大掛かりな手術だと思うけど「それならば」って、そんなことは最初からわかりそうなもので、それも大嶋から川崎までおよそ3年の時間差もある、その解答が「それならば」ってあまりにも酷くはないか、リング禍のある競技の決定が、こんな軽い感覚だとすると狂気を感じるし、こうしたことを倫理委員会という所が審査しているなんて冗談にしかみえない。

 

 

 

#3日経新聞から抜粋

橋下市長は16日、市役所で記者団に「若者がファッションで(タトゥーを)入れる風潮も分かるが、市職員としてはだめだ。どうしてもやりたいなら公務員を辞めて個性を発揮したらいい」と述べた。

 

 

#4

孫武の兵法とリアリストの側面も持っている中国自体が戦国で、戦国だからこそ儒教が萌芽し、そこから中華思想も生まれた。

「子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也」

論語集解、集注では解釈が変えられていて

野蛮国にも君主はいるが諸夏(中国)のいないにも及ばない(文明が発達しているので)

野蛮国にも君主がいるのに諸夏(中国)にはいないみたいな(荒れよう)

状況によって解釈を変える、ここら辺はリアリストの所以なのでしょう。