パート4の鐘の残響に何の意味があるのかの解釈の前に、それを理解するために必要になるかもしれない予備知識(半分ぐらいが余談です。)を先に書きます。要約するとこんな感じです「仏教は人間の四苦を取り除くことに焦点を当て、行きついたのが、その原因となるものを捨てて執着を持たないようにするということです。その副産物として哲学や仏教にまつわる不思議な体験を作り出していて、それは瞑想によって得られている。その瞑想はアーリア人が持ち込み、元をたどれば紀元前1万年には存在していたかもしれない、それが現代でも継承されているという壮大なお話です。」
忘れられて久しい気もしますし、修行と称し念仏を唱え単なるスケジュールをこなしているような感じもしないわけではありませんが、一応、修行には動機付けがあり、それは僧侶になる為とかではなく、悟りを開き解脱することにその真髄があります。私の認識には、悟りとは十二縁起を理解することなのですが、平たく言うと、自分自身をよく観察しましょう、そうすると苦は得ることによって発生して、その対にある対処方法、例えば最初から得なければ苦もないということが理解できたりします。こうした心の中の現象を大乗では唯識論と呼んでいます(中論もある)。そして死の疑似体験「戒律、座禅、瞑想、ヨガ、不浄観・・・」あの手この手を使い悟りを開き解脱(十二縁起を理解して執着せず輪廻しないようになる状態)を目指します。ただほとんどの人は頭では理解できても得ることによって発生するから得ないようにしようというところで脱落(煩悩が復活し輪廻する)するので、それを理解するために自分自身を観察しても悟りを開くにはつながりませんが、自分自身の観察の追及をしていれば自分の正体はよくわかり何かの役に立つかもしれないので在家さんにはお勧めです。死の疑似体験は腐乱死体を見て扁桃体を慣れさせ人間の本質から死を理解するという所業を釈尊軍団は行っていたという説があり、私は出来ることは自分でやりたい派のケチなので納得のいかない料金というのがあるのですが、独居死などを死体袋に回収する特殊清掃人の現場に立ち会ったことがあり、TVが点いていて深夜ということからなのでしょうか?画面が砂嵐の状態、右腕がリモコンの方に伸ばしたまま死んでいたと、なかなかのホラーな現場で、爪がひつじの角のように巻きながら伸びていて、死後も爪や髭は伸びるんだということを確認、臭いは冬だったからなのかミカンの腐ったほのかな香りで悪臭はなかった、が腐敗していたこともあり、清掃人の方が手と足をもって袋に入れようとしているので、これ手足が抜けたり(取れたり)しないんですかと訊ねると、抜けることもあります、という返答、私が大変ですねというと、いや~このレベルはマシなほうです、車の事故のバラバラ死体に比べると、と聞かされて、その方々が事故のバラバラ死体の処理をしたことがあるのかどうかはわかりませんが、料金に納得してしまう私。釈尊軍団は進んで腐敗死体を観察し人間の最後の苦である死を理解しようとした。これが一つ目の死の疑似体験、あとで説明しますが私の考えるもう一つが臨死体験で、悟りには52段階あるということですが、その先に解脱(勝義諦)があるのでしょう。
悟りと言いましても真理は経典に記載されているから解き明かす必要はありません。経典は悟りの説明書(指南)のようなもので、つまり説明書をいつまでも読んでいても(念仏を唱えていても)と・・・、その前に私の立ち位置を明確にしておかないといけません。現存しているのはほぼ宗教であり、今から記述することはその宗教を否定している可能性があるので、その否定は私の立ち位置からということを明確にしておくためです。私の宗教に対する見方は、例えば、インドの山奥でんでんかたつむり~♪というイナズママンの替え歌が子供のころに流行っていました。元の歌詞は「インドの山奥で、修行を~♪」の「で」から派生したのが現代の宗教と解釈しています。