価値観のアップグレード(長くなったので2分割にしました)
折角ですから、価値観のアップグレードというのを探してみると、近代の意識とはなんだろうか?17世紀のデカルトが我思う、ゆえに我ありを思いついたように自意識を自意識するはその前から存在していたので新しいものではありませんが、王政と宗教という封建時代が終わり、王政と宗教の教えこそが絶対から解放されて、各々、精神的「自由」というものを手にし、その自由の身からものごとを考えるようになったことだと仮定して、ただし別の規範に頼ることが一番楽なので、ルターの「キリスト者の自由」などの教えによってプロテスタントのルター派は導かれたように~権威の肩書など他の規範に頼っている人がほとんどだと想定できますが、自由に物事を考え自意識を探求するようになったら、小林秀雄が言うところの自意識の球体に入り込んで抜け出せなくなった人たち=自意識が自意識を意識して自意識は過剰になる、学生運動からいまだにぬけだせない人がいるように、それが「反省」というものなら日本の戦後の反省のように反省が反省をして反省の世界から抜け出せなくなった人たちが出てきて虚無を感じたり、また別の(資本主義とか反戦とか)に対する不満、怒りなどを抱くようになった。自由の身からものを考るのが近代の意識かつ新しい価値観として、カントの啓蒙とは自分の知性を使って、判断力のない未成年の状態から抜けでることだとすると、価値観のアップグレードは、別の規範(昨今はマスコミなどが作りあげた道徳法則、みのもんたや宮根のような人たちの誘導)に頼っていた人は自由の身から自分自身でものを考えられるようになることですし、自意識の球体から抜けていない人は、自意識の迷宮から脱却(日本の場合は戦後レジューム)することが求められるでしょう。もう少しわかりやすく説明すると、橋本治の「知性の顚覆」にヤンキー文化というものが取り上げられており、私もこちらの属性でしたので膝を打ちましたが、ヤンキー文化とは自分の経験値(視野)でしか物事を考えられない人のことを指し、本を読んで視野を広めろと指南、一方、勉強はできるが教科書どおりにしか物事を考えられない人も、いつまでも自意識の球体を彷徨っていないで実社会に出て視野を広めろ亜インテリと指南、という方が理解しやすいでしょうか?アーレントは初期ドイツにおける反ユダヤ主義(善に目をつぶり悪を見る)と啓蒙思想によるユダヤ人解放(悪に目をつぶり善を見る)に日和見な表裏一体のつながりがあることを見つけたが、多様性とか差別とか一定しているものではない事柄に不変性があるかのように論じているのは、他の誰かの言葉を借りていて、その規範(例えば奴隷道徳)に従っているだけか、自意識の迷宮に迷い込んでいる状態であり(だから前後関係なく「運動」に飛びつく)アップグレートというならそこからの脱却が必要ですと、簡単に書いていますが、規範を日ごろから自身で考えるのは難しいもので、さらに自意識の球体に迷い込んでしまうと答えを探すのは余計に難しくなる、それが今も別の規範である宗教が存在している理由なのかもしれませんが、小林秀雄はボードレールの批評から批評は自意識の露出ということを見出して、頭の中がボードレールで一色になったがランボオの詩によって天才だけに備わっている過剰な自意識から創造力を生み出す預言者的なことに自意識の球体からの脱却を見たわけだが(つまり球体からの脱却や実存は相当な創造力を持つ天才だからできる芸当)、確かにランボオの「出発」には厭世観の中を漂う中で一筋の光に向かって歩んでいるようなものを感じますし、詩人を投げ出して貿易商に鞍替えする無欲恬淡なところもありカリスマの要素も持っている。・・・ランボオの「92年の死者」は革命後に干渉防衛ために死んでいった戦死者に思いを馳せつつ、丸太棒でおどかされるように王権のもとで服従していた自分たちは共和国の礎のもとに君たちを永眠させたとあり、ランボオはこの詩をフランス革命から78年後の1870年に書いていて、1870年は普仏戦争でルイ・ナポレオンが捕虜になりフランス第三共和政が誕生した年になる。注意としては価値観のアップグレードとして球体からの脱却や実存できる天才の中には悪魔みたいな人もいて世界を恐怖へ導くこともあります。
