最初に私の机上の空論から披露したい。少し前に元世界チャンピオンで随分肥満になったブローナーにモズリーとジュダ―の元チャンピオンが訓練を入れるという企画の動画を少し視聴したけれど、二人とも酒に溺れたらしい腹の出たブローナーより10歳以上年齢が離れているにもかかわらず、引き締まった身体かつ、動きも早い、選手引退後も訓練を継続しているのがうかがえた。私もランニングしていると体力の維持ができ、試合をして頭部を打たれていないことから持って生まれたスピードも主観では落ちていると感じられずに、井上尚哉のシャドーボクシングも重要という意見に、大きくうなずきながら、30年以上、持って生まれた能力の維持の為だけに反復の動作を飽きることもなく継続している。

 

ここのブログは元々、ボクシングについてファンの視点から書いていたもであるから、今のようにパウンドフォーパウンドの位置にいる井上尚弥の活躍に乗じ、したり顔でなにやらご高見を唱えていそうなものですが、アマチュア時代の活躍に触れたことはあっても、ほぼ井上を話題に出したことはない。それは、率直に、とてもいい選手だとは考えていても、他のボクシングファンのようにある一つを除いては「凄い」と見ていないということが関係しているかもしれない。パウンドフォーパウンドの位置にいる選手に対して「凄い」と思っていないというのは、どういった料簡だとなるでしょう、私の場合の凄いというのは、例えばドネアVSシドレンコ でのほとんど決めのパンチがカウンターになっていたのは、素直に凄いと考えたり、他にもリカルドロペスの対大橋戦での教科書どおりを卓越させた試合運びとか、どうも真似をすることが難しいと感じた場合は凄いと捉え、それ以外は昔から切磋琢磨するライバル視の対象になります。要するに60歳に近い老人が自分も凄いとは考えない程度のボクシング能力を持っていると見ているのです。しかし聞くところによると一年で90億、ボクシングで稼ぎ出しているそうで、また全勝かつパウンドフォーパウンド1位の選手を捕まえて、凄いと考えない程度に近いと考えているのは尋常ではないホームラン級の馬鹿というのは十分に自覚していても、意外に奇抜とまではいかないのは、村田諒太のようなミドル級のボクサーに対してそのように考えているのなら、本物の常識知らずですが、それはさすがに体のつくりから違うということは十分に認識出来ており、猫ひろしの中距離走のタイムからもとても及ばないのも理解している、ホームラン級の馬鹿の妄想の根拠は意外に運動学からきているのです。私は今でも毎日5キロをもう少し速く走れるけど怪我予防の為に24分ぐらいで走っていて、格闘技は指導がなくても、例えば野良柔道で自分の通っていた高校の弱小柔道部の同級生たちを投げていた、呑み込みが早いというよりもハンドスピード等、最初から頭の良い子が勉強ができるように、最初から身についているような感じで技術習得に苦労したことがない。それもあってか飛んでくるものを避ける習性があるので球技は苦手でした。星野、アランブレットを会場で見て、世界戦レベルの最軽量級選手の前後のステップインはさすがに早く、井上の場合はさらに横の動きもあるものの、心技体の体としては総じて猫との身体能力の差のような模範出来ないと感じたことはなく、55キロ程度のパワーも脅威に感じず、むしろ部分的な運動性能を比べると私の方が上ということがあっても何ら不思議な話ではないと、それは運動に取り組んことがある人なら理解できるのではないだろうか。しかしながら井上の実践は私の30年以上に及ぶ一円にもならない鍛錬(悟りという意味では意味がないことを理解したうえで継続している私の方が前を走っているけど)とは違い、一年で90億稼ぎ東京ドームに5万人を集める押しも押されないスター選手に君臨させていて、唯物的な世界では雲泥の差があることは明白であり、そこを否定することなど到底できるものではありません。うえで挙げた、ある一つを除いての凄いとは井上の心の強さのことを指しており、心の強さと言っても実践し結果を伴っているとか多岐にわたるのですが、ちなみに私が思う一番は体重管理。いずれにせよやったこともないことを踏み越ることなど、さすがに私のようなホームラン級の馬鹿でもそんな思い違いはしない。

 

 

これは運動の話だけではなく、私がいろいろと批評する時にも意識しているところで、自分自身がどれほどの人間かという理解もなく、尊大な態度で他人に罵詈雑言を向け思い違いをしている人たちを見ると、どんな神経しているのかと人格を疑ってしまう。しかしホームラン級の馬鹿でも思いとどまる、思い違いを簡単に踏み越える人たちをインターネット上にみることは珍しくありません。つい最近も、こんな見出しをXの閲覧で目撃した。「政治が下手くそすぎる」「無能の人気者」とする高市早苗総理大臣に対するもので、こうした文言に共鳴して、判を押したように同様に無能という言葉を並べた反応を目にした。こうしたことは今に始まったことではなく、1930年に書かれたオルティガの大衆の反逆に「大衆と専門主義の野蛮」として警告、大量生産の消費社会が始まり(大衆社会の始まり)、世界恐慌、ファシズムと共産主義の台頭、そして第二次世界大戦の時代に、一つの専門しか知らない専門家が我こそが全知全能の様にふるまい偉そうに跋扈し無責任に大衆を引き連れ社会を野蛮化させている警告で、今も全く変わらない。無責任と書いたように、多くの国がそのしっぺ返しに見舞われたように、無責任の張本人とそれに乗じた人だけではなく、多くの人が巻き込まれることになった。

 

ボクシング関係を少し振り返ると、長年、亀田批評にカウンターを仕掛けていた私が意図的にあまり名前を出さなかった人物がいて、拳論と片岡と言う亀田批判の急先鋒らしいが、どこかのポータルサイトでたまたま記事をクリックしてみると片岡という人の明記した記事にあたり、一度読んでみると、悪魔化を手段にしているということを確認し、これは今後、眼中に入れる必要のないということになった、なぜかって?人を悪魔化にして衆目を集める内容を読んだところで私に一ミリも得るものがないからです。

 

例えば日本のスポーツメディアのルイスネリに対するジルパテロールやクレンブテロールに関するドーピング記事一つをとっても、ドーピング検査に陽性の出たネリを悪魔化に注力した乏しい内容から学ぶものなどなかったことから、自分で過去のクレンブテロールに関する記事や研究を漁り、研究からはドーピングに関する特質を学び、自転車競技のコンタドールに関するCAS(スポーツ仲裁裁判所)の判決からはアンチドーピング組織の役割とその矛盾や他の競技の処分比較と他国の価値観(そこら辺のスーパーに売っている肉に含まれているから仕方がない)の違いを学んだ、とあらゆる角度から見るようにしている。そのことから判定に関しても処分を声を大にして叫ぶことしかしない人とは違い、判定基準の詳細、人間の視聴覚の説明、最後は北米、南米の意外に小さな事務所にある認定団体のおっさんに日本人的な細かさを言っても仕方がないがな、遺恨が付き再戦で視聴率が稼げる、といような不謹慎な解釈になったりする場合もある。

 

 

 

何よりも、そうした悪魔化に沿って処分を下すコミッションは、あとからその処分の体裁を合わせないといけないことが乱発したことで苦慮したように、悪魔化にすることに注力することは、制度を歪めかねない、ろくでもない結果にしかならない、そのことから衆目を集める為に他人を悪魔化にする人間のことは信用しないようにしている。

 

 

次に続く