お題は楽しそうですけど、いたってまじめな内容です。陰謀論の話1~10に書きましたように、陰謀ならそれなりに計画があってその帰結も用意されているのでしょうけど、現実というものは陰謀論のような上等なものではなく、思いつき程度の考えで万単位の人が死ぬことを当然のように繰り返したりします。これからもどこに転ぶかはわかりません・・・・
リベラルデモクラシー(自由民主主義)の終焉かとささやかれています。資本主義の前提に自由民主主義が必要だと考えられていたのが、中国の躍進やグローバリゼーションの結果、自由民主主義は資本主義の絶対条件(必要条件)ではないということが判明し優位性が失われた、そうだったんですかと簡単に済みそうではないのは、カールマルクスの予言、資本主義には内在的に矛盾があるから必然に崩壊し最終的には共産主義に・・・は、資本主義に矛盾があるというよりも、確かに市場原理の追及(欲)は金融を混乱させたり公害や生活等の利便によって少子化などを生み出すなどの契機はありますが、資本主義というものは最初からあらゆるものを交換し、私的所有ができ、より交換できるものを所持している人や投機のようによりリスクを取るものが儲ける市場原理システムであり、欲があり、それを為政者が認めると独裁であっても資本主義は成り立ちます。資本主義の純度が高いと普通は夜警国家(小さな政府)になりますが、自由民主主義と合体すると、富が海外に流失し多大な損害を考えることなく安心のために原発停止という不合理なことをしたり、強欲という自由(昔なら奴隷貿易、今はグローバリゼーションのように人でなしのようなことを欲の為に平気でする。)によって富の一極集中や害悪なことが起きると強い憤りが出てきて世情が悪くなり過度な福祉国家に進んでいくことがあります。それは(おごり)先鋭化し共産主義になると顕在化したように、完全な人権、平等を目指した共産主義は先鋭化した自由民主主義の一つの形態なのであり、自由民主主義にこそ自ら社会、共産主義の権威主義国に進んでいくという内在的な矛盾を持っている。つまり崩壊するのは資本主義ではなく自由民主主義の方にあり、上手く付き合わないと社会、共産が手招きをして呼びつけますが、産業革命で見た劣悪な労働環境を嘆いた社会主義者ロバート・オウエンのニューハーモニー村の完全平等はなぜ失敗し崩壊したのか?①能力のバランス(勉強のできる賢い人だけを集めても社会(生活)は成り立たない)②平等からの労働意欲の低下、③複数考え方の違う人が平等の下に集まればもめる ④そんな自分勝手を抑えこむには強力な指導力が必要だがそれは平等ではなく独裁を生み、結局社会、共産主義はディストピアになる。(動物は罠に対してものすごく敏感で警戒するけど、そうなるとわかっていても、その後、マルクスレーニン、文革、クメール・ルージュに突き進むのだから人間というのは厄介な生き物です。ちなみにマルクス、エンゲルスはサン・シモンやオウエンのゆるやかな社会主義をユートピア社会主義と呼んだのは観念論では強欲の資本主義には勝てないというところからきている。)その点は公正が重視の資本主義の方は自分勝手な集団にはほどほどの公正が守られている間は適しているが、自分勝手だけにジニ指数が高くなると自由民主主義の中の人は公正に疑念を持ちはじめ、資本主義システムの性質上、勝ち負けが発生し、中間層が目減りし貧困層が増加してくると、いよいよ恐怖の自由民主主義が顔を出して、とんでもない結果を生み出すことはすでに経験済みで、フリードマンの夜警国家となり市場が解決してくれるというのもユートピアに過ぎないけれども、繁栄と資本主義は切っても切れない関係なので(行き過ぎた市場原理主義、新しい資本主義と口にはしても)手放したくはなく、できれば自由民主主義だけに与えられる優位性であってほしかっただろうが、資本主義はあらゆるものに金額をつけての交換システムでしかない以上、そういうことにはならないで、自由民主主義以外の国にも資本主義の仲間入りをさせたら民主主義が芽生えるかもとする幻想と、もっと大きく広げたら儲かるという欲から、独裁や独裁のような国を自由経済の枠組みに入れるも、相手はダンピング、スパイ、他国への政治介入の工作、最近は侵略を始めたり海底ケーブルを切ったりと傍若無人な行動をとっている。