10月中旬ですが今年の8月15日で77回目の終戦記念日にTVの戦争に関する番組を見て戦争の反省について思い浮かべたことをメモしておく。私は昭和生まれなので結構、戦争に近い世代のはずなのだが、戦争の名残に触れるのは慰霊碑とか映画などの媒体に身近には足を撃ち抜かれ帰還し、その後の人生をびっこを引いて生きる羽目になった祖父に田舎の仏壇の上のほうに飾られている軍服か学生服かを着た若い人の遺影ぐらいで小学生の時に天王寺動物園近くの地下道でどちらか忘れたけど手か足かない人が傷痍軍人だから募金してというのを見たときに驚いた記憶がある。驚いたのは手か足かがなかったことで、普通の生活をしていたら、すでに町は復興していて風景に戦争の痕跡はなく手足のない人に出えあう機会もなかったからである。それを考えるとバブル景気の反省を今の20代の人に問うたところで近いけど実感はないから解らないという回答が返ってきても不思議ではなく、私も戦争の反省を思慮しても近いけど実感が薄いのでよくわからないというのが正直な感想だから反省についてあまり考えたことはない。そういうことで最初は肌感覚として少し理解しているかもしれないバブルについて書いてみよう。最初にバブルで#1記憶に残っているのは電電公社が民営化してNTT株が公開されたことで、当時、学生だった私のもう一つの顔はパチンカーで梁山泊という人らもいたけど、私も規則性を重視するタイプで負けて歩いて帰るときは藪から棒に打った時が多い。競馬も万馬券狙いを少しして、今はパソコンを使いアルゴリズムを形成しているのかもしれないが私は馬とか今も全然判らないんだけど万馬券に関する資料と競馬新聞に何日も目を通して頭の中で試算し4,5回は当てたかな、ただ掛け金が100円なので当てても1レース20万ぐらいにしかならなかったけど両方トータルはプラスでささやかな贅沢をさせてもらったが、そのうち朝から開店の列に並んでいるとか何十時間も競馬の資料に打ち込む自分が何か嫌になりギャンブルを辞めてからもう20数年は経つかな、そういうギャンブラー気質の少しあった私はNTTの株は国有事業という独占からの転身で儲かる可能性が高いから借金しても買おうかなと考えているうちにどんどん値段がつり上がっていくのだが、最先端が好みなので(出遅れたから)結局、買うのは辞めた。どんどん値段がつり上がっていく波及は不動産取引にも、しかしそれは実体以上のまさしくバブルであった。他方、西成のあいりんでの話でバブル中で世の中は景気の良い話が出ていたのに人夫出しとかで仕事にあぶれる(ない)人がいてここはあまりよくないということを聞いていたからバブルの恩恵をみんなが受けていたわけでも無く、そのあと暴動が起きた。ちなみに暴動が起きた後の冬に私が見たのは新今宮の駅の真下でおじさんらがドラム缶で暖をとっているのだけど何を入れたか知らないが炎が高く上がっていてその為に消防隊が待機している横でおじさんらが何食わぬ顔をして暖をとっているそんな所です。バブルはそのあと地上げの問題が浮上し土地関連融資の総量規制があり崩壊する。バブルの反省?私は煽りに乗せられることなくリスクをとることはなかったので直接の利益もなかったが損失もなく反省材料はないけど、TV等でNTTの株上昇の話が連日ニュースで取り上げられ射幸心を煽られた人が調子に乗って投機に走り株価がさらに上昇、それは不動産にも波及、価格が上昇すると地上げが問題になり、今度は地上げをニュースが取り上げて国が規制し大損をこいたということで煽りに乗って大損こくのは仕方がないが、関係のない学生さんが就職できなくなる氷河期世代を作ったいうのはどうなんでしょうかというのはある。ちなみにバブル時は就職情報誌が自宅にたくさん送られてきて中には内定はお済でしょうかと企業から直接電話も何件もあって就職を売り込んでいた。
#1プラザ合意後に対日貿易赤字是正の為の内需拡大(金融緩和)を求めるアメリカ、それに従う日本という背景があって1989年に「NOといえる日本」という本が話題になった。この内需拡大(金融緩和)がバブルの基盤となってじわじわ株式の値が上がっていった。円高の影響で海外旅行も1000万人の大台に乗った。
戦後、西側の道徳的価値にどっぷり浸かった今の日本なら「ウクライナはロシアの生命線」に激しく反発すると思いますが、幕末からの日本は列強国に飲み込まれないために自らもより強靭にならなければならない「満蒙は日本の生命線」という考えと日露戦争で多大な犠牲を出して得た権益を手放すのは国民感情としても許されないから南満州鉄道の権益を独占しアメリカと軋轢、イギリスとの仲(同盟)も気まずくなる。もしも小日本のままアメリカに鉄道の権利を分け与えて、イギリスとの同盟を堅持もしくはハルノートを受け入れていれば随分と違った結果もあったでしょうが、そうなれば今でも大日本帝国?。しかし当時はワシントン会議でハーティングの提唱した軍縮を承諾した幣原の外交姿勢は弱腰と評価され1927年の南京事件を招いたと烙印も押され、結局、満州事変も抑えこめなかった。遺憾砲と揶揄はされるが現在なら幣原の外交姿勢も理解されるかもしれないが、弱ければ不平等条約を押し付けられる時代(今も北にしょっちゅうミサイルを飛ばされ、中国には領海侵犯を繰り返されているが遺憾・・)、日本も朝鮮半島や中国ら他のアジア諸国と同じ立場になった可能性がないとはいえない。現にキルギス、ネパール、ビルマ、朝鮮半島などの冊封国を持ち南モンゴルやチベットも征服(この征服が今もウイグル、チベットの問題に繋がっている)していた清朝のような大国が列強国に翻弄されアヘン戦争ではことなかれから林則徐を左遷し不平等条約を押し付けられ続けた中、日本は徳川幕府が約260年経つ幕末で弱体(安政の大獄どころではなく島原の乱のように一族郎党根絶やしにできる実力があれば違った結果も)していたから破約攘夷論で日米修好通条約を反対していた長州が下関戦争で敗れると幕府では攘夷は不可だからと外国に近づいて軍備増強で無血開城の後の近代改革という速度のある転進(もともとは公武一和の開国論が藩論の長州)が可能だったのであろう。その結果、1911年関税自主権を回復し破約攘夷(1899年日米通商航海条約)を達成、一時的とはいえ国際連盟体制下で5大国までになった、日露戦争にも勝利したからだ。そうした流れから石原莞爾は満蒙に国力を求め柳条湖事件と満州事変を首謀するが、そんな彼でさえ戦争の拡大は戦術上の関係から望まなかったが思いどうりにはいかない、対支一撃論が優勢になり戦争はますます拡大し破滅の道を歩んでいく。その源流は矢張り尊皇攘夷にあるのだろう。砲艦外交に振盪した幕府は開国に活路を求めるが孝明天皇は攘夷を勅命、砲艦と攘夷に板挟みになった幕府は何とか天皇を説得し日米修好通商条約の勅許をいただくが攘夷(国防)を目論む方々には通じない、表向きは尊皇攘夷から破約攘夷に転向しつつも目標を航海遠略策(富国強兵)に変えていく。そして八戸事件や西郷の明治六年政変でもわかるように野望は征韓論や台湾出兵に繋がっていく、その理屈は神功皇后の三韓征伐までさかのぼるという。尊皇としても飛躍しすぎているのではとは思うがアジアの解放(最終戦争論)というのも似たような感じなのだろうか。いずれにしても列強と対等になる為の富国強兵が焦眉の、そんな時代でした。