人間は根拠律から物事の根拠を探し求めたりしますが、不可解なことのお手軽な答えが陰謀論にはあったりするんだなこれが
2と3で私の否定的なものを取り上げましたが、真逆の意見をお持ちの方も存在するでしょう。それはその1に書いた好みの問題というものですが、何だか知らぬ間に社会の方向性に変化があり自身の考えと乖離した出来事や政策が制定されたりすると憤りを感じて、そのことを否定する情報に目が行ったりするのは通常ですが、さらにネガティブな情報を得ようと模索していると陰謀論に遭遇したりする。それは単純な間違いのものが多く、ウクライナはネオナチだを例にすると、ウクライナにもネオナチがいるという点とゼレンスキーのカナダ側のやらかしや前大統領のポロシェンコが黒の太陽のパッチを付けていたという点を結び付けてウクライナはネオナチだという人がいるとしよう。私なら日本にも極右はいるでしょうし、其れに共鳴する人も人口一億人もいれば千人単位から数万人いても不思議ではなく、それでは日本も極右かというと人口の99%以上の人が何それとなるから、せめて独裁政権でないから国民の三分の一ぐらいは極右思想を持っていないと、というのを前提に入れるので、人口約5千万人のウクライナにネオナチに感化される人たちあえて多く見積もって5千人~1万人いると仮定し、それをもってウクライナがネオナチということ考えるのは比率が抜けた帰納法であるといえる。もう一つDS(ディープステート)が世界を操っているという前提、ネオナチがその手先となって戦争をしているという前提、アゾフなどのネオナチ思想を持つ組織がウクライナにいるという前提でウクライナはネオナチでDSの指示で戦争をしているは最初の前提のDSが事実存在するのかどうかすら証明できていない間違った前提を用いている演繹法で本当に単純な間違いだから気づきそうなものだが、好みというものは難儀なもので賢い人もそうでない人も情念の奴隷から偏向したものの見方をしてしまう傾向があるので反対意見に目を通すゆとりが欲しいものです。
私も私の否定的なものにつながる昨今の社会の動きに疑念を抱いていおり、ボクシングの入れ墨問題が浮上した時に書いたものの中にパラリンピック大会組織委員会森喜朗会長の女性に対する発言騒動よる辞任劇がありましたが、その時はこのように書きました。
「丁度、これを書いていたらオリンピック、パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長の女性に関する発言が騒動になっていて、上意下達は日本のシステムとして安定感のあるものなのだけれど、海外からの視線という上位概念的なものが出てきて、これはひとたまりもないなということで対置にある価値観を変えるかもしれない方法が落ちてきた。外からの視線に弱いということも伝統的で判り易く言えば見栄っ張りなので海外から否定的な声が巻き起これば今の価値観を保てる自信はあるのか?微妙だろう。 」
そして入れ墨の件も性的マイノリティに対する結論と同様に人気者が良い印象を与えて社会的に許容されるようになれば幸いで、一方で「何かしらのパラダイムシフトが起きて刺青が承認される状況が望ましい環境とは限らないからタトゥーについては欧米という外からの目を気にすることはないでしょうし施術することを選択することも違法ではありませんのでアンダーグラウンドカルチャーとして残存していく。それがいい。」と書きました。このパラダイムシフトは日本においては規範を守るとかそういうものが壊れた状態かもしれないという考えで、そうした世界が望ましいのか望ましくないのか人それぞれでしょうが、私は好ましいとは思っていないのでほどほどにという一歩下がる考えに行き着いた。
森さんの件は最初の国内報道では辞任の兆候を見せずに乗り切るようにみえたが外国メディアに掲載されるとオリンピックという国際的な催しということもあり「体裁の問題」となり事態は急展開して辞任することになった。この体裁の問題は海外メディア、日本のメディア、左派政党と称される政治家などの人々らの合体にコロナのこともありオリンピック成功を目指していた政府と日本のオリンピック組織が気後れし翻弄されたというもので、最近も外国メディア、国連人権なんたら、日本の左派と称される政治家などの後援、日本外国特派員協会での会見、そして政治問題化と次々と同じ手で攻めてくる。こうした手法は橋下さんの慰安婦に対する発言や安倍さんの歴史認識についての時にも外国経由で似たようなことが行われていて新手ではないものの、私からすると森さんの件で味をしめた、大体、同じ顔触れなので、とある政治志向を持った少数派による効率の良い手段にしか見えていない。