「私は人間の行動を、笑ったり、悲嘆したり、憎んだりせず、理解しようと努めている」
この文章はバーフール・デ・スピノザが国家論で人間の行動心理を幾何学的に解くために努めた意識であり、安全のためには理性で他者と仲良くできればよいが人間は情念に流されるので法律による理性的な統制は必要とし民主制が最も優れているとしている。そのスピノザの考え方を踏襲し客観的なアプローチで人間の行動心理を探求していくという決意からか?、The Righteous Mindの冒頭にもこの一説は書かれていて、元々左派リベラル思考のハイトさんは学者さんということもあり、「互いの正義が正しいと対立している以上、解りあえることはない」と穏健な言い回しをされております。私も客観視に努めようと心がけますが、肩書のないそこら辺のおっさんですので体面を気にする必要がないことから明白に言うと、リベラル左派と誤用されている人たちの中には性質(3つの道徳基盤)から偏狂な博愛(偏狭だから主義でもなく博愛ですらない)に傾倒していく人たちがいて、反社会性パーソナリティ障害のような病理的な面を持ち、積極性はかなり高く政治参加し、政治も絡んでくることから、偏愛を社会に強制してくる政治権力というものになる。これの対極にあたるのは、ファシズム、ナチズム(国粋主義、反多文化、排外、伝統の重視、ポピュリズム)と言われる極右的な思想でありますが、偏狭な思想は行き過ぎると、どちらも極の付く表裏一体であり、「偏愛を社会に強制」が一歩前に進もうとすると磁石のように極右も吸い寄せられて前に出でてくる、ヨーロッパの方面では「偏愛を社会に強制」VS 極右の様相がすでに伺えますが、偏愛を社会に強制することを政治家やその周辺が正義と考えている限りは、偏愛を社会に強制 VS 極右の対立という方向に行くでしょう。要は政治さえ絡まなければ各々の性質というだけで済んでいたものを、政治家に成って社会を変えてやろうとする野心と、その巧言(福祉、支援を差し上げます)にまんまと引っかかった国民が作り出した問題であり、日本にも覚えのある顔が大勢いるでしょう。偏狭な博愛の異常さを例えると、人間が思いつく偏狂な博愛の極点は、12モンキーズという映画に出てくる一番の異常者は誰かを問うと、精神疾患を罹患しているブラッドピット演じるゴインズではなく、ある偏狂な博愛に信念を抱いてウイルスをばら撒いて人類を滅亡させようとするディヴィットモース演じるピーターズ博士、ブラッドピットの演技が秀逸だったので、ブラピ演じる一見、異常者に映るゴインズがウイルスを撒いた犯人かのように思わせながら、本当の狂人は自身の偏狭な博愛を疑うこともなく正義と信じる人間。終末思想のドゥームズデー・カルトなんていうのも大体思考回路は同じ。自分には何か特別なものがあり何者かになれる、なりたいと強く自分を信じている。ということから連続殺人鬼の動機の解明が必要というような話が事件が起きると持ち合がったりしますが、一般人が動機を知ったところでどうしようもなく心理も到底理解できるはずがないだろうと同様に、狂人と解り合えることなんかあるわけないだろう、と言い切りたいところですが、6つの道徳基盤を正義だと考える人は、3つの道徳基盤も持ち合わせていることから当然、「care配慮」「fairness公平」「liberty自由 権利」も理解しているものの、3つを優先することでの弊害も考えバランスを取ろうとする、それは3つの道徳基盤を正義だと考える傾向のある人にも濃淡はあり、薄い方の人は 優先することでの弊害をアポステリオリ的な認識を介して調整し同様に理解することはでき、政治さえ絡まなければ薄い方とは解りあえることは十分に可能。正義というのが出てきましたが、ジョナサン・ハイトは肉親以外の人々と社会で結びつけるのがこの正義としています。
そういえば偏狂な博愛に傾倒する人間像が、作家チェスタトンの著書「正統について」に出てくる、狂人とは理性以外(無限の理性と偏狭な常識との結合である)のすべてを失った人のことを指すのであり、人間を正気に保つのは理性ではなく正統(チェスタトンの考える正統はキリスト教で人間の知恵や常識、また日常のなんでもないことが大事としている)であるという話と符合しています。符合するのは当然で、当時(100年前)も今私がしている同様の批判をチェスタトンは行っていたのであり、著書の「異端者たち」に対する批判(人に文句をつけるけど、それでは文句をつけているお前の哲学はどこにある?)への返答として書かれたのが、この正統についてであり、急進、進歩的を目指している層を批判しているという点で私の方が焼き直しとなりますが、批判していた内容というのが、識者か知識人か何か知らないけど、偉そうに能書きを垂れて自由や平等をキリスト教の表面的な美意識から切り取り、したり顔で語っているけれども、美意識を構成する根底の部分、美意識=(「loyalty(忠誠)」「authority(権威)」「sanctity(神聖さ)」)には目をそらしている。