そんな中で自由民主主義国は人権、平等、多様性・・・などに自縄自縛となり、自縄自縛に文句を言うと本国監視委員(極左思考を持つ人たち)により差別認定されるというハンディ(厄介者)を背負わされている、厄介者が敬う敵対国ならお荷物は処刑か刑務所送りなのに、厄介者は(自制なき自由)を満喫している。ただし資本主義の中でやらかすのは独裁や独裁のような専制国だけではなく、不利になるとゴールを当たり前のように動かす欧米と、本来は公正が重要されなければならない資本主義の世界に少なくとも2つのルールがあり、グローバルの方の資本主義は大航海時代のように力関係で押してきます。ということですから自由で開かれた世界と言っても資本主義は内と外ではルールが違うことを認識してP4協定から始まったTPPのように外にも(公正を守れる人たち)独自の協力体制が大事なのでしょう。他方、資本主義(あらゆるものの交換)グローバリゼーション(国や価値観を超えという立派な看板があるが「貪欲」に本来なら相容れない価値観の国との関係であり、価値観の違う敵対国に壮大な力を与えることになり、馬鹿を見るのは人権、平等に自縄自縛となる国、実際に冷戦を終えて自由民主主義国よりも数を減らしていた選挙すら行われない権威主義国が2020年を境に増加してきて現在では自由民主主義国の数を超えてきている、それは一体何を意味するのか?為政者が資本主義という武器を手にして再び封建世界に戻ろうとしている可能性があるということ、自由民主主義国の強欲がそれに手を貸している。)それらが合体してグローバル資本主義が誕生、グローバル資本主義は国民国家の概念を無視するところがあり、「貪欲」に価値観の相容れない専制国との関係でそれを利用した富の一極集中も起きるので、自由民主主義を掲げる国民国家(国民主権)との対立は避けられないでしょう(すでに盛大に起きていて、自国には人権、平等に自縄自縛なるように働きかけ、自らはそんな人権、平等の話は一ミリも聞く耳を持たない国で金儲けを企てている、二重規範なんてやさしいものではなく昔なら売国奴と呼ばれても不思議ではないグローバリストたち)資本主義の搾取や失業を生む構造自体に問題があるとしたマルクスも、問題があっても政府が手を入れるとうまく機能するとしたケインズも、金儲けのために自国の空洞化に手を貸す資本家が出てくると想定していたかもしれないが?フリードマンの自由がすべてを解決するのもユートピアだと私が思う理由の一つがこれで、資本主義は底なし沼のようでとどまるということを知らない、そういうものだと理解しても、人権の軽い国で商売している血塗られた人たちが自国に(人権、平等)を政治とメディアを使い強要してくるのは非常に腹立たしい。
資本主義の仲間入りをさせたら民主主義が芽生えるかもとする幻想を前提に(幻想が理由は疑わしいと私は思っていて欲だと思います。)、日本の空洞化の今があるのですが、それを経験した今も自ら進んで騙されに行く人たち。一財界人ごときが世界レベルの問題に口をはさむ、それも虐殺に関する大問題なのですが、大問題にならないことに日本の問題の核心がある。
リピートしておくと、民主化運動をひねりつぶす専制国に貿易(技術)や投資等を手伝ってくれた自由民主主義国がいて、資本主義は専制国でも問題なく機能し富を得ることに成功、結果、軍事力の強化も協力したことになり、昨今はその軍事力で自由主義国を恫喝してくる。恫喝されている方の自由主義国と言えば国連を通じて妙な価値判断の強制や移民などを推し進めているけど、推し進めている人たちは自由民主義国は資本主義の絶対条件ではないように国民国家も自由民主義国が絶対条件ではないこと理解していない、そしてかつて何が原因で封建制から自由民主義国に取り替わって、またそこから国家民族主義や社会共産が誕生していったということもどうやら忘れているようだ。(歴史を理解している資本家はこれではまずいと考えているのか?富裕層にもっと増税を課さなければならないとしている。)
