先日、私用で九州に出かけた際に佐賀駅前近辺で手配写真がでかでかと貼られていたのを見た、と言っても民権や法治主義を目指して日本の近代司法を作り上げた江藤新平のことですが、佐賀の乱で手配第一号にもなって自分で作った司法で裁かれることになった人。佐賀県としては地元の名士の功績をということなのでしょう、没後150年の記念展をしていた。150年前と言えば平成生まれの人からすれば昔の時代の話になるかも知れませんが、わたしの小学生低学年のころは曾祖母が盲目でしたけど健在で100歳近かったと記憶する、明治の人で、その時代は政治闘争で敗れてやらかしたら、斬首のうえでさらし首、それを指揮した大久保も「不平=負けた側」士族に佐賀の乱やらの不興を買い惨殺された。祖父も戦争に出兵したりして遠いようで身近な話、血で血を洗う、今でいう「反省」の時代です。そんな時代(血で血を洗う時代は国の存亡をかけての抗争)の「男は」のエラそうな部分を継承したのが戦中、戦後に生まれた人たちの中にいて、それを見てきた(自分たちの母親の世代だから)子供世代にも非情なのもいるでしょうけど、親世代と比較的に見れば随分と女性に対して温雅(なので女性というだけでは弱者とまではいかないと考えている人もいる。私もその一人)だと考えられるが、その偉そうを見てきたせいで結婚観にネガティブなものを抱いている人もいる・・・ちょっとまて、えらそうなのは男だけではなく姑、小姑、というのが昔からいて、ダメおやじは1970年代に書かれて、私は読んでいたけどオニババに何も違和感(つまり弱い旦那もいた)はなかったし、作者が現実が漫画を超えてきたから作風を変えたという話があるようですが(コインロッカーベィビーが社会問題になったり、桂朝丸がウィークエンダーという番組でこいつ(男女)悪い奴でっせとやっていた時代)80年代後半には保険金目当てに旦那を殺害する主婦も出てきた。81年にはロッキード事件の「蜂の一刺し」があり、東山紀之の必殺に枕営業がネタに使われていましたが、必殺シリーズは世相を反映したネタを使うことがあり「今の世の中、男は女の力に負けそうです」というナレーションで始まる新必殺仕舞人は1982年の放送で、1982年で言えば、1/3愛して、ハッピイに生きたいギャルとオジさまの愛人バンク(社長は当時22歳(本当は25歳)で8億稼いでいたと言われているが実際は月収30万の雇われ社長でオーナーは男)の夕ぐれ族が話題になっていた。話題になったのは自称お嬢さん大学出身の女社長のキャラクターが注目を浴び大学生やOLといった素人さんたちが女性側の会員というのがあったからです。システムは入会金、男は20万円、女5万円を支払い会員の男性に会員の女性を紹介するというもので、今から考えると確かに愛人バンクというネーミングは売春をほのめかしているけど紹介以後はご本人の判断とされれば斡旋を罪に問えるかは微妙じゃないかと思われ、これがアウトなら近年の婚活サイトとか出会い系もパパ活ということなら微妙でしょう。女社長も「いけない」と言っている男性が会員だと胸を張っていたが、しかしメディアの高いところに持ち上げておいてから叩き落すみたいな豹変、いわゆる世論の動向があり上の世代の方々に「いけない」ふしだらな女だということで売春の斡旋にて逮捕、排除された。(現在の立ちんぼはホストが全面的に悪い、かわいそうな女に救済をと申す政治家がいます。しかし、これも世論の動向で排除されるでしょう)なんの偶然かはわかりませんが頂き女子りりちゃんの獄中日記に「ハッピー、ハッピー脳みそ」(鈍感応力)という文章があり、「人生は苦なり」に背く観念としてのハッピイ。留意しておきたいのは援助交際もそうですがいずれも男女ともに貪嗔痴(とん しん ち)の煩悩から積極的に参加していたということです。