それは本邦は自己責任論が叫ばれることが多いが与党自民の政治志向は中道左派で社会的公正をその中道左派が担うので、それに対抗する為の弱者争奪戦(政治が絡むと将棋の駒のように歩がと金になれる)になっているように私には見えていて、効率が良いのはその問題がムーブメントすれば与党に圧力をかけられアピールにも繋がり政治的な野望を議席を獲得せず果たせるからである。中身を見ても個人的な問題も多く、それを法律を改変してどうにかしろと現法に対する司法軽視も甚だしいのだが庶民のギロチンにかけろというムーブメントに乗るとそれがあたかも正攻法のように扱われてしまったりする。オリンピックの高橋洋一のさざなみ発言は2021年7月23日コロナ感染者数4425人と本当にさざなみで、森喜朗のわきまえない的な発言も
「女性理事を選ぶというのは、日本は文科省がうるさくいうんですよね」「女性の理事を増やしていく場合は、発言時間をある程度、規制をしないとなかなか終わらないで困る」「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」「女性っていうのは競争意識が強い。誰か一人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」
お年寄りにありがちな余計なことを口にする=わきまえない程度の話なのでジェンダー平等で普段は忖度はいけないと言明しているのだから言い返す、それだけの話で問題というよりもやはり与党に圧力をかけて政治的な野望を果たすための手段にしか見えない。そんな少数政党は歩をと金に変えることができる権力者ということに変わりがないのに権力と戦っているとのたまい、女性に遠慮しないことを問題視しながらジェンダー平等~と標榜し、海外からの圧力という家父長制以上の圧力に頼りながら家父長制が~と標榜する、それを左系の媒体が援護射撃して国体を弱体させようと努力にはげむように映る変わった人たちです。こんな話を権力を持つ大人がまじめに数十年も問題があると取り組んでいることを小学生に率直に聞いてみたい。無意味という回答なら本当に国民にとっては無意味なんだと思います。それも国政にかかわっている人たち、前にも言いましたが平然と人殺しを命ずる国家指導者がいる世界でそんなことでセンシティブになってどうするのか、にもかかわらず国の重要事項である処理水のことでは同じ顔触れの政党、媒体、日本と対立する国とが一丸となって汚染水だと盛んに広めているという強面なのに、これには何のおとがめもないという、子供たちに聞きたい・・・この人たちがこじらせるのはブルジョア民主主義革命という、この人たちからすると古臭く未完成なはずのものが多くの人を裕福にして自分たちの強みであるはずの平等という観念にまで「裕福なだけに」資本主義は手を出してくるから(民主主義革命が功を奏したというより資本主義が共産や社会主義より経済に道理があったという話)その恩恵の中に生きていてもイデオロギー拒否の反作用が考えられる。
私は「弱者争奪戦(政治が絡むと将棋の駒のように歩がと金になれる)」にみえる一連の流れから萌芽する「もてあます」ことを国民に押し付ける趨向に疑問を持っていて、この疑問に闇の勢力を結び合わせると立派な陰謀論が出来上がり簡単で楽なのですが、オカルト雑誌数ページを使用した麻原彰晃空中浮揚の記事を当時に見た私は、他の超絶オカルト記事に慣れているスタンドポイントから、で?にしかならない偏屈、それに気のきいた闇の勢力もなさそうなので正攻法で答えを求めてみたい。
女性運動、差別運動というのは私が物心ついた時にはすでに存在しており男女雇用機会均等法に男女共同参画、人権に関する法律が施行されて相当な予算も付けられ半世紀(勤労婦人福祉法、同和対策法)もたっているのに現在も問題があるという事なら、法律や政策による庇護は一部を除いて多くの当事者の心を満たすことには繋がらなかったか、問題は和らいだが何かしらの理由で今も声高に叫ぶ人がいるという事になるが、それを総括することもなく永久に続けるつもりなのだろうか。そこで、平等とは何か、からこのことをもう少し考えてみたい。貧乏人も金持ちも無能も有能もいつかは死ぬという平等は確かにありますが、平等は大きく分けて比例的平等(公平)と単純平等(平等)の2つあり、その中に比例的平等としての機会の平等(形式的)=資本主義、結果の平等(実質的、絶対的)=共産主義という考えから単純平等としての機会の不平等、結果の不平等という考えも出てくる。機会の不平等は親がちゃという言葉がはやるように生得なものによって与えられる機会がまるで違うというもの、結果の不平等は与えられる機会によって違いができたことの是正がなされていないというもの、ちなみに格差を表すジニ係数0.4はそろそろ騒乱が起きてもおかしくない数値ですが0・4以上の中国は学習塾規制を導入したりして是正を図ろうとしている。