日本は社会的市場経済(これが国内で社会、共産を抑え込めた理由だと私は思う)でありネオリベラリズム(新自由主義)は最初から存在していないかもしれないが、そんな社会的市場経済の国内が狂ってきたのはバブルのはじけた1990年、国債発行が右肩に上がり、後に出てきますが、この1990年が奴隷道徳が勢いを増した分岐点で、今があるのですが、それに対し、権威主義国はトップの意向により決定され、実行性も早くグローバリストとの親和性は非常に高く、取り入れられるとまさに自由に飛び回れ(逆に一瞬で消し去られる場合もある)、馬鹿で欲深い自由民主主義国よりも市場のネオリベラリズムに徹していたりしているのは権威主義国だったりします。馬鹿とは?安心のために経済損失を被ることを全力で推進したり、社会共産が大いに失敗した人権、平等にわざわざ自ら足を踏み入れていってお気持ちが優先されて身動きが取れなくなったり、権威主義国は権力闘争ですが自由民主主義はとにかく(自制なき自由で)足を引っ張る「あんな人たち」が多くいてメディアがその後援をして、長期停滞しているという感じでしょうか、あとは選挙で選ばれたといっても中身は私もその一人ですが半分近くの人は選挙に行かない、慣例と既得権益に沿った投票行動、メディアの誘導もあると、社会的市場経済+異常な人権、平等に自縄自縛になるのはもう社会共産主義の世界であり、終焉も何も日本は選挙権威主義の国であって自由民主主義は存在していなかったのではないのか?そうした私が馬鹿だと思う部分を続けて書いていきたいと思う。
メディアの中の人のジェンダーフリーや多様性、etc、呼び名も色々ありますけれども、とりあえず、ここでは「異常」な価値観のアップグレード系推しとでも呼びましょうか、それに何か意味があるのかを明示しないまま、過剰に意味があるかのように推していても、ことあるごとに女性だから~とジェンダーを強調して、まったくフリーだとは考えていないところや、道徳みたいなことを口にする割には、報道被害(国益を損なわし、反社レベルの誹謗中傷もする)という言葉が存在しているように反社会性も併せ持っている矛盾は、人権、権利みたいなことを指摘しているとビジネスにプラスに働くからで、そういう社会(おごり)が先にあるからなのだろうが、そういう社会は思い上がりでしかないということについては「陰謀論の話」に(フランス革命を題材に人間の愚かさを説明)既出しているものの、しつこく明示していくと
何か意味が必要なのかと問えば、意味は因果で作られ、少なくとも俗世に生きる人たちには意味は文化や文明に直結して結果としても帰ってくるので中身が問われることは必要になってくるだろう。前回、模範国家日本に内向きの政治しか育たない土壌があると書きましたが、例えば、同性婚を認めないのは違憲だと司法のお墨付きを掲げ、メディアはあたかもそれが正当みたいな風に報じておりますが、近代司法を築いた明治政府と江藤新平は目的もなしに、民法(壬申戸籍、婚姻)制定し国民に教育を受けさそうとしたと思いますか?アヘン戦争で清がイギリスに圧倒されたのを耳にし驚愕した鍋島藩は蘭学の人を呼んだり長崎に偵察に行ったりして海外情勢を調べあげ、相手の実力と、どうやら日本もターゲットになるかもということを知り防衛費を上げたりしている。その鍋島藩に属していた下級武士の江藤も蘭学を学び、日本と同様の島国のイギリスがどうして豊かで強いのかを知り、富国強兵の為にまずは強国と貿易をしてシーパワーをつけながら、国民に教育を受けさせ全体を底上げしていく、また対ロシアをにらみ蝦夷(北海道)の開拓も模索、そういう国際情勢をにらんだ対外の考えを下地に天皇を中心とした国家形成(中央集権の国民国家)、つまり目の前に危機があり、強国にならないと生き残れないという理由があって、家から戸に変えて所帯持ちに(子供の教育など)義務付け責任を持たせ、さらに~革命と同様に、結局、得たのは義務、それも国を護るための徴兵という義務をつけられたのでしょう。明治政府の近代化には世界情勢を念頭に変化が必要という、たとえそれが先住民に、突然、君らは~人なんやで責任を持って国家貢献しなさいなんていうようなものであったとしても、動機はあって、ということもあり日清戦争の士気は大変高かったと、目的通りの結果を生み出している。157年前の人は下級武士でも飛耳長目に世界を学び国の未来を考え、ちょんまげを捨て価値観を変更、江藤はのちに本当の反政府とはまで披露している。
