道徳を必然の価値として肯定する人はいるけど、道徳って何かと、考える人はあまりいるようにはみえない。何かわからないのが必然の価値になるのは宗教的なので道徳って何かというのを見ていきたい。
辞書には
ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。
と書いてある。
そういうことからハイトの掲げる6つの道徳判断というのも、それが道徳なのかという疑問が残る。大雑把に見ると5世紀~7世紀のあたりで教条(神や王の教えだけが正しい道徳)からブッダらが出てきたことで「人のあり方、生き方」とはの哲学に進み神から離れた道徳的な考えが芽生えるも、宗祖らが死ぬと再び教条の宗教に先祖返り、キリスト教の方も神即自然のスピノザや神は死んだのニーチェら哲学者が出てきて再び教義や神と離れた哲学が出てくるということを繰り返しているという感じでしょうか。それでは道徳とは何なのか?一般的に言えばといっても世間に理解されているのかは私は知りませんが、カントの義務論としての定言命法が道徳とされるでしょう。欲望に囚われず理性によって誰もが自発的に果たさなければならない義務ということの道徳。しかし、友人が殺し屋に狙われているのに居場所の嘘をいうのは許されるのかとの問いで、許されるのバンジャマン・コンスタンに対し、友人が殺されようとも定言命法の道徳は義務なんだから嘘は駄目のカントというところで、その道徳を守れるのはロベスピエールのような頭の中が理性で支配されている理性狂人しかいないでしょう。それに理性だけで事足りるのなら法律は必要なくなるが実際は理屈のようにはいかないように、現実の社会はペルソナで事実はなるべく隠す世界に生きている。それゆえに仏教は執着から逃れるために世俗と離れてサンガで特殊な人らで構成しようとしたように、道徳を堅持するには孤独(十二年籠山行のように)になるか相当な環境に身を置かない限り達成することは難しい。
道徳を考えるうえでカントは手掛かりとなるヒントを残してくれている。超越論的観念論「対象が認識に従う」人間が持つ認識の枠組みによって、対象が認識可能な形に構成されるということから、各々が感じる道徳にもそれぞれのものがあり、同じものなどないかもしれないということになる。その観点からするとコンスタンの嘘も許されるも道徳である、となるのでしょうけど、カントにとってはルターの宗教革命でのカトリックにおける教条よりも、プロテスタント信仰は内面の心情こそ大事とする宗教観、しかし200年ほど経過したら、その考えは薄れてきたことから、信者を鼓舞させるために出てきたのが、1720年代の敬虔主義であり、カントは敬虔主義の両親の下で影響を強く受けていて、定言命法(心情)のほうが絶対的なものなので、友人を救うための嘘も許されない、それがカントの道徳。つまり神の存在と紐づけ揺らぎのない道徳法則への純粋な善意思を絶対的なものにしている。つまり道徳は不可知論な存在で宗教的。
超越論的観念論の前には生得観念から理性のみで物事の真理を追究できるとする大陸合理論とタブララサから経験によって知識を積み上げていくイギリス経験論があり、それをカントは理性はその対象と繋がっているわけではないので経験という手がかりが必要、知識は経験からしか得ることはできないが経験は断片的なもので必ずそうなるという保証はないとするヒュームの懐疑論(イギリス経験論)に対しては、例えば北半球で投影棒にによる日時計がエジプトで紀元前5000年前に誕生したように時間とか空間は人間の認識のルールの中で作られた世界なので普遍的な法則が成り立つとしている。個人的な経験論で言えば、小学生のころ家の前に野良犬がいたのでから揚げだと記憶するが投げてやると、それを食べた。そして次の日、その野良犬がまた来ていて、まさかと思い時計を見ると前日と同じ時間帯だったことで、もしかして犬には時間に関する生得的な何かがあるのではと感じたことがあると同様に超越論的観念論の話には叡智界やイデア界はあるとかの形而上学が付属してくる。よって不可知論な存在で誰も証明できないことなのです。