公平と平等を分けて考えているプラトンやアリストテレスは石器時代に近い今以上に人々の境遇に差異がある時代なので人には差異はあるという前提から思考していて、プラトンは公平にはしなければならないけど人には差異があり公平と平等は違うという比例的平等の立場、アリストテレスも人には差異があるという「各人に彼のものを」を前提にコミュニタリアン(共同体主義)の観点から配分的正義を語っていて、平等には数値的(単純)と比例的の2つがあり数値的は人を区別しないで同じ数値を配分することだが、これは必ずしも公正とは言えないから能力や労働時間から比例的に配分するのが正義だとしている。
キリスト教の影響が入ってくると、ホッブズの「人々は生まれながら平等である」のようなものが現れる。意外と人の能力に差はないというものだ。
ルソーは人間不平等起源論にて「自然状態の人間は自由で平等に生活していたが、私有財産が欲望を生んで不平等を生んだ」としているが、猿の世界をみるに力関係で餌や雌をものにしていて自然の方が不平等は、はっきりしていて、差別というものも動物のマウンティングと同様に優劣に関するアプリオリなものでメジャーで活躍する大谷翔平を凄い同じ日本人として誇りに思うと差別感情の出どころは一緒だから誰もが持っていてなくなることはこれも不可能に近い。ホッブズは「人が自分の賢明さについて有するうぬぼれにすぎないのであって、ほとんどすべての人は、自分が大衆よりも大きな程度の賢明さをもつと、思っているのである」としている。
カントは定言命法において「汝及び他のあらゆる人格における人間性を、単に手段としてのみ扱うことなく、常に同時に目的としても扱うように、行為せよ 自立としての自由 そのように自らの意志で道徳的に生きるという自律の力を持つ存在を人格と呼び人間はこの人格を持つので尊重されるべきだと考えた」私は9条に関する考え方は違うが中村哲さんは筋を通す、すごい人だと思っていて、アフガニスタン復興を平和的にという理念を持ち、メンバーの一人が誘拐のあと殺害され中村さんも暗殺されることになったが、それでも話し合いで解決できるという信念で水路を作って復興しようとした。すごいのは理念を実践したが国を通じて他人に強要していないこと、客観ではく中村さんの正義は主観だから言葉に覚悟と信頼性がある。
ニーチェはキリスト教の道徳的平等に抗し「人間は平等ではないし、なる必要もない 善悪、貧富、貴賎、そして他のあらゆる価値の名称、それは武器でなくてはならない。そして生がたえず、みずからを克服していかねばならなことを示す、旗印でなくてはならない。我が友よ。われわれもまた、このように悠然と、みごとに、敵対しよう。われらも神々しく対抗して向上しようではないか。」不平等は価値観を作り出すのに必要な要素だという考え。
歴代オーソリティーの大まかな平等を羅列してみましたが、平等の話はアリストテレスを抑えていれば基本は十分だと思うのは、生まれながらの奴隷がいる時代に「ある人々は、ある点で 等しいならば、自分達は絶対的にも等しい者であると思い、他の人々は、ある点で等しくないとあらゆることにおいて等しくないと配分を要求する」「数値的と比例的のどちらか一つの平等だけを用いて永続している国はない」だから配分的正義が守られないと内乱が起きかねないから「ある面においては数的な平等を用い、他の面では価値に基づく平等を用いらなければならないのである。」として現代にも通じることを見据えているからです。等しくない配分と内乱には覚えがある、西成の暴動は私が聞いたところによれば冬に凍死するホームレスがいて、その対応にあたった警察のぞんざいな態度という風聞があり怒りは募っていたが、凍死する人や警察の威圧的な態度はそれまでにもあり、威圧的というのは警察の職務の範疇だからまだこれでは暴動に発展していない。暴動になったのは警察官が暴力団から賄賂を受け取っているという報道後で、本来与えられるもの以上のものを他人が不正に手にするとどうやら導火線に火が付くこともあるようです。数量的平等「各人に彼のものを」の彼のものを誰が判断するのかという疑問がある、ヒュームは本人で慣れ親しむとした、確かに慣れ親しむのは味噌汁一杯にもインスタントから伊勢海老が入ったような高級なものを食べたことがあるが、その中でこれだというものはある。しかし現代は予算に応じて変化するということなのだろう。そのヒュームはアリストテレスの正義は徳(感情ではなく理性のようなもの)に対して共感が是非などの価値観を形成して自由社会を支えているとしている。共感の是は正義で非といえばナチスによる「各人に各人のものを」を生み出したりする。理性も共感による正義の価値観、またその逆の嫉妬に怒りや非も同じ感情だから入れ墨もLGBTQも人気者が良い印象を与えて社会的に許容されるようになれば幸いであるとした。はるな愛さんが子ども食堂の手伝いをしていることが断然、共感による是に貢献している。