奴隷道徳の勝利(奴隷道徳は強者に対するルサンチマンとして生まれてきたもので、やさしさや謙虚みたいなことを指していますが、私が指摘しているのはそれら道徳の是非よりも、それを使用している人や用途に対するものなので君主道徳は責任は果たそうとする姿勢、奴隷道徳は他責、他力の無責任という風に書いておりますのであらかじめ了承ください。)
それが近年は権利、尊厳の侵害、憲法13条「幸福追求権」、時代に沿った変化(改革)を持ち出して両性の合意は差別で同性婚を認めないのは違憲だと司法は、その判決に一ミリも責任(最高法規である憲法の両性の同意が差別で違憲ということなら、重婚、近親婚、未成年との婚姻等もすべて違憲ということにしないと筋が通らない)をもたないで申しているけれども、制度が整備された背景を考えると、それに何か意味があって、その違憲や夫婦別姓によって国民の士気があがり少子化が回復したり強国にでもなれるとでもいうのでしょうか?ということは問われなければなりません。どうしてかって?これは私的領域にとどまらず公的領域に関する話であり、制度も強制ではありませんが義務ですから、特段の理由(意味)もないのに義務付けされているのはおかしいからです、現に婚姻数が減り少子化が問題だと騒いでいるのは国家としての問題となるからだ。しかし、政治、司法、メディアが価値観のアップグレート系にうつつをぬかすのは、そうした社会が先にあると申しましたように、幸福追求権は最初から何かしら重要な意味があった思想ではなく、戦後の反省と高度成長期を経て「生活に余裕」が出てくると我々に何か特別な価値があるのと思い込み、権利と主張するようになって発生してきたもので、中身を見ても、与えろ、譲歩しろというばかりで、フェミニズム一つをとっても明治のころの「自立」とにてもにつかない主張(存在)になっていて、少なくとも精神はダウングレードしていると言わざるを得ないだろう。ただ単にやさしいや差別反対(自身の差別心は許される)のような言語を口にしていれば道徳だと考えている人たちは、無自覚に神がそう言っているからとした中世レベルの古い価値観であり、それは「生活に余裕」の余裕の部分の剰余からでていて、ほぼ直観によって形成されている。肩書だけは立派の学術会議を見れば理解できるように教授、文化人、知識人をはじめ社会に一定数いて、宗教がアクティブなように積極かつ悪目立ちする人たちもいて、それをメディアが意味のあるように報道するので、社会の声のように思わせることに成功し、政治家の第一義は奴隷道徳に繊細の気を配ることになっている。そうした社会が先にある日本は夏になると戦争の反省を口にするけれども、何か特別な価値(権利)があると思い違いをした大正デモクラシー(特に第二次 恐怖の自由民主主義)に半分以上の原因があり、その代償は日本だけでも焼け野原に死者約300万人の犠牲で、反省は日本の民主主義に対してこそ行われなければならないが、その自覚もなく、戦後も復興してくると同じ調子で自由、権利とやり続けた結果も出てきており、社会保障費の膨張もその一つですが、遺伝子を残すのは動物としての本能の一部だと思うが、遺伝子を残さない人が大勢でてきて少子化というのが現れてきた。それはともかく、資本主義や自由(権利)の代償なのだから、身寄りなく一人で死んでいくなど、少子化から顕現する支障を受け入れるなら筋は通るものの、人手不足がどうの、今からおひとり様を案じて対策(権利!、権利!)をしろと言っている。自由や権利を行使し出てきた結果に対して責任を持つのではなく、上乗せの権利を主張する、自覚なき反省はこういう人達を生み出します。