私もこれまでの人生の中で一人だけこの天才に当てはまる人にお会いしたことがあります。デザイナーブランドがmyブームの時に山本寛斎さんが近所に来るという情報をなぜか持っていた友人が一緒に行こうと誘ってきたので行ってみた。それで少しお話をさせてもらったのですが、人間に強く関心を持たれている人でとにかく人を観察して良い面を探して褒めまくる、当時、高校生の私がすごく変わった人やなと思うぐらいに、そういう特別な洞察力、感受性から創造性を生み出しているのでしょう。それまでにもその後も門徒のたくさんいる芸術家などのいろんな権威、芸能人、またお金持ちとか実際にお会いして上品で徳の高い人はいましたが、あのような感性の人には出会ったことがありません。余談として、寛斎さんを探している最中に、前から歩いてきた女性がいたので、この人に聞いてみようと「寛斎さん、どこにいるかわかりますか?」と訊ねてみると、ニコニコしながらどこだろうと?少し立ち話をしていたのですが、友人が来たので「ありがとうございました」と話を終えて、友人のところに行くと、友人は唖然としていて、お前、誰と喋っているんだと、あの人、誰か知っているのか?と聞いてきたけど、私は知らんと答え、友人はあの人は山口小夜子さんと言ってきたが、名前を出されてもわからないという私に、モデルの人やでといわれて、ようやく有名な人だと理解した。とても愛らしい人でした。両人が現世にもういないということを考えると寂しい限りです。
価値観のアップグレートをまとめると、カウンターカルチャーら文化運動と同時期に第一次覚醒の宗教運動もありましたように定期的に人間は何かを探し求めるのですが、半世紀たっても同じような運動をしているように、実存や脱構築とか言っても新たな価値観を構築することは非常に難しく、所詮は構造の一部を繰り返しているにすぎません。自分で考えたものではないから終わり方もわからないし節度を保つこともできないから焼き尽くようなことをする。人類と文化がもし存在していれば半世紀後も同じような運動を展開していることが考えられます。よって価値観のアップグレートというより、階層移動のための運動とした方が正解でしょう。本邦の場合は吉田茂の自衛隊、60年安保の岸信介は私からすると祖父ら戦争経験者らが中心の時代ですが、その子供世代が学生運動を経て戦後レジームという迷宮から抜け出すことができないで今も反省の反省の反省を繰り返しているのが権力者になっているので少なくとも国体として考えれば価値観はダウングレートしているところがあると言わざるを得ません。戦争経験者でもないのに敗戦のままの価値観で停止してほぼ成長していないので本当に反省しないといけない全体主義についての反省もないから、#1言論封殺に注意しなければなりません。あと大事なことは権利を主張する奴隷道徳に沿った権利運動に忘れられているのが、権利には義務も付いてくるということですが、そこら辺は次のアンシャン・レジームのところに書きます。こうした権利運動についてG7の大使が内政干渉をしてくるので、私からも啓蒙させてもらいますと、キリストがあなた方の原罪を引き受けてくれている保証はないし、死んで天国いける可能性も非常に低いのでキリスト教などの宗教はやめて仏教(宗教の方ではない)を哲学しなさいジョブズの禅のように、そうすると物事の見方が変わり生き方が変わります、なんて言われても余計な価値判断を押し付けないでと思うでしょ、あなた方も。どうして価値観の押し付けが腹立たしいものになるのかは、その土地で身につけたアフォーダンスの否定であり長い期間をかけて作り上げた価値を壊されるように感じるから価値と価値が衝突する。なので私は思いつきとか誰かの顔を立てるとかミスを重ねるような政策で日本のアフォーダンスを破壊するのは最初からやめなはれとしている。
#1
運動家またはそれに影響を受ける人たちはとどまることを知らない。とどまることを知らない人たちの何が現実性がないかというと、願いが叶い全体主義になると、自分たちの言動こそ、その対象になるという理解が足りないことです。
牧原秀樹 まきはらひでき 衆議院議員 自民党 埼玉5区