話には関係のないだいぶ前に見たことですが、親子連れの母親が子供に何やら頼み事をしていたのですが、子供は、親の一言一言に無理サファリパークとCMの模範で返し、いうことを聞かない、母親はあきれ顔になっていたのですが、それを聞いていた私も、富士=無理と一字もあってねーじゃないかとあきれてしまった、いつの時代も子供は想像力あふれる馬鹿ですね。余計な話をしてしまったので別の表現に言い換えてみると、氷河期世代に4つの伝道者(ネットミーム)が現れた、一つ目が働いたら負けと煩悩を説き、2つ目が淫夢で欲情を説き、3つ目が物売るっていうレベルじゃねぇぞ!と物欲を説いた、4つ目は龍樹が神通力で王に少年たちと21歳拳で、との戦闘のようすを見せて闘を説いた。それがテルマ(埋蔵教法)され2000年経ち偶像が作られ事情(背景)を知らない人々に崇拝される偶像崇拝、どうでしょう、無常なのにおっさんになっても馬鹿というところはあまり変わらないようです。話に戻ります。エドワード・タイラーが原始文化で示したようにanimaから始まり、それが社会階級(階級制度)が現人神や人間神を生み出し、古代ギリシャ時代のように神と哲学が交錯している時代もあるが、またその人間が神から離れて哲学を生み出す。仏教もインダス文明崩壊後にインドヨーロッパ語族のアーリア人が持ち込んだのがリグヴェーダーとするとイランアーリアのゾロアスターとは鳥葬の類似性を持ち双子のような関係とみることもでき、その線から遡上して見るとギョベクリ・テペを作った遊牧民(狩猟民族)にもシャーマンや鳥葬という類似性があり、アーリア人がトルコ東部が起源という話もあるので何かしらの関係性を持っていたかもしれない。ヴェーダーは宇宙、ゾロアスターは火に神を見出したと、地域、環境によって進展していった方向違いますが叡智、智慧というところに焦点を当てゾロアスターはイラン哲学(ペルシア哲学)ヴェーダは六派哲学、ウパニシャッドを生み出して、後続の法称もそうですが龍樹の根本中論と続いていく。そこから考えるとカールヤンパースの提唱した枢軸の時代(仏陀、ソクラテス、ゾロアスター教、孔子を生み出した紀元前500年代前後)は人類が人間とはを考え出した転換期としており、その数百年前から脈々と土着的(周公旦の礼学やリグヴェーダーがあったように)に人間とは(どうやって正しく生きていくのか)の基礎になるものは存在しておりますが、紀元前500年前後は神から離れて哲学が強化された時代といえるでしょう。
外から見ると一枚岩に見えた極真空手が大山総裁が死去すると分裂しましたように、大体が初めは単なる口伝(神話=宗教)だったが、求められるのが哲学になったと思えばまた先祖返りして宗教となりして、その後、分裂を繰り返して、最初の目的も考えも随分と変化してしまう。それを前提に私は大乗の原点はなんとなく理解しているものの立ち位置は小乗にありと書いたところで宗教に興味のない方にはわからないと思いますので、悟りついての仏教の中心的な考えかたは、大般若心経は観自在菩薩(観音)の解脱を語ったものだと仮定して、彼岸(ここでの彼岸の意味は知慧)にたどり着けば、五蘊も何もない、実体もなにも最初から存在しておらず錯覚でしかないから苦しみもないということがわかるとし、心経の最後の呪文の「ぎゃてーぎゃてー(がてーがてー)」は解脱し彼岸に着いたというもので、悟り解脱してわかったことは最初からすべて(五蘊=一切法)は固定された実体はなく(空)でそれらを理解して悟りを得て解脱すると無=楽になることが理解できるから彼岸へということを推奨している教えと私は見ています。これ(空、無)が仏教の悟りに関する結論で後は無二無三でしょう。そのことからパート2の最初に書いた生死に対する仏教の答えは無常になります。スッタ・ニパータの矢のところにも四諦「生と死の両極を見ないでいたずらに悲しんでいる」「己で煩悩の矢を抜け」を説いている。