結果が評価の君主道徳に対して意図に評価がつく奴隷道徳、例、君主道徳 自衛隊、安保条約 奴隷道徳 原発停止&再エネ、コロナ対応と意図が正しければ結果が惨憺たるものでも善なのである。戦争を煽ったメディア、教授、文化人、知識人、リベラルデモクラシーは戦争の贖罪を奴隷道徳の善に乗っかることに変えた、ドイツがナチスに責任を背負わしたように。昭和憲法は1946年ですから1950年朝鮮戦争があり警察予備隊を結成、1954年の自衛隊に編成と、わずか4年で憲法9条は現実に伴っていない(こちらがいくら戦争反対と表明しても相手にも意志があり向こうの都合で攻めてくる)と分からさせられたのですが、戦後すぐなのでさすがに世情を考えると警察予備隊が限界なのでしょうけど、アメリカからの要請だとしても、その後を見ると、吉田茂の判断は君主道徳と言えるでしょう。そこから奴隷道徳で後退こそあれ価値観を変えられない進歩主義の皆さんは、震災が起きると対応が遅いなどと誰よりも自衛隊に注文を付けるものの、昔は戦力を持つことは許されない、今は負けは見えているのだから戦力を持つのは意味はないとする、似たような話としては、トランプの関税をめぐり工場を国内に回帰させたいがすでにアメリカ人には生産する能力すらないということは、不労所得が隆盛している昨今、その国にとっては切実な問題になるかもしれないのに、それをあげつらうことに使う、ああいえば上祐なんて言語が流行したがそういう反論という性質のものではなくあげつらうことが目的のあまのじゃく的な性質なのです。(アフリカ人に対してIQが低いから生産する能力がないと言えば差別だとする人たちが、トランプのMAGA系に対してはアフリカ系アメリカン人も含まれているのですがそれは平気であげつらうことができる進歩主義の皆さん)
オウム事件から30年が経過したとのことで、どうしてインテリなのに麻原のオウムにAgitation(攪拌かくはん アジる)されたのかというような疑問が投げかけられたりしておりますが「我々に何か特別な価値がある」「何者かになれる、なりたい」と考えるのは何もオウム出家者だけではなく、1960年代の共産主義に影響された安保闘争、70年の全共闘運動(自由民主主義が先鋭化すると共産に魅了される人たちが出てくる)の学生運動もしかり、「何か特別な価値がある」「何者かになれる、なりたい」と考えがちの人の前にそれがあって、何者かは、社会に迷惑をかけた者(かける)になれて、そういう人たちは自己顕示欲は相当に強いので、70年代の学生運動の人たちは当時20歳とすると現在75歳ぐらい、たまたま捕まらなかった人は政治家、メディア、司法の中に入り込んで社会に迷惑をかけ続けている者になれた、自覚がないだけで。戦後の「生活に余裕」からでてきて奴隷道徳と絡み合って日本を蝕んでいます。そしてばれているのにやめようともしない。奴隷道徳は意図が正しければ結果がどうあれ善の自覚なき反省だから間違っていても訂正しないでずるずる続けます。再び書きますが社会、共産主義は平等、権利の追求をしたリベラルデモクラシーの姿であり、教授、文化人、知識人こそが自ら望んでいる世界に真っ先に粛清される可能性があるというのが歴史の教訓だと、わかり切った前例が複数あっても目を血走らせるかのように愚かなことに傾倒していく、ナチスに傾倒したハイテガー、ソ連に傾倒したサルトルでもわかりますように、知識があると言っても「我々に何か特別な価値がある」「何者かになれる、なりたい」を自制できないのです。そんな自制すらできない天邪鬼が社会にそれなりにいて自制なき自由で社会共産の道に誘導しようとしている。この手の人らに社会共産主義系の政治家が多いのも偶然ではないのです。そういう意味では日本共産党と名乗っているのは良心になるだろう。