それから42年がたちジェンダーギャップ指数が低いと、どこからかに指摘されると、何が問題で大変なのか、腑に落ちる説明をしませんのでわかりませんが、問題や~大変や~みたいな感じで騒ぐのが出てきて、すると政府が不同意罪だのジェンダー平等などと号令をかけると、法律が改正されたり、企業、大学が女性に有利な特権を与えますと応答する。私にはそれが少しばかりのパターナリズムとエラそうを継承して権力者になった人たちの贖罪にしか見えませんし、その寵愛をうけて権力者側になった女性の方々も抑圧されていたというなら仕返しはその世代にむければいいのに、それを下の世代に負わせて、そんなことに関係のない子供世代としては今の所、適切な答えのないものを止めることもできずに下の世代の方々には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。仕返しと言えば、熟年離婚というものが1995年11.3%だったのが2000年には17・5%となり、2005年には熟年離婚という名のドラマが話題になった。2000年の定年が60歳なので1940年あたりの戦中~戦後生まれになります。熟年離婚という言葉が注目されたときの率直な感想は定年後に捨てられるのは殺生やなと思いつつも、因果だと思うこともあり(寺内貫太郎が人情味のなく偉そうというだけならそりゃ捨てられるだろう)きっちり仕返しされた人もいる。
離婚と言えば、明治時代の自由民権運動の岸田俊子さんは女大学を批判、三従の道が善良正道だと箱に押し込む、いわゆる函入娘「箱入り娘」はよろしくない教育によって自立(手足が伸ばせる箱)を目指していきたい、というのがスローガンで「女性も免許を取って自立を」と言っている私も似たような考えなのですが、現代の男尊女卑のイメージは大体が明治時代というのを婚姻関係からみると、江戸時代は女大学というイメージから激しい男尊女卑に見受けられます。確かに不義密通は基本的に死罪(窃盗でも金額が高ければ死罪、微罪でも3度すれば死罪の時代)、夫は妻と間男を妻敵討として殺害しても罪に問われることなく男は側室を持ってもよい、離縁も一歩的に言い渡せると聞くと随分な性差があると認められます。一方、そうはいっても上級武士にもなりますと体面というものがあります。結婚は家同士の政略な面をもち、側室も家を継承していくのが目的、間男に嫁を取られたなんて体面から公にできない、そこで離婚して無かったことにするという手もあったようです。他にも相性の問題もあり、そこには舅、姑の影がちらついていて、偉そうなのは江戸時代も変わらないようです。後妻打ち(うわなりうち)に対する調整だったのでしょうか?三行半(三下り半)という再婚許状(いわゆる協議離婚)がありまして武士の離婚率は10%で庶民を入れると4・8%といずれも高い。約260年江戸時代は続きましたので、その数は流動的ですが、大体、人口の7%が武士だと言われております。その中で下級武士の割合が9割ですから10組に1組の離縁は下級武士に多かったことが推定できます。体面的なものは上級に比べれば断然低く、何せ生活に困窮して内職をしていた下級武士も多くいたということですから使用人はいたとしても側室なんて言っている場合ではなく、追い出し離婚もあったでしょうが縁切り寺に逃げ込まれたらほぼ強制的に離婚させられるので三行半と言いましても、どちらかと言えば嫁に捨てられたという表現の方があってるのかもしれません。他方、人口の85%の百姓に残り8%が商人などの職業のいわゆる民衆は基本として籍とかないから台帳、過去帳に記載されている盃程度の事実婚、共働きが当たり前で女性も労働力(第1次産業が主)として大いに活躍して自立しており、男性の稼ぎは男性のもの女性の稼ぎは女性のもので旦那が勝手に嫁の所有物を売りさばくなど厳禁。女性は重要な労働力と捉えられ再婚先は引く手あまた、江戸時代の再婚率は50%を超えていたという話がある。ということで江戸時代の庶民の男女同権は近年の欧米レベルで婚姻関係からみれば女大学というイメージよりも開かれた社会ということがわかります。遊びという視点から眺めると明治に入っても町のあちらこちらで突発に野良相撲が始まり民衆たちは囲んで賭けに興じたという江戸時代からの風習というのがあって、子供たちが石つぶてや卒塔婆で叩きあう合戦をして騒いでいたのを駐在さんが解散させていたというのを読んだことがありまして、規律のかけらもない自由奔放さがうかがえます。