原点はなんとなく理解というのは、小乗と大乗の違いと言えば、ヴェーダの梵我一如に対して我なんてないよ無我(非我)としたのが仏陀で、小乗は説一切有部(五蘊=一切法はある)という立場に対して龍樹の八不(無自性)が争点としてあり、あとは誰のためにというところで、大乗には多くの方を助けるために、念仏を唱えれば現生利益というところもあれば修行を通じてというところもあるという感じでしょうか。大乗の多くを救うとした考え方はそうなればいいですねと思いつつも、遠藤周作の「沈黙」にありましたように神も仏も沈黙しており大魔神のようにはいきませんし(ゴーサーラの宿命論のような立ち位置で)布施と念仏を唱えているだけで何かわかるのか?それで現生利益や極楽浄土(そんなのあるのか?)は厚かましいだろうという単純な疑問であり、何よりも煩悩から解き放たれるのはリアリスティックに欠けるというのは瞬時に理解できる話、実際に社会は煩悩だらけで、ヴェーダ神話(紀元前1000年)に出てくるデーヴァ神族とアスラ神族の時代から信仰すれば利益(それが煩悩やで)が与えられる現生利益のほうが人気で、それは伝来した日本においても現生正定聚と、とにかくお手軽に楽して利益を得たいという精神、それを煩悩といわずして何を煩悩だと私は考えています・・・#1釈迦に説法か!!といわれそうですが、無常ですから滅する前に変化したかもしれませんが「己で煩悩の矢を抜け」と説いている人が阿弥陀経にあるような南無阿弥陀仏を唱えているだけで救われるになるのは資本主義者が共産主義者に代わるぐらいの変質です。他方、大乗も下手くれもない、皆、死ぬ、そういう意味では生まれたときから解脱しているというのが八千頌般若経に書かれています。法華経の開三顕一(三乗方便、一乗真実)も趣旨は似たような考えでしょう(なにせ2000年以上の話、ブッタ自身が実在したのか、また口伝だけで残されたものはないとされているので、正直どの見解が正しいのかは誰も知りえませんから推測にすぎないのですが、苦を取り除くために執着を捨てろと「世間は無常であるから怠けるな」とする言葉から推測すると八千頌般若経が一番発言しそうだと私は思います。)この解釈で行くと人は必ず死ぬので必然に解脱もします。死んだら無であるということを理解する=解脱ですから、私のような邪心にあふれている人間は、だれでも解脱できるのなら修行するのも戒律も意味がないとなるわけですが、意味はないかもしれない。意味があれば空ではありませんから(人間が意味を作り出している)、意味を作り出しているといえば、イビョンホン主演の甘い人生の冒頭に
「ある春の日、風に揺れている枝を見て弟子は尋ねた。師匠、動いているのは、枝ですか?、風ですか?。弟子の指す方も見ずに 師匠は笑って言った。動いているのは枝でもなければ風でもない。わしが揺らしたからじゃ(お前の心だ)」
というのがあり、わしが揺らしたんじゃというのは私が冗談で勝手に付け加えたものですが、この問答は龍樹の根本中論(観念論 燃料と火で説明している)を説明するにちょうど良いお話で枝が風に揺れて見えることに実体はあるのかといえば、それは弟子が見たから出てきた存在で、枝と風とそれを見る弟子に依存性(縁起)はあっても揺れている自体には主体(実体)はない=五蘊皆空、それをあらゆるものに実体があると思いこんで執着するのが人間の煩悩だということを説明しようとする仏教哲学、一方でこの意味を作り出すが発見、発明となり文化となります。仏陀は依存性を縁起として、それぞれは因果で結ばれており、五蘊は移り変わり一日として同じ自分はいないとする無常であると説いている。パルメニデス(紀元前500年代)の「ある」アリストテレス(紀元前300年代)「四原因説」、フッサールの現象学もノエシス・ノエマの相関関係、ハイデッガー存在と時間も同様の問題を取り上げています。そこから宇宙論的証明という話が派生してきて、話の行きつくところには創造主の神の存在が出てくるのですが、では神は誰が作ったの?という無限の話になるから不動の動者が出てくるけれども、もとはプラズマ(ガス)→ビッグバン宇宙論→量子の揺らぎ(ひも理論)からの膨張し宇宙を形成というのが現在の候補です。人間の存在も、宇宙形成の縁起として偶然が重なった結果というものでしょうから、ヴェーダの梵我一如の人間も宇宙の一つという考えは的を射ているかと思われますが、それがアニミズム的なものかは、仏陀の我なんてものはないという観点からすると無我、非我なので宇宙も縁起的に関わっているだけで単体として目的を持っているものではないとなります。