夫婦別姓や同性婚系の話になると保守がうるさくいうからのような意見が↑の示したアジられた人たちからあったりします。アジられた人たちは価値観のアップグレード系=進歩主義=日本ではリベラル左翼(内実は極左)と呼ばれることもあるのですが、戦争の反省で掴んだその権力を死守しようと、私から見るとリベラル左翼の安倍元首相は極左から見ると右派にみえるらしく戦争の反省の敵と認定し「安倍政治を許さない」と攻撃していた。要はこの人たちは自身の位置が極左という認識がないので左ですら右に見えたり反既得権を掲げるも既得権益集団なのであり、奴隷道徳(戦争の反省)を利用し立場を守りたい保守なのです。進歩主義といっても思い付きで破壊するだけで大した進歩も何も生みだせないからこそ奴隷道徳や価値観のアップグレードのようなよくわからないものに頼るのですが、醜態なのは、その延長線に外国人参政権や自衛隊解散(これを主張する中の人に震災があると初動が遅いと非難する人もいる)まであり、社会に迷惑をかけ続けている人たちですから自身らのイデオロギーの為には他者を危険にさらすことは気にも留めないで、自衛隊解散はいうまでもなく、外国人参政権にしてもウクライナからもわかるように、どこかの町で多数派になり独立として、他国が自国民保護を名目に介入してきたら、どう責任を取るつもりなのか?ということですから参政権は安全保障についての話なのですが、かわいそうだ、権利があるという奴隷道徳の意図が正しければの話にすり変えられてしまう。「差別は許さない」(でも自分らは意図が正しいから差別的かつ攻撃的でも許される)というのも、反米を拗らせてソ連のはきれいな核にしたことからもわかりますように単に党派根性や偏愛が強い人たちというだけ、犯罪者やテロリストにも独自のモラルがあるように。そういうことですから本来なら参政権で想定できるすべての問題を全国民に周知する必要があるのですが、価値観をアップグレード推しのメディアらは処理水を汚染水とは喧伝しても、極左団体は市民団体にホワイトウォッシュするかのように、大災難になる可能性を持つ参政権については奥歯にものが挟まったような物言いで手心を加えてくれると、いざという時の世論誘導は任せてくれと言わんばかりに登場して、劣等民族でもわかりますようにあほな国民にしつけしてやるという態度、はっきりいって異常なのであり、これだけを見てもいかにメディアの価値観のアップグレード系推しや人権というものが異常なビジネスでしかないということが理解できるというものです。社会を変えるみたいな運動をしているも、本来なら優越的地位の濫用に当てはまる再販制度一つ自らは全く変わろうとしない、それに国益を損じる行為をしても、一切の責任はとらないが、その地位を守るためには言論規制にも走る既得権益集団の一員なのです。進歩なんてしていない進歩主義、ビジネス、既得権益で結束していて、他人には改革を要求するけど自分らはしない保守である。
そうした社会を変える運動は夢見る夢子ちゃんだけがその代償を支払うのなら、黙認していられるかもしれませんが、原発を独断で止めるように政治を絡め社会を巻き込んでくるので大事です。焼け野原に死者約300万人の犠牲と大正デモクラシーの代償を支払わされたように、国民はこの人ひとたちのたくらんだことの代償は必ず支払わされます、(あちらこちらのソーラパネルで電気代高騰のように)価値観のアップグレード系=進歩主義=日本ではリベラル左翼(内実は極左)が実権を握り続ける為に、そして結果が出てきたころには、そうした意図はなかったと結果責任は一切取らないどころか、また別の何かを平然と要求してくるのは「おひとりさまでも安心」からもわかりますが、どうしてそんなことができるのかは、下の事件のように他責であり社会に迷惑をかけることに疚しさを持たないからだろう、意図が重要の奴隷道徳ですから。迷惑系~というのがあります、迷惑系とつけているだけに自覚はあると思われますが、この人たちはそれを正義だと考えていて迷惑はかけるけど責任を取る気も自覚もない。
日本の政治には君主道徳と奴隷道徳が入り交ざっていて、生き残るために非核三原則を掲げながらニクソンと核持ち込み密約を結んでいたり表向きは高速増殖炉(核燃料サイクル)として核弾頭を作れる技術を所有しようとした1970年代にはまだ君主道徳が生きていた。佐藤元総理のマスコミ嫌いは有名で、そのころもメディアは「偏向的な新聞」として活動しているも、戦争経験者が社会の中核時代、様子がおかしくなったのは学生運動の今の後期高齢者が中年になった1990年代、この世代には「我々に何か特別な価値がある」「何者かになれる、なりたい」の夢見がちや「偏向的な新聞」と相性が合う人が多くいて、進歩のない進歩主義だが変化を口にするのは好きと他力の精神から新党ブームがおきて社会党も躍進(煽動されやすい)した。(1990年代生まれのいたSEALDsが平和安全法制に反対していたように、いつの時代もいるにはいる)