明治時代の離婚も江戸時代の影響が色濃く残っており明治16年で3.39(人口千対)と離婚率は高い(婚外子36年9・4%と高い)、それを富国強兵を目指す明治政府としては文明開化をスローガンに国民の引き締めを図りたい、そこで違式詿違条例(違式罪 刺青 春画の販売 混浴の風呂営業 男女相撲、蛇遣い等の見世物の禁止)や三従の道の道徳を用いたり、女性も読み書きだけではなく他の教育も必要として底上げを狙った。これはもちろん近代国家としての国家総動員という側面も持ち合わせている。ちなみに函入娘「箱入り娘」はよろしくないに対し当時に危惧されていたのが1/3愛して、ハッピイに生きたいギャルとオジさまの愛人バンクのように道徳が乱れるというもので、その通りになったが、岸田俊子さんの先生、馬鹿林鈍翁は「天子は人民から税を絞りて一人安座す、税を取りて上座に位するは天子と私の2人なり」と講談の興行でまさしく馬鹿なことを言って不敬罪を食らう、岸田さんも集会条例違反で入獄されている。私の見るところ日本のフェミニズムというものには少なくとも2つの流れがあり、一つは明治政府の敷いた三従の道からの解放を目指していたのであり、手足を伸ばせる箱(自分で考えたことの責任を持ち生きていく)ということではとっくの昔に達成されているはずなのに、理系がどうの男性と同数でないといけないなど今度も政府の考える函入娘「箱入り娘」が目指されている。2つ目が学習によって底上げされた女性が国家総動員の中で活躍する姿にある。今度5千円札の顔になる津田梅子さんは才女で家柄も良く伊藤博文に面会もでき日本で最初の女性留学生となった一人。その津田さんはアメリカ留学の帰国後に目にした日本の女性の立場の低さにたいそう嘆いたという、女は男のおもちゃか使用人に過ぎないと、一方、津田さんが生きた時代には日清戦争、日露戦争があり、女性が夫や子供を戦地に送り家庭を守る姿から(明治政府の思惑どおりに)愛国心や忠誠心を感じてたいそう感銘を受けたという。そして女性も学問を身につけ日本に貢献する姿に男女同権をみるのであった。偶然に新5千円に津田さんが選ばれているわけですが、この考えは現在の政府の考える箱入り娘そのものです。ただし津田さんは大変厳しい方で、同権は努力と実力で獲得したいと自立心の強い人。そんな明治時代の離婚率に大きな変化が起こります。明治16年3.39%と高い水準で続いていた離婚率が明治32年1898年に1・53%と急降下。これはおそらく明治に入ってからの三従の道教育と明治31年明治民法より家制度が施行された影響が考えられます。明治5年の大政管布告「神社仏閣女人結界の~」と女人禁制は性差でありけしからんとしていた明治政府が豹変して「戸主に家族を守る義務づけを引き換えに統率権限」を与えたことにあるでしょう。家に入った嫁は無能力者に位置づけされた(これによって男は家族のために死ねぃ、女は内助の功が成立したのでしょうか)江戸時代のように夫が死んだらさっさと再婚するで、では男は命を懸けて戦争に行きたがらない、天皇を中心とした国家という「家」としての国家総動員、女性も看護婦として従軍、男は徴兵制で明治27年と明治民法改正前ですが日清戦争、兵隊の士気は高かったといわれています。ちなみに高くなったのは戦意だけではなく民法施行後、婚外子が9・4%に上昇しています。
面白いでしょ、男は家族を養い責任を持てぃ、女は内助の功の「思想」と国家総動員がつながっていて、婚姻制度が権利だと思っていたことが明治政府による統制だというのが、この統制が後の大日本帝国になっていきます。そんな男は家族を養い責任を持てぃ、女は内助の功の「思想」が敗戦後にも継承されていきます、それがエラそうの正体です。しかしそのえらそうは戦争と比べると死ぬことの確率は断然低いものの責任を果たそうと努力して高度成長期もあり1980年専業主婦が1100万世帯ありました。そういう事ですから江戸時代を見習って婚姻は盃かわす程度の事実婚、女性は自立し重用されることで男女同権にするのが正当な方法。すると権利を―と悩ましている同権、夫婦別姓、同性婚が同時に解決したりもします。事実婚なんで氏名なんてどちらでもよい、婚姻?明治政府の統制なんてこちらから御免だわと、しかし、権威として存続したい政府としては婚姻制度とかを権利という事にして統制したいというのが昭和、平成、令和なのでしょう。