ここからアニミズムや偶像がなぜ発生してくるのかの原理が「人間は依存性(縁起)に主体性(実体)を求めて理由(意味)付けするから」と少し見えてくる。縄文時代なら抜歯、研歯、入れ墨を入れたり、インドネシアのダニ族は親族が死ぬと指を切り落とし先祖供養として意味付けをする、またアフリカ東ケープでは大人になるため通過儀礼としての割礼があったりと、それは今も顔に刺青入れたり歯にダイアモンドを埋め込んだりする現代人がいて、心理としては祈祷師が箔をつけるための承認要求と似たような精神性なのでしょう。
#1最上に関する八つの詩句 スッタニパーター 中村元
「人があらゆるものに依拠してその他のものは劣ったものであるとみなすならば、そのものは実にこだわりである、と心理に達した人々は語る。それゆえに修行僧は、見たこと学んだこと思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。」これは世間で高く評価されていることが素晴らしい(最上)ものであり、その他は劣等とすることを前提に、それを実りあるものとするのは執着でしかないという話の続きで、簡単に言えば官学的な観念は捨てろ、そうおっしゃっておられるので遠慮なく。
死=解脱ならば、なぜ修行とか戒律があるのといえば、あなた方は人生に苦しむでしょ、それは(人間が意味を作り出している)物事に執着するからであり、大乗ではこの執着心を末那識と呼んでいて、サンガに加わって戒律で煩悩に執着しないようにし、死の疑似体験の修行を通じて無常を知り生に執着しないようにしようと考えているからだと思われます。スッタ・ニパータの16学生の質問のところは、彼岸への道として、とにかく執着するなを主眼にしており、学生ピンギア(体の弱った老人)に対し「ヴァッカリ、バドラーウダ、アーラヴィゴーダマが信仰により了解したように、あなたも信仰に了解せよと」と、この了解せよという訳について信仰を捨ててもと見ている人もいるようだけど、どうしてそうなるのかはヴァッカリは不治の病で苦しみに耐えかねて自死しており、バドラーウダの質問「人々はここから立ち去るでしょう」の立ち去るは現生から去ることを意味していると解釈すると、自分で死ぬのは戒律を破っているんじゃないのというところから信仰を捨てさってもとなっているのだと思われますが、そうではなく、生に執着しないが根本の教えであり、信仰を了解し生に執着しないということを理解したなら、それは悟ったということであり、執着しないという私の教えを信じて逝きなさいと、そこら辺のヒューマニストとは一味違う仏陀と、シンプルな教えなのです。このことで私が仏教を苦の哲学と宗教に分別している理由がわかるでしょ。宗教は救済という言葉を好みますが、仏陀の救済は無常だということを理解して煩悩、生に執着するな、そうすると苦から逃れることができる、つまり「己で煩悩の矢を抜け」からもわかりますように救済するのはあなた自身という哲学であり、スッタ・ニパータ第四 八っの詩句にも「欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人によって解脱が得られるものではないからである」と書かれていて、そのための修行と戒律だということでしょうが、仏陀亡きあと上位にいたのが、仏陀に肩を並べようとしたのかどうかはわかりませんが、しまいには助けてやる方の救済に先祖返りしていく宗教。救済の解釈も一つ間違えると太陽寺院 ヘヴンズゲート、人民寺院 、断食を続けて死に至ればキリストに会える、ジハードやオウムてなんてことになったりします。