中曽根はプラザ合意を飲まされるも専売公社、国鉄、電電公社を解体、橋龍は行政と金融改革に消費税UP(不景気に緊縮財政、増税と減税をやり、参議院選の敗北を喫したことで景気悪化を謝罪、そんな橋龍の大志は政治は弱者の為にあるということらしいが、政治は弱者の為ではなく国民国家の財を守る夜警の為に存在しているもので、そういうところに橋龍の弱さが垣間見え、その弱さで失われた10年を悪化させ、総裁選でも圧倒的に有利と目されながら小泉に負けたりと仕損じる。)と国民に不人気そうな苦しい政策を背負っていて、やらかしているが、時代(奴隷道徳が優勢になる)も悪かったといえるでしょう。小泉、聖域なき構造改革、郵便局の民営、安倍の君主道徳としての仕事といえば自由で開かれたインド太平洋の外交と平和安全法制であるが、奴隷道徳が優勢の時代にキャラクターで凌ぎよくやったという感じでしょう。国に是非をもたらす政策ですが君主道徳で大きな仕事(政治)をした人は是非があった割には息が長い、それとくらべて加藤の乱の宏池会のプリンスこと加藤紘一、河野談話の自民党のプリンスこと河野は奴隷道徳を好むように私には映っていましたが、政治家として誇れるものが何かあったのでしょうか?全然、思い出せません。同様に今の政治家の背負いたがるものの軽さといったら度し難い。
1990年地上げ屋が問題になり国が規制した土地関連総量規制~失われた10年(プラザ合意以後、製造業の準備も整わないままバブル崩壊)
1995年オウムサリン、阪神大震災
1997年神戸連続児童殺傷事件
1998年GDPマイナス成長、自殺者3万人時代に突入(男の方が増加も含めて圧倒的に人数が多い)2008年のリーマンショックを経て2009年もマイナス成長、諸外国が金融緩和(アメリカ3回の量的緩和、0金利)の処置をして2010年景気が徐々に回復、日本も2・2の成長と2012年にようやく自殺者が2万人台に戻った。2020年コロナ禍で2008年の3.5%を超えるマイナス4・6%
学生運動の時に20歳の人が60歳になり影響力を持ち始めると↑のような時勢に↓「何か特別な価値がある」「何者かになれる、なりたい」と考えがちな人たちが男女共同参画を安保闘争と同様に無責任に始め、奴隷道徳の権化のような女たちが権力を掴み・・・偏見?もちろん偏見です。私の周囲に立派な女性はいても声高に男女平等と主張している人を見たことがないが、TVとかメディアには登場してメディアが女性全体がそう主張しているように制作するからそのように考えるのですが、実際にも男女雇用機会均等法から39年、男女共同参画から25年経って出てきたのが酒を飲んでSEXしたら不同意罪、ホストの色恋営業禁止と女性は幼児のように判断能力が欠如しているので保護されないといけないということで、言い分もいまだに社会が悪いと、にもかかわらず女性の役員や議員が少ない活躍できていないから数を人工的に調整して譲れと、そんな数字に意味はないとわかりそうなもの、そして次は別姓でなければ社会で女性が活躍できないですか、こんなことを国家が真顔でやっている国が成長するわけがないでしょう。偶然にこれを読んだ女性の中には、ふざけんなそんなことを主張した覚えはない、と思う女性も多くいるでしょう。もちろん承知しています。一部の活動家とメディア、それに政治家が何もないところに火をつけてあたかもそれが民意だとしているなんてことはもう皆さまも承知しているでしょ。世論とは何ぞやという問題ですが、それは次の12にでも書きます。
