自身の専門的なことやボクシングほどではないけど、宗教も少しは知っているつもりでいたけど、死についての宗教の箇所で苦戦していて進まない、知っていそうで知らない、簡単でそうでむずかしいくもある宗教になるのは、無常であるがゆえに教義、信条が移り変わるのは当然としても、根本の部分を何一つの論理的に展開しその説明もなしに勝手に解釈を変え、それが正しいみたいに信仰の対象となっているからであり、間違った問題の正しい答えなら、結果オーライになるのでしょうけど、果たして間違った問題から正しい答えは導き出せるのでしょうか?おそらく間違った問題の答えは無明にしかならない、ということを死について5のところに併記するつもりだったのですが、ここで触れておきたい。死についてパート1にも最後の方に後身が勝手にイエスの解釈を変えてと書きましたが、それは仏教の方にもありまして、それも根本のところがゆがんでいるのに普通にまかり通っていることは驚くばかりです。そのポイントは「自分で煩悩の矢を抜け」であり、他人によって得られるものではない、というところにあり、つまり念仏と布施があったとしても煩悩の矢は抜けませんし他力本願もありません、という単純明快なものです。それが、阿弥陀経にあるような南無阿弥陀仏と回向で現生正定聚でしったけ?しかも日本で一番信者が多いと言われているように、この変節が日本に仏教が根付いた理由なのかもしれません。そういうのに怒り心頭となったのが日蓮で、仏陀の教えを守らないのは無間地獄に落ちるとまで言って他宗派を断罪しました。国が亡びる謗法はいけないということです。それであるなら、今こそ、他宗派の人は日蓮にお前のところの枝分かれが国を亡ぼす・・・と四箇格言の律国賊を向けないといけないのではないのだろうか、そうすると日蓮正宗からはあれは破門したので・・・という返答があるかもしれません。正直なところ、私は一度たりとも創価学会(もちろんオウムも幸福も)を仏教とは考えたことはないどころか、眼中(法華経系といえば永平寺と比叡山という認識)にすら入ったことがないので創価のことは何も知らないのですが、周囲に信者さんはいました。その中の一人は普段はとてもまじめとはいえない人物でしたが、小さな仏壇のようなのに手を合わせていて、何にを信心しているのかは知りませんが私よりも信心深いのは確かでしょう。しかし仏教の根本は他人によって得られるものではなく「自分で煩悩の矢を抜け」で生命すら執着するなというものです。三蔵(経蔵 律蔵 論蔵)にあるように経蔵、律蔵も大事なのでしょうけど論蔵が最も重要であり、クリープのないコーヒーなんてというキャッチコピーがありましたが論蔵が欠けているのはクリープに砂糖を入れて飲んでいるようなものです。その論の中心となるのが空と無ですが「自分で煩悩の矢を抜け」で生命すら執着するなの「執着するな」です。その観点からすると論を守らずいい加減なことを言ってるのは謗法といえるでしょうというようなことを私が言っているだけなら救いようはあるのですが、宗祖が謗法の一つ念仏無間は無間地獄だと言っているのですから、そこを信者の人たちはどう考えているのだろうか?考えない?そういう官学的な態度もいけないとバラモン出身だけどバラモン批判していたらしい仏陀は言っていたみたいです。布施して功徳を積んでいるから大丈夫については、例えば沙門果経にマガダ王アジャータサットゥが仏陀に修行した果報について尋ねるというお話が出てきますが、仏陀の答えはマガダ王アジャータサットゥが功徳を積んだのならそれが修行の成果だとした、その程度のものでマストではないから悟りや解脱というところまではいきません。やはり重要なのは帰依ではなく「執着するな」を理解して信仰により了解できるのかにあると私は思います。今からでも信仰により了解するチャンスはあるのではないでしょうか。たまに会館にお年寄りが集まっているのを見かけます、私なんかよりも信心深いのでしょう。宗祖が信仰した仏教の世界を官学的な態度を捨て覗いてみてはいかがでしょうか。しかし、その前に特定の政党に対する選挙活動は、まさに権力者と癒着の一つ律国賊に該当しないだろうか?これは日蓮がもっとも毛嫌いし残念に思うところだと私は思います。