だからこそ構造的に男性社会が残っている・・・
現在でも海女さんがそうであるように一次産業の時代にも女性は労働力として活躍し重宝されていたんですから二次三次産業なんて問題ないでしょう。血で血を洗う一つ間違えれば首を跳ねられる時代は武力がものを言いますからサンアイイソバ、新選組の中沢琴、婦女隊の中野竹子のように「力」があれば女性も有用されるように時代によって求められるものが違い、例えば芸能からみれば70年代は新御三家(西城、郷、野口)に対抗する勢力として花の中三トリオ(桜田 百恵 森)がいて、80年代はアイドル全盛期、それも女性が圧倒でしょう、女性の能力が発揮できるところではかなり優位に有用されることが見受けられる。それを女男差別とは呼ばないでしょう。今なら男性による性搾取とのたまう人たちもいたでしょうが、失われた30年に対して戦後の焼け野原から40年後の1985年にはおニャン子クラブがセーラーズのトレーナーを着てセーラ服を脱がさないでって歌っていました。明治政府の思想は戦中戦後世代の子供世代から妙な形に変化してくる、それは少子化でもわかるように男は家族を養い責任を持てぃを果たさなくなった人が両性から多数でてきて形骸化しつつあり女性の雇用の推移をみると女性も景気が悪くなったら社会に出て自立しようとしている人もいるけれども、自立しようと思わない人もいるというだけの話を平等ではないに役員や政治家の数だけ見て結び付けている。明治のころの戸主で税金も納めているのに女性には選挙権がないというのは性差差別というのは理解できるが、戦後から大学、理系どちらにしても何の制約もない、クォーター制や何やら申し上げておりますが、サラリーマンというものが大正からようやく一般に広がってきて、たった100年ちょっとです、男性優位と言われていますがその男性自身も資本主義での雇用関係が適切なのかどうなのかわからないことがあるのに、こうした人工的に数を合わせればや優位にするという制度はいったい何をもたらすのだろうか?
これをもたらしているのがアファーマティブアクションという贖罪から芽生えた制度でアフリカ系アメリカ人の優秀な方は拾い上げてもらえるかもしれませんけど大方の人には関係がなく、それの再生産でアフリカ系アメリカ人の中でも格差が広がるばかり。アフリカ系アメリカ人も両親がいて働いている家庭ではほぼ白人層と所得はかわらないとありますから、薬物をやめて刑務所に入らなければならないということをやめる根本を改善しない限り、真のチェンジ(オバマに対する皮肉)は訪れないと思いますが、アメリカリベラルから言わせると、アフリカ系アメリカ人が略奪するのはパンを買う金もないからだと擁護する、一方で不法移民にも慈愛としているわけで、その移民が貧困アフリカ系アメリカ人の雇用と被っているということには理解が及ばなくて、テキサス州がそれではご自身でどうぞと移民をニューヨークに送ると差別主義者と罵倒するも音を上げてバス会社を提訴したりする、結局、善意を他人にも押し付けて満足したいだけのナルシストに他ならない。前に平和という言葉の効力が下がったので最近は日本のある傾向の媒体から差別、ヘイトの言葉が頻繁に使われていると書きましたが、イーロンマスクがアメリカの大手媒体でもその傾向があるとグラフを用いて説明しており、日本の現象だけではないようですが、それほど善意を表したいのならば批判になんにしろ相手側がヘイトだと思えば、それはヘイトなのだから媒体業をたたむことをお勧めします。次善としては雑誌、新聞に50%の消費税をかけてもらい、その金で恒久的に慈悲をすれば善意も証明できるというものですが、そのどちらもしないでしょ?それが答えです。