宗教ついでに書いておくと、カントはプロテスタント信仰は内面の心情こそ大事の宗教的価値の影響を受けていることから考えると、偏狭な博愛を謳い正しさを語り、そうした道徳をゲバルト棒で殴るかのように武器にするリベラル左派とイエスが批判していた、他人に細かいルールを押し付ける割には自分らは守らないパリサイ派、公金が流れているNPOを批判すると、それを守ろうとする勢力に、メディアの報道圧力と「公的手続き」を匂わされ、潰しにかかられると同じく、神殿での商売の利権を守ろうとするサドカイ派、その両派と争ったことでイエスはローマ帝国に磔にされた。その両派の生き写しのような本邦リベラル左派が、道徳を大義名分にしているのは、人間の性というものを感じさせるのと同時に人間という動物を煽動するのは道徳で煽るのが効果てき面ということを知っているからであろう。ということからカント道徳の弱点というのが見えてきて、信仰は内面の心情こそ大事を土台にして道徳を形式しているのに、カントの道徳は宗祖の批判していた形式主義だと批判されているところ。そんなことよりも大事なことがあるやろうという。カントの道徳はこのように戒律なのであり今蔓延っている凡庸な道徳ではありませんが、認識論は「対象が認識に従う」で各々自身のフィルターを通して物を認識しているのであり、本当の姿を誰も知れないという理解で決着がついたはず、しかし、今もこの手の話は大陸合理論、イギリス経験論を土台にされているように見受けられるところがある。
結論
左はなぜ嫌われているのかなんていう話題が持ち上がったりします。簡単に言えば多様性、人にやさしく弱者救済、環境保護と一応は外面を繕っていはいるが、リベラル左派は社会を変えてやると人に要求してくる以外は何もないフリーライダーだからです。ネットフィリックスにあるチンパンジーの帝国を見るとわかりやすいですが、自分勝手なフリーライダーだらけになるとその種は生き残ることはできません。共同体を作ることで生き残っている。人類も進化の過程でフリーライダーを排除する感情を手にして、フリーライダーが蔓延らないような社会を作ってきましたが、文明の進化により出てきた余裕からフリーライダーが跋扈するようになってきた。チンパンジーの世界でも隙を見て1位の座を狙う2位、3位が結託していても、外敵が襲ってきた場合は、手を取り合い戦おうとする。嫌悪感は相手に寝返る裏切り者のフリーライダーを許せばその種は消滅するとする感情からきています。
理論理性 その人の枠組みを合わせて物事を見ているから同じものを見ても感想は違う
実践理性 義務論の道徳法則(定言命法)何を~すべき 意志や行動を規定する自律
カントが説いた理性としての道徳の理念だけは生き残っているようですが、本音と建前を間違えれば社会制裁を受けかねないという真逆の状況であり、カントが説いた道徳が世俗化してペルソナの中に紛れ込んでいるものもあるのが現在残っている道徳とでもしておきましょう。他方、道徳は感情とも繋がりがあり、その感性から場面場面で下す判断=脳のドーパミンの成功報酬的なものが関係している性質であり、性質に関連しながら場面場面で下す決断(判断)には、良いこともあれば悪いこともあるに対する心の揺るぎ、この心の揺らぐ感情も道徳であり、道徳基盤理論の6つの傾向も慣習と性質でありますので、その先にある判断も道徳であると考えています。
おいおいいい加減な話をするな、道徳とは善悪を見極めて、ただしい判断(行い)をすることではないのか。
それは次に書いていきたい。
人間の認識の誤謬が解りやいす動画、ウォーリーを探せに出てくるような人が重量を持つ、その人の持っているモップは実は30キロぐらいあるけど、悟性から理性の伝達により、大体の重さを見積もってアセチルコリンが筋肉に伝達されるも実際の重さは違ったので、下に落としてしまう。これは対象が認識に従ったからこそ起きた誤謬、平面を三次元として見てしまうミュラーリヤー錯視でも起きたりします。ただ、人間の能力は静電気ほどの電力で瞬時に大体の重さを見積もってアセチルコリンが筋肉に伝達され力加減をするという高い能力を持っている。
Kaleoのway down we go
いくらあがいたところで、あなた方は自身ら選択した結果受け入れ、それが悪いことなら下に下に落ちていくしかない
他責にはならいというような歌