2022年2月24日ロシアのウクライナへの侵攻が開始された。クリチコ兄弟を気にかけていた関係からマイダン革命を取り上げ、その時はロシアがクリミアに乗り込んで併合したことについて最悪の展開だと書いたが誤りで、その後、ドンバス戦争から本格的な侵攻と悪化の一途を辿っている。もしヤヌコヴィチが逃亡せずに選挙が行われていればやトゥルチノフがロシア語の公用語廃止を掲げずに親露派との軋轢を生まなければ侵攻は回避できたのであろうか?プーチン率いるロシアの侵攻による代償、それでいてなおウクライナに固執しているところを見ると、プーチンにとって満足できる状況ではないと他の理由を付けていずれドンバスでのろしがあがり侵攻していた可能性はあっただろう、回避というなら西側の「関心」の方が重要で侵攻による代償が大きいと最初から分かっていたなら侵攻(無論、別の策略は考える)に二の足を踏んでいたかもしれないのは、事あるごとに西側に責任転換(西側が停戦の邪魔をしてる=図られているという感情)するプーチンの言葉からうかがえる。しかし、西側の態度も加盟要請に困惑するNATO加盟国というように煮え切らないように映る。理由は経済の関係と対ソ連を睨んだ軍事同盟だがロシアと悶着を起こしたくない核戦争になれば大変だという恐れからきているのは侵攻後、西側首脳陣の強張った表情に表れていたように思われる。侵攻と陥落を予想していたアメリカは早期にゼレンスキーに第三国であるポーランドへの脱出と暫定政府の樹立を助言したが、ゼレンスキー陣営は拒否、「スイーツはいらない武器をくれと」世界に向けて発信した。ゼレンスキー陣営の言動は物怖じしていただろう西側首脳陣に一石を投じ我に返った西側首脳陣は(核戦争の懸念があるのでロシアを生かさず殺さずではあるが)武器を提供しだした。今回は「職業としての政治」を参考に権力と、その余談を書いてみる。

 

 

日本で最初に触れる権力的なものといえば小学校での学級委員長だと思いますが、私も低学年の時に立候補したことがあります。結果は数票入っただけの惨敗で成績は悪く人徳もないので惨敗は当然の帰結なのですが、そんな私が言うのもなんですが、それではどうして立候補したのと言えば役割は定式なので劣等の私にも難しいものではないわりに学級委員長という肩書は優越感(上等)に浸れるお手軽なものだったからでしょうね。しかし、同級生たちはクラスの顔を決定するということに純粋に取り組んだ、えらい。しかし、この純粋も年齢が上がるとともに変化が現れます。私の経験では認知の成長がそうさすのか、どうかは分りませんが中学2年生のころに生徒会長に立候補した人がクラブ活動の先輩で、先輩が「はい、イス」というと後輩たちは背中を壁につけ中腰になり膝を90°、それを5,6分ぐらい耐えて足がガクガクブルブル震え出した頃合いに「いくで~」と後輩の太ももの上を笑顔で駆け抜けていくという無意味なしごき(上下関係という小さな権力)をするどっから見ても人徳のない人だったが生徒会長に当選、副会長に立候補したのは同クラブの別の先輩と映画ねらわれた学園に出てくる敵役設定によく似た感じの一年生の女子で容姿端麗、気丈かつ知的水準が高そう、実際、立派な抱負を語っていたような記憶があるのだが印象に残っているのは、それを聞いていた生徒たちの「ざわつき」の方で彼女は落選した。副とはいえ学校の顔と呼べる人を純粋に選ぶなら気丈かつ知的水準が高そうな彼女を選んだ方が「太ももを駆ける少年」の当選よりは適切だとは思うのだが・・・しかし定式の役割なので何事もなく無事に2人は任期を終えた。

 

 

支配について

 

ウエーバーによると支配には利害による支配と権威による支配があり

 

伝統的支配 しきたりなど慣習 家父長制      (権威による支配)

カリスマ的支配 宗教など指導者による 組織    (権威による支配) 

合法的支配 法の支配               (利害による支配)

 

上の2つは信念によって義務になっているところがあり3番目は利害の関係で支配が成り立っている。

 

 

小中学の何の権限もない名ばかりの権威とは違い大人の世界の権力にはあらゆる権限と利益が含まれている場合があり、その権限と利益の後ろ盾になっているのは圧倒する暴力です。そうじゃないと武装勢力のような「ヒャッハー」が跋扈しますからね。つまり政治というのは暴力を背景に国民から税金を集めて行政機関で統治(服従させている)しているというもので、権力=暴力と一体化していると認識しなければなりません、なんていうことは前回もお話しした当たり前の話なのですが、どうもその当たり前が前提になっていないような気がしたので再び書きました。権力にも大小があって上下関係の無意味なしごきから大きいものは戦争の決定でロシアによるウクライナ侵攻がそうであるように少数の人間が数億、数十億人の命運を握っていたりする。権力には人を狂わす魔力があり「職業としての政治」にもあるように、権力に相応の倫理を持っている人が権力を持つにふさわしい人材と言えるのですが、子供の頃はお偉い権力者は高い能力を持っていていざとなれば高い能力を生かして様々な問題を解決してくれると考えていましたが、中学生ぐらいで気が付いてはいましたが私自身が何の変哲もないそこら辺のおじさんになってあらためて感じていることは媒体から見えてくる言動からお偉い権力者の人たちもそこらへんのおじさんおばさんじゃないのという疑念で、勿論、そこら辺のおじさんおばさん自体がいけないのではなく、他の職業と同様に政治家にも資質(確かな判断力と権力の魔力に狂わない徳のある人)は必要じゃないかということで、どうしたものかと動揺すらしていますが、そんなときに現れたのがゼレンスキー陣営でヤヌコヴィチやアフガニスタンのガニのようにゼレンスキー陣営も生き延びる為に撤退するという選択も提示されましたが前進して生き延びる方を選んだ。侵攻からの一週間は「陥落」という文言があるんじゃないかと毎朝ニュースを確認するのが憂鬱でしたが逆に押し返した。「職業としての政治」の政治家が天職である「 Dennoch デンノッホ(それでもなお)」を実践する人たちが現れた。私は政治家として生きると決心したのであればタレントであろうが問題ないという立場ですが