今回のオリンピックで選手に誹謗中傷した人は全員逮捕すべきだと思います。発信者は容易に特定できるのでひとり残らず処罰すべきだと思いますし、また万が一それに何らかの支障が出る場合には、そうできるように法律も変えていきたいと思います。許せません。誹謗中傷は犯罪です。 「侮辱罪」事実を摘示することなく、公然と他人を侮辱した場合に成立する犯罪です(刑法231条)。侮辱罪が成立した場合には、1年以下の懲役もしくは禁錮もしくは30万円以下の罰金または拘留もしくは科料に処せられる可能性があります。 「名誉毀損罪」事実を摘示して、公然と他人の社会的評価を低下させた場合に成立する犯罪です(刑法230条)。名誉毀損罪が成立した場合には、3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金に処せられる可能性があります。
この引用の度し難いところは、この議員さんに注目していたのではなく偶然にこのポストに遭遇し、あとから(これは夢でござる6)に出てくるAV規制で引用した議員さんと同じ人だということに気が付いたというところで、この議員さんの言っていることは法律に則っている正論なのだが、なぜ日本が全体主義に走り戦争に突き進んだのかの視点に立つと、メディアが大本営発表をし、隣組を使った思想統制であっという間に反対意見など言えなくなった。この言えなくなるの怖さはコロナ騒動も同様に簡単に全体主義状態を作り出すことで社会を狂わします。毎年、夏になると戦争の反省とやっていますが、反省することが残っているとするなら全体主義にでしょう。そのことから昨今の名誉棄損、侮辱罪等の訴訟の賠償額等を見ていると司法は戦争の反省が足りていないと言わざるを得ないのです。誹謗中傷で人が死んでいるというのはその通りですが、全体主義はもっと人を死なせます。司法はその責任を持たなければなりません。批判と悪口に境界線はなく、あなた方が批判だと思っていても権力側が侮辱、名誉棄損だと法律を強化すると、あっという間に何も言えなくなります。最近も石丸さんや小泉ジュニアの記者会見での答弁が上手かったと乗せられていた人もいたようですが、自意識の迷宮から脱し実存できる本物の扇動者は、はるかに答弁や演説が上手いし魅力的、当たり前ですがちょび髭の風貌ではなく現代風です。自民党が敷いた政策に対する社会不満が高まっている時がチャンスで、その不満を一つ一つ言葉にして理解者となり力をつけていきます。メディアが危うさに気が付いてその時に批判しても、もう手遅れ、それまでのメディアの誘導報道が仇となり信じる人は少ない、人々は怒り心頭している。ネガティブな物言いにヒトラーと人々は軽薄に口にしますが、この手口でヒトラーは国を支配しました。自意識の迷宮から脱し実存できる本物の扇動者は非常に優秀で反省の反省の反省なんてせずに革新的なことを口にして人々を鼓舞させます。何も言えなくなる状況も見逃しません。これでわかるでしょ私が岸田さんらの政策に批判的なのが、動かす思い切った政治と言って妙な方向に動かすとそこに隙が生じます。現に安倍さんの時代はさんざんワイドショーでたたかれていたのに野党が浮上することはほぼなかった、私の考えるところこれが安倍政権の一番の功績(その代わりに安保法制で少し動かしましたけど国民の戦後レジュームの脱却の地ならしすら果たせなかった)、岸田さんの時は野党は何もしていないのに支持率が上昇し浮上する機会を与えた。これだけでも岸田政権の責任は重大で逃れることはできません。野党が勝利してもいいだろうという意見も当然ございますが、私は戦争の反省として全体主義になることを警戒し本邦はその可能性が大いにあるので、余計なことを企てよりすきを生み出す野党は危険と考え、申し訳ないですがいくら党首が野田さんになっても立候補者の顔が同じで政党の考えが変わらない限りは遠慮願いたい、戦争の反省をしているなら。
差別についての補填
私はこれまでの人生の中で差別をしない人をあまり(意思疎通のできない人はわからないから)見たことはないが、同時に差別主義者も見たことがない。簡単に差別主義者認定をする人がいるけれども、主義者というなら分別せずに差別を貫徹していなければならないので、常時、大脳辺縁系 大脳新皮質 偏桃体(核)にシナプスが過剰に反応しているわけですからそれはそういう病気でないと差別主義者になるのは不可能なのではないのか、一方で差別をしないは大脳辺縁系 大脳新皮質 偏桃体(核)が究極には機能していないという事だから、それはそれで大変な病気だろうと、そのうえで差別主義者を考えてみると、普通に生活していると差別主義者なんていう文言は頻繁に出てくるものではなく意識さえしていないことが多い、しかし簡単に口にする人がいるということは大脳辺縁系による古典条件づけ(パブロフの犬 アルバート坊や)で頻繁にそうした意識になるということは頭の引き出しの一番手前(前頭前野)にあるということ、また相手に対する差別主義者という文言と、その差別主義者の発する文言は上記に挙げたように同じ脳の器官から出ているので、より差別に関する意識が強いパブロフの犬の人が差別主義者という存在に近いということになる。