1990年バブルがはじけプラザ合意の影響が経済に出始めるころ慰安婦問題(朝日が吉田証言を取り上げたのは1982年)が国際問題となり国内も騒がしくなった、経済が弱ってくると奴隷道徳がより強まっていったという感じです、消費税メディアから悪魔の所業のように扱われていた。ということからリベラルデモクラシーは資本主義の絶対条件でないばかりか、リベラルデモクラシーの仕組みの方が国体が強くなるのに適しているからという考えも、ロシアのウクライナ侵攻で顕在化したように奴隷道徳が跋扈するとかなり怪しくなるということです。与えろ、譲歩しろの奴隷道徳、それを正しいと誘導するマスメディア、言いなりになる政治家、どうして日本は貧しくなっていくのだろうかと問われることがあります、3食腹いっぱい食べて間食もして寝転んでいるだけの人が何で太るのだろうと気を焼くのと同じで原因しかない。
1999年男女共同参画(女性の社会進出、責任は一ミリも取らない奴隷道徳で物申すしか取り柄のない人間も進出)
2001年池田小事件
2002年ゆとり教育
2008年リーマンショックの影響で派遣切りが問題化し年越し派遣村で大騒ぎ(解雇を第三者にすることでお手軽にしようと非派遣業種にまで規制緩和したが金銭解雇のほうが目的にかなっただろうが、ここで奴隷道徳根性が出てきて余計にいびつになったように見える。)
2009年日本の民主党が与党になった。
男女共同参画について、1995年の第4回世界女性会議において北京宣言されたのを基本綱領として1996年男女共同参画ビジョンが作られ 男女共同参画社会基本法が1999年に施行されたと、国連がらみです。私から見ると国連は「我々に何か特別な価値がある」「何者かになれる、なりたい」の代表格みたいな存在で、設立の目的である国際平和をまともに実現できないのにもかかわらず意識だけは高く価値観のアップグレードにうつつを抜かしているが、気候変動は先進国の多くがいくら抑え込んだところで、CO2をたくさん出しているところが抑え込まないと意味がないように、第一回がメキシコ3回ナイロビ4回北京と人間の命という人権はどないやねんという国で開催していて、勿論、他責、他力の無責任道徳の代表格ですから責任は一ミリも取らないが、妙な価値判断を広げようとして、人権が必要な国は最初からDEI等の話は聞き入れないので何もないが、聞き入れた自由民主主義国等は世情が悪くなり国際平和も危うくなっていると、国連は設立の目的に反する行為をしている。
日本に必要なのは同じ国連関連でも人権何たらではなく、通貨危機で韓国に介入したように、財源が足りないといいながら国の役にたっていないどころか小学生の道徳みたいな奴隷道徳を振りかざして足を引っ張っている学術会議一つすら切ることができないで年間10億の公的資金が入っていて、こんなものいらんとばっさり大ナタを振れるIMFの方である。もちろん、そんなものを切ったところで大した額にはならないが国民に増税を求めるなら、まず、国に寄生している団体等を税金から切り離して本気度を見せなければ納得できるものではない。そうすると寄生している方の既得権を守りたい保守たちはあの手この手を使い圧力をかけてくる、とりわけメディアは一部の声を国民がに変換し声高に邪魔をしてくるでしょう、しょうもないことには改革と気勢を上げる奴隷道徳の政治家も、奴隷道徳を否定することは怖くて声を上げられないのでIMFに頼らざるを得ないというなさけなさ、普通の人なら手を出さない厄介な競売物件を筋ものが落札して手荒い方法で立ち退かせると同様にIMFに頼らないと切ることもできないということは、それだけ厄介な存在ということ、それを政治が主導しているのだから、まさに命がけで国体を作ろうとしていた150年前の人たちが奴隷道徳が跋扈して国体を必死に弱体化させようとしている現在の日本を見たら間違いなくびっくりするでしょう。
↓こういうのも奴隷道徳勝利の一部、お気持ちにより沿う社会、これの相対は戸塚ヨットクラブであり、戸塚ヨットクラブの世界が異常というならこれも異常。要求はするけど責任は取ろうとしない無責任な人間を育てようとする、これから何が生まれるのでしょうか?




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