近代資本主義の平等といえばロールズの格差原理(一番恵まれない人への機会になるような不平等は認められる)、センの潜在能力への補助、それを展開したヌスバウムのケイパビリティなどがありますが、センの幸福こそが指標でそれを補助することが格差原理というものなら、人の幸福のゴールに的確なものなどなく言うはやすし行うは難しの典型で、それを忘れるとヌスバウムのグローバルな正義のように傲慢さがにじみ出てくる。いろんな因子はあるにしても裕福な先進国が考える価値観を変えることができるということを前提にたち論理を組み立てているからで、油断すると巨大な敵になっているというところまでは見据えていない。
一方、より平等で公正な社会を目指すとした社会主義(ソ連)はどうだったかというと、資本主義(競争で優劣の決まる)に対するアンチテーゼとしての社会主義には平等であるがゆえに社会的弱者など存在しない(資本家に対して→働かざる者食うべからず→平等→対象は労働者→障碍者は施設に入所や自宅軟禁)は1980年のモスクワオリンピックでのソ連に障害者はいないにつながっている。つまり平等を追求すれば本当にいないことにされている。その社会主義は森鴎外が文芸の主義に「自由恋愛は社会主義者が唱えているもの」と書いているように家父長制家族に対する家族死滅論 自由恋愛=婚姻私事化論として新しい価値観を打ち出したがベルリンの壁崩壊、ソ連解体、逃げる旧共産圏、逃げ遅れたウクライナ、そして今、西側と言えばその社会主義の一周回った価値観を価値観のアップデートとしているけれどもエンゲルスの経済的余裕(食うことに困らないという意)と一緒に見えてしかたがない。
アリストテレスが慧眼なのは「等しくないとあらゆることにおいて等しくないと配分を要求する」の行く末が「寡頭制は人々はある一点において等しくないということにもとづいて、自分たちは直ちに等しくないと想定してしまうことから生じてきたのである」寡頭制だとしていることで、近代の資本主義には「最も不利な状況にある人々の利益の最大化のための社会経済的不平等が正当化されるとする 」格差原理という基本があるのに政治が率先して特権を形成し、反動として、いさかい(分断)が出てきたら憎悪犯罪だとして法律を作り国民の中に再びカーストを平等、差別は許さないを口にする政治家が作り出している。これは原罪として永久に多くの当事者と国民に背負わせるものであり、私が「もてあます」と書いたのはこのことです。政治家が庇護している人たちは本当に最も不利な状況にある弱者なのだろうか?それを普段、どうでもいいことを問題とする大手媒体は追及しない。人権侵害は許されないの議論で忘れられているのが、作った人間がいて、なぜかそれを固定化したがる人もいて、その中で為政者の一番お手軽で仕事をしている感を出せるのが、差別は許さない、国民に対して破ったら処罰な、というもの、作った人は時の為政者で固定化するのも時の為政者、そして処罰なも為政者で無責任の極みで何もしていないに等しいのですが、これに賛同する人がいるから永久となる。
女性運動について、イギリス大使の日本はジェンダー平等が20~30年は遅れているとする価値観が私には今一つ理解できないでいた、というか女子供は大切にという価値感を疑うことなく信じていたので考えたことがあまりなかったのですが、男女賃金格差の研究でノーベル経済学賞を獲得したゴールディンさんの記事を読んで気づかされることがあった、私の理解は、女性解放というのがあるが、これ日本では男性解放といったほうがわかりやすく、男性が責任を放棄すれば自然と女性解放につながる、フリーセックス、男は家族に対する責任など感じてはダメの2点で副次的に男性が自死することも減るだろう。つまり男性の価値観も間違っていたという話で、そうすることで女性が独立心を持つというもの。欧米のシングルマザーの件数がそれを物語っていて、そして成功した人は精子バンクで優秀な人の精液を購入すると、この価値観の変革がないと20~30年には追い付かないようですから、欧米の価値観が正しいというならここまで行ってほしい、その結果が中長期的にどうなるのかはしらないけれども。ゴールディンさんは日本はアメリカよりも女性の就業者が多くやればできるみたいなことが書かれていましたが、それは失われた30年でそうしないと生活が保てないからで女性の就業は政策の結果ではあるけれども政府のおかげではない。1997年の大型倒産、2011年東日本大震災に女性の就業上昇していて景気が心理に影響を与えていることがうかがえる。昔、柳沢伯夫厚生労働大臣時代に生む機械(装置)という発言にて大騒動になりましたが、女性の社会進出といっても国という機関かすると男性と同じくGDPのための働く機械(装置)というのは変わらないのだが、これは問題にはならないのかな、いずれにしても「女性」は弱いところもあるけれども弱者ではないと私は思います。