 

 

 

44歳とまだまだ若いゼレンスキーの一連の行動で政治家の資質というハードルは相当上がって自然と見比べてしまいます。日本では参議院選挙がありアメリカの方でも先日、選挙がありましたが、ハードルを越えられそうにない人達が立候補していて、だからなのか、私から見てそれ政治で取り扱わなければならないことなのか?という物事に首を突っ込んだりしている議員がいる。それは、それを要望する国民がいるからなのだが、要望する方もそれを利用する政治家も、その決定は圧倒する暴力を背景にして(服従させている)いるということを自覚しているのであろうか。弱者を救うという標語、耳触りのいい言葉だが、ということを書いているとあることを思い出した。1990年代の消費者金融の問題(債権者という権力)、取り立てにより自殺者がでて今の統一教問題と同じように連日マスコミが騒いで(脅迫の録音テープを連日流してた)政治が動いた。私はテレビドラマの影響でサラ金に金を借りるという行為そのものに尋常ではない印象を持ち一度も利用したことがない。なので私の理解は消費者金融に名を変えて面白可笑しなCMをTVで流してもサラ金はサラ金ということに変わりはないのですが身近に感じるようにはなった。そして消費者金融問題は結局のところ、金を返す当てのない人に一般的な銀行は金を貸さないのでヤクザな取り立てをするところしか金を借りる場所がなく、ヤクザな取り立ては違法なので民事不介入の原則を超えており警察はしっかり捜査をというのが基本の話、それと借入金額によって変動するが20%ぐらいが法定金利なのに29%のグレーゾーン金利があり、消費者金融側は20%以上を適用していたということで、それを長年放置していた大蔵省(現、金融庁)の怠慢(改正されて今は20%ぐらい)とCM効果でお手軽なイメージを付けたというTV局の社会的責任の欠如が問題(問題、問題と騒ぐんですけど)に手を貸していたということになるでしょう。それをまた過払い金取り返せますというCMが流れているが弁護費用も無料ではないんでしょ?過払い金を払った人に全額が戻らなくて手数料(それを脱税していた人もいた)が差し引かれる、これは派遣、請負業と一緒でモヤモヤする。それで消費者金融法は改正されて今は金利に上限が設けられて所得に応じて借りられる金額が決まっているということです、めでたしめでたしにならないことは誰にでも想像できること、一定の所得がない人は借金できないので闇金に手を出す人もいて地下に潜った形だから、弱者救済と称した政府の介入は一定の担保、所得がなくそれでも金を借りようとする人を闇に葬ったことにしかなっていない。弱者救済というなら日銀がゼロ金利で金融機関に金を流しているが金融機関の客は一定の貯蓄や所得がある人なので政府がサラ金に手を出すような人に金利0で金を貸せば(でもそれは市場を歪める民事介入)闇金に手を染める人も少なくなる、でもろくでもない金の使い方をする人たちがいるかもしれないし金も返さないかもしれないのにまた借りようとするかもしれない、生活保護のことでも注文があるのに国民はそれを許容できるのか、弱者を救うという耳触りのいい標語だがお手軽な問題ではない。統一教会の話も同じ、多額の献金に注目が集まっているが、それは料理でいう灰汁の話をしているだけで、カルト的要素(存在するかしないかわからないものを存在しているとして信仰する)のないものは宗教ではないということが私の概念の基本で、何かに絶望したとして、誰がどうやってその人たちを救うのか?宗教にすがるしかないのか?その人たちを満たすのは何か?というのが絶望して宗教だけがよりどころになった人たちの大事な部分。それを何か規制したら解決するの?政治介入後に作られた番組で70歳ぐらいのおばあさんがボランティアで闇金に手を出した人の相談にのっているドキュメントを観たことがある。孫ぐらいの年齢の男性が闇金に手を出して脅されているとおばあさんに相談、その人は以前にも借金して二度と闇金から金は借りないとおばあさんと約束していたのに再び借りて脅かされているけど怖くて電話に出れないから助けてくれと自分のおばあさんのような年齢の人に懇願、おばあさんが電話に出て闇金の人と話をした。弁護士法の壁があるのでやれることは限定的だが、このどうしようもない人におばあさんは寄り添おうとしていた。私なら闇金以上にこの男性のことを恫喝してしまいそうだから、とてもじゃないけど弱者救済なんて簡単に口にはできない。それを小学校の低学年で見透かしていた同級生はえらい。他にも麻薬中毒者を支援する人に元受刑者の社会復帰を手助けするために就職先を頭を下げて探す人、何か得することがあるわけでも無く逆に対象者から何度も裏切られる・・・、この人たちも情熱と「 Dennoch デンノッホ(それでもなお)」の信念を持っているといえるが、この人たちがことさら大きな声を上げて権利を主張しているなんていう記憶はないし、ましてや権力に近づいて他の気に入らないものを消し去ろうとする活動なんて少なくとも私の知る限りにおいてはない。目的は繰り返してしまうどうしようもない人の救済である。一応、書いておくが弱者救済は素晴らしいことでするのも自由ですが権力の魔力に狂う人(またはそれを利用しようとする人)は手弁当でどうぞという話です。