脳の同じ器官から出ているのに相手の文言は差別で自分のは違うと言い張れるのは奴隷道徳の恩恵ですが、弱者やマイノリティという属性で善悪を決めて奴隷道徳を有効にさせるというのは上記にも書いてあるように弱者が善という前提がおかしいので間違いです。例えば徳田虎雄さんはALS(筋萎縮性側索硬化症)の難病を患わっていたけど弱者なのか、指定暴力団の在日は弱者なのか?性犯罪をしたLGBTQの人は弱者なのか?逸材と言われる人たちはマイノリティに属しているけど弱者なのか?そして皆、善なのか?こんな虚言はドイツの反ユダヤ主義(善に目をつぶり悪を見る)とドイツの啓蒙思想によるユダヤ人解放(悪に目をつぶり善を見る)は一緒だとアーレントにとっくの昔に喝破されている。しかし奴隷道徳を使用する側が差別をしてはいけない対象か差別をしてもよい対象かまさに差別的に分別する解釈権を持ち、それがまかり通っていて、食べているものは違うけれども体内の同じ循環で排出されているうんこが、奴隷道徳であれば穢れは消え神聖なうんこになると、いい年の大人が真顔で信じている。この解釈権を持つは寛容のパラドックスの話になるけどマクルーゼの開放的寛容こそが真の寛容は、まさしく奴隷道徳の弱者は善でありそれに沿っている側(左派)は正しいに基づいた考え方ですが、相手側(右派)が弱者側に沿っていたらどうするのということを前提にしていない不寛容を寛容すると最終的には不寛容になるというパラドックス、近代は奴隷道徳が圧倒的強者ということに留意が必要。善意を持つというのは大切なことだけど、しかしそれも突き詰めれば善行をするとドーパミンが分泌されて幸福感を得る、その幸福感の報酬が善という判断を生み出している一方ドーパミンが過剰すぎると統合失調症や依存症を引き起こすことがあると、脳内で起こっている現象に過ぎないわけですが、脊髄反射の人もいるでしょうけど、理性は情念の奴隷というように、理性とは物事の道理を考える能力だとすると自分に不利益を加えてくる相手に様々な感情を持つのは物事の道理を考えている結果であって理性、その理性こそが本来は重要なのであって、奴隷道徳の教条で差別と一蹴するのは愚かなこと、それが理解しやすいのが、この理性と仮想敵国からの防衛を考え自衛隊と武器を所有するのは同じ理性から出ているものなので前の理性が差別なら仮想敵国を念頭に武装するのも差別なのですが、差別だから自衛隊を解散させてとなるでしょうか?その点で奴隷道徳の教条に沿って差別は許されないと攻撃している人が自衛隊、兵器いらないと言っていたらその人は筋を通しているが、私は物事のより現実な道理を考えている理性を信じる。入管も安全保障にかかわる重要な役割を占める、それを理解できないで差別と言われるのも嫌なら政治家を目指さない、それも理性
それでも差別は許されないと言張する人はいるでしょうから、全体主義も個人の自律性より国家全体の利益が優先され足並みを揃えないものは許されないという点では同じであるから、差別を少なくとも表面上に無くしてしまうには差別をする人間は愚民であると劣等に見て(差別して)全体主義を強いて自律性を奪ってしまえば内心はともかく表層はほぼ完成します。差別を差別で表面上消し去るという手法、それも一握りの人たちだけが支配する世界、それをお望みでしょうか。カースト制度ある社会のように差別が飛び交う社会が人間の権利として好ましくないと同様に差別の中に人間の本能としての脅威を感じるという警戒心が含まれますので、そうした個人の自律性を抑え込むのも好ましくないから、ほどよい社会がベストであるが、なぜか差別は許されないと厳密なものになっている反論されない社会は権力者にとってとても都合の良い環境となるでしょう。悪口とファシズム、どちらを選ぶかを考えると悪口の方がましと私は考えます、権力者が反論されない社会の負は、習近平体制からスタートアップ企業が減少しているように国の活力も奪っていく。