また昔は王とかの権力者に対して自分たちの考えの方が正しいというのが異端扱いであったのに、異端と称されることを進歩的な扱いを受けるために自称しているとしている。そしてそういう人たちの傾向は自分を強く信じていることだとし、自分を一番信じている人がいるのが精神病棟にいる患者で(例えば集団ストーカーに見張られているという人に、そんなものはいないと言っても、そう言っているお前も集団ストーカーの一味だからと自分の中での論理は完ぺきであり、それを信じ切っている)精神病棟の患者は理性がないのではなく理性しかないのであるとしていて、そういうことから美意識を構成する根底の部分のない理性のみを振りかざす人たちのことも狂人とは理性以外(無限の理性と偏狭な常識との結合である)と過激に表現したのであります。背景としてはチェスタトンが生きていた時代、第二次産業革命時に人々はそれまで支配してきたキリスト教的価値が薄まり、代わりに出てきたのが自由や平等という観念で、識者、知識人はその自由や平等が湧き出る美意識の根底からは目をそらし、言葉だけに酔いしれて、つまり常識や道徳心なんてものは突然と現れるものではなく慣例への敬意のないことを警告している。道徳についてはカントも道徳はキリスト教の教義そのものにあるのではなく、例えば仏教における僧伽(そうぎゃ)サンガ 三宝(仏、法、僧)も同様に、信仰をつかさどる教会に最高善(徳=良い意志と幸福には矛盾があり、道徳法則は最高善の追及を求めますが、徳があるから幸福になれるとは限らない、逆に悪い意志の方が幸福になっている場合も多い。それでは道徳が損なわれることから、徳の分の幸福が必要だけれども、人間の力では及ばないことから神の力が必要であり、最高善とは徳と幸福が一致した状態)を求める人たちの共同体の中に見出している。この辺はスピノザの理性は感情に勝てないから法律の必要性を説いたのとは違い、理性というものに信頼を置いているのでしょうけど、現実としては善い人を集めたニューハーモニー村もうまくいかずに崩壊しているようにスピノザの方が妥当、そういうことから、昔の仏教がすぐれていたのは、解脱を目指せる人はそもそもかなり特殊な人たちという理解(間違った考え方の修行では解脱できない)から、三宝(仏、法、僧)を敷き特定の人でサンガを作っていたということ、それを鑑真でわかりますように戒律の受戒のために中国から日本に招いて守っていた。形だけになって仏教関連がどうなったかは現代人が知っているでしょう。ちなみにチェスタトンは仏教の虚無の世界観が好みではないようで、キリスト教にある人間の力では及ばないことから神の力というところの幸福が好みのようです。私が思うに(遠藤周作の沈黙にあるように沈黙するでしょ)これはキリスト教はイエスが30歳ぐらいで殺されたことによる発展途上中の宗教であり、後続の例えばパウロの書簡、トマス・アクィナスの神学大全で色図けされ発展していきましたが、聖人、賢人(アリストテレスの徳とは過剰と不足の間にある適切な状態であるとする黄金の中庸、老子の無為自然としての中庸、孔子の中庸の徳たる、其れ至れるかな。民鮮きこと久し、サティヤーグラハも相手は暴力がいけないということを理解していないかもしれないから非暴力で気づきを与えて中和しようとする思想であり中庸)は中庸という答えにたどり着いているように、長く生きればイエスは温和を好むと伝えられる一方でユダヤ教の形式主義を非難していたので中庸にたどり着いて幸福だけではない心理も説いたと考えます。
産業革命で見た劣悪な労働環境を嘆いた社会主義者ロバート・オウエンのニューハーモニー村の完全平等はなぜ失敗し崩壊したのか?①能力のバランス(勉強のできる賢い人だけを集めても社会(生活)は成り立たない)②平等からの労働意欲の低下、③複数考え方の違う人が平等の下に集まればもめる ④そんな自分勝手を抑えこむには強力な指導力が必要だがそれは平等ではなく独裁を生み、結局社会、共産主義はディストピアになる。(動物は罠に対してものすごく敏感で警戒するけど、そうなるとわかっていても、その後、マルクスレーニン、文革、クメール・ルージュに突き進むのだから人間というのは厄介な生き物です。ちなみにマルクス、エンゲルスはサン・シモンやオウエンのゆるやかな社会主義をユートピア社会主義と呼んだのは観念論では強欲の資本主義には勝てないというところからきている。)
無限の理性の実例