1995年からアファーマティブアクションによってアメリカ女性の役員数は右肩上がりしているが、それは移民と不法移民というシッターがいるから成り立っているのであって、そのシッターは他人の子供の世話をすることで得たお金を子供が海外にいる場合は仕送りして自分の子供を養っている。それ自体は経済からみれば是非なんてないのだが、アファーマティブアクションが気の毒な人との格差是正が目的というのなら、その女役員とシッターのアファーマティブアクションはどこにあるのだろうか?結局、女性の役職は他人の犠牲で成り立っているという、だから実力ではい上がっているのなら犠牲側にも実力で這い上がれと言えるけど権力者による保護制度で成り立っている肩書には矛盾と不公平感があるだけと、制度としてのファーマティブアクションは欠点が多い。それを日本に持ってきて呼び名を男女共同参画 積極的改善措置(ポジティブ・アクション)に変えているけど2004年か、こんなことを思いついたのあいつだなと陰謀論を言ったうえで、今度はGDPの為の国家総動員だと正直に言えないものかと思う次第です。
いやそれでも男が悪い謝れ・・・
最後に女性は性的搾取されていれている。確かに1945年特別慰安施設が作られ46年に特別慰安施設は廃止、職を失った女性がパンパン、オンリーになった、だから特殊慰安婦とパンパン、オンリーについては、お前ら男が戦争に負けるから悪いんだということに対してはその通りだと私は思うが、1/3愛して、ハッピイに生きたい、援助交際、そして立ちんぼは是非はともかく手足が伸ばせる箱(自分で考えたことの責任を持ち生きていく)の一つの形にすぎないわけで、地獄太夫の現生の不幸は前世の戒行拙いゆえじゃないけど、「人生は苦なり」としか言いようがない。明治政府が敷いた男らしさ、女らしさ、その男らしさ、女らしさをやめよう、努力して自立なんてできない(不同意罪がまさに)成人女性を女の子として扱え、明治政府の敷いた思想を否定しながら別の道徳の箱に押し込めたい、結局、明治政府と同じように統制したいというのが今、残っている妙な思想。
長文になってしまいましたが、私は専業主婦であろうが同権的に役職を狙おうがそれは本人の意志であるならどうぞ自由にという立ち位置で、上記に書いているようなことはフェミニズムを勉強しているなら常識でしょうから、事実婚にして女性は自立して同権を目指せとなるはず、だから女性は男になんて負けないが運動の始まりだったはずです、それが「高下駄をはかさないといけない」、「とにかく法的に守り女性を優位にしなければならない」、どうしてこうなるの?まさか有力政治家や有力高官が決めたから間違っていても訂正するのは面子が立たない?上級武士のように体面がというなら、その責任も斬首とさらし首が妥当ではないか、現在の倫理では許されない?、しかし、スパイ活動など自身の利益のために国(国民)を棄損しようとする政治家にはせめて無期懲役は政治改革として必要と主張したい。私が岸田総理が駄目な人だなと思ったのが、本心はわからないが、エホバの虐待について国会で質問されたときに、虐待は許されないと答えたことで、常識的にはそのとおりであり、そうした質疑応答をしたほうが健全であることは前提だとしても、じばんかんばんかばんを世襲させるなら、やらかしたらこれで死ねぃとドス渡すぐらいの教育か、その資質は必要なのではないのか、まさに虐待なのだが、政治家は1億人の命運を握る決定をする立場、先進国の意識高い人たちは食べることに困らないから意識だけが高い程度の低い価値判断を振りかざす活動家、資質のない政治家はその是非も判断できずに、価値判断に乗っかかり国を棄損するような法案を通す。その資質もないのに地盤看板カバンがもったいないからで立候補してくるから世襲が問題になる。向いていないぐらい自分でわかるでしょう。世襲ではない議員も、それぐらいの覚悟はできる資質は必要だろう。明治大正昭和の人間がいる環境で生活したのでこんな感想になります。真面目に生きていこうとする人間が政策によって損をするような社会なら低迷するのも当然でしょう。真面目にするより背負われている方が楽なのだから。
少し前に比喩ですが日本も大政奉還からやり直しになるかもと書いたけど、江藤新平の写真を見て、そんなことが脳裏をよぎった。
管理職だって他人の責任を取ったり人員整理したりと大変な仕事です。女性は役職なんてならなくても探せば立場というものがあるのに、それでも数合わせのために政治家や役職に就きたい?
訂正、1次産業を3次産業と記載して2、3次産業を1、2次と記載しておりました。訂正とお詫びします。