福祉は悲田院や恤救規則でもわかりますように昔から存在しているもので日本人の共感による正義の価値観は「最も不利な状況にある人々の利益の最大化のための社会経済的不平等が正当化されるとする 」を否定しないと思うけれども、社会経済的不平等の正当化は国民の中に上級を作ることではありません。
ちなみに私の知る弱者云々は狂気と隣り合わせの世界、助けが必要な人はほかにいる。
ジニ係数0.4はそろそろ騒乱があってもおかしくない数値と書いたが、本邦の欺瞞といえば、当初所得ジニ係数は0.5で再分配所得ジニ係数で0.3となっていて社会保障で0.2下げていて、そのぶん社会保障料が上昇しているから消費税増税と医療の利用率が高い高齢者にも医療費3割負担を求めるというのがバランスの取れた平等と考えられサラリーマンからすると0.4にならないために標的にされていて、GDPのための働く機械(装置)が虐げられるのは社会主義国よりひどく不満が募る一方だ、埼玉県虐待禁止条例改正案に対する反発というもの無関係ではあるまい。この国は資本主義であるが(一番恵まれないと自認した人への機会になるような不平等は認められる)かのように弱者が増大し社会福祉政策はより平等で公正な社会を目指した社会主義以上に資本主義のおかげで豊かな福祉なのだがその中身は偏った不公正な社会でロールズの格差原理すら守れていない不平等なのに、差別がどうの平等がどうのと言っていてまだ足りないらしい。社会主義は優劣を認めない平等という構造から経済の覇気を排除したが社会保障が社会主義以上は何の覇気を排除していくのだろうか?今のところ明白なのは財政赤字、統制経済ならソ連より早く破綻していただろう夕張のように。松下幸之助が剰余金を長年にわたって積み立てていく無税国家構想なんてものを提言していたが、その門徒も政治家になっているけれども、国がやっていることは全力で税金を使いきりさらに増額を要求する、まだ、将来その福祉の原資を生み出す子供の教育に多く配分されているなら将来への投資として見るところもあるけれども、給食業者の大半が赤字という、それなのに日本の衰退が伝えられるとなるべくしてなっているのになぜこうなってしまったのだろうになるのはないだろう。今はインフレで太政官札、西南戦争、第二次大戦後、1970年代とインフレは日本に大きな困難をもたらしている、それが今はイスラエルとハマスこともあってのんきに構えていられない状況、あちらこちらで紛争が起きて国内も少子高齢で怪しい先行きの中、政治家の役割とはなんでしょう?、そこで待ち望まれる?のがトランプのような人物で逆張りするだけで大統領になれたりする。立憲さんも埼玉県虐待禁止条例改正案に対する反発に乗ってムーブメントを感じたはずだ、自民党の余計なことをする政策に逆張りするという何もしないに等しいだけで票が流れこんでくる、小泉さんの抵抗勢力という言葉だけで圧倒した郵政選挙のように、政策をやるんじゃなくて辞めるだけだからこんなに楽なものはない、しかし減税と言っていて自民以上に急進的な政策をする可能性があるからやはりトランプのような人物が頼りと書いてみたが、昔はアメリカに起きていることが10年後に日本にもやってくるとは言ったものだが、Prop47、フェンタニルなどアメリカの有様から、実際、そこまで追い込まれてくると複雑なものです。消えた年金、年越し派遣村なんて言うものがあったが、今の媒体のミスリードの税金話、それに振り回される政治と国民、破綻するまでこれに付き合わされるのでしょう。
たとえ国事多難な状況ではなくても社会福祉は資本主義で保っているのだから格差原理を守って(一番恵まれないと自認した人への機会になるような不平等は認められる)は増やさないに尽きると私は思います。石器時代に近い文明人がしっかりとした平等を考察できるのに対して現代人の意味不明な平等の観念というのはなんだろうエンゲルスの経済的余裕(食うことに困らないという意)と一緒で裕福だから訳の分からないことを言っていられるのでしょうか。