先日、国会議員で立憲民主党所属の蓮舫議員が「無限の理性」でおひとり様の女性が年老いても困らないようにするのが次の目標とXに宣言していた。しかし少子化の中で、低所得者からも広く税金を取っているそれを支援に配るの、男性は?という福祉を構成するものが欠如していて、そもそも社会を変えてやると女性の社会進出、権利を強く主張して出てきたライフスタイルなのだから、そこから出る弊害も、自由と責任として、受け入れるのは当然でしょと普通は考えられるも、しかし無限の理性からは打ち出の小づちのように権利、福祉が湧いてくるも、それを構成するものに対しての憐みや責任がまるでないが、恐らく圧倒的に自分は正しいと考えていると考えられる。
個人的な視点で理性しかないを見ていくと、パニック障害に罹患した経験から、普通の精神疾患と違うところは自認、他認というところにあり、パニックは疾患を強く自認はしているも、正常(他認)に振舞うことができることから他人に気が付かれないようにすることができる。これは一般の人もユングが社会生活を送るうえで人は相手や状況によって常識人に装うために表情や声を偽装しているペルソナを使っているとし、知的水準がある程度ある自閉スペクトラム症の患者も正常に振舞おうとマスキングを使っている。要は他認から見て正常となるものを感性や悟性で修得し社会の常識に合わせようと他者との関わりを作ろうとするのがある種の正常としての判断、一方の精神疾患は他認されていることは多々あるも自認しているか、どうかは、私はわからないが、経験上からいうと、疾患の濃淡で差異はあるも、言語やアイコンタクトから相手の意識を読み取ろうとしても困難を生じることがあり、これを他認から見ると正常には見えないことからいうと自認はしていない可能性がある。他認から見て正常となるものは感性からきているものであり、理性は経験を越えて計るのは困難なことから、感性が欠如しているとコミュニケーションが取りづらくなる。これが理性(もちろんうっすらとした感性と悟性はあるでしょう)しかないという私の解釈。逆に痴ほう症になってくると理性が欠如していき自分がガンだということを忘れるある意味幸せな人もいる。ちなみに私の場合は当時は一番やってはいけない行動とされていた、あえて恐怖心のあることを選択する対症療法、それは頭の中の記憶を書き換えるために必要だと考えたからであり、それでそれなりに改善することもできたが、一番効いたのは、どうせいつかは死ぬんだから、そうなったらそれでいいだろうという開き直り、そのことで支配から解放されることになった。
昨今、学校教師の精神疾患(恐らく適応障害か鬱)による休職が増えたという話が聞こえてきます。授業中にうろついているのを叱ると親に言いつけられて先生が処分されかねない時代、普通なら赤の他人の子供を叱ってくれてありがとうと感謝する場面ですが、逆に怒りをぶつけてくる常識さえない相手に理性のみで対応せざるを得ないのが原因だと私は考えています。つまりはクレーマー社会(狂人とは無限の理性と偏狭な常識との結合である)に指導一つするにして凡庸な理性(生徒様の権利、相手側の気持ちを汲み取り寄り添う)だけで活動しろと社会から強制され、凡庸な理性に頭の中が支配されて精神が崩壊するのでしょう。医学的に言えば凡庸な理性に埋もれることでヒトヘルペスウイルス6型が持つ遺伝子の一つSITH−1がストレスで限界を超えると活性し鬱を引き起こしているのではないかと見られている。これも偏狭な常識と無限の理性によってつくられた事象。チェスタトンが言うように想像力で頭がおかしくなることは難しいが、理性が人を狂わすというのはその通りで、私は普段は直感馬鹿と愚弄しているように直感馬鹿も困ったものですが、理性狂人指揮(暴れているのは直感馬鹿ですが)の下のフランス革命や共産主義のように歴史的に見ると大勢を死にいたしめるところがあるので、その危険性を大勢の人に気が付いてほしいものです。まさに狂人とは無限の理性と偏狭な常識との結合=直感馬鹿と理性狂人の組み合わせは混ぜるな危険ですが、メディア、識者、政治家 国民にいるのが多く見られます。
100年前にこうした批判をしているのは何もチェスタトンだけではなく、マックス・ヴェーバー も第一次世界大戦後の翌年1919年に書いた「職業としての政治」の中の平和主義者や社会主義のユートピアに警告する文脈で、結果よりも何よりもその行為が善か悪かで判断し、その結果を受け取らない心情倫理を否定し、政治家なら結果責任の責任倫理 で政治を取り組まなければならないとしている。これにはセルビアの民族主義者が起こしたサラエボ事件から第一次世界大戦がはじまった経験も影響していると考えられるが、その対象は急進平和主義者、ドイツ革命、アイスナーの急進派と称される人間だということと同時に、カントの義務論に出てくる結果よりも道徳法則への純粋な「善意思」が大事というのを否定したことになる。
お判りいただけるとは思いますが、チェスタトン、サラエボ事件を嘆いたマックス・ヴェーバーは共に社会を急進的(右左問わず)に変えてやるが性質として許せない保守派です。