陰謀論よりうさん臭い話だけれども・・・何かの気づきにはなるかもしれない。
パート1からは哲人たちの自死や死についての見解に接することで死とは何かを導き出そうとしましたが、哲人も人の子であり死生観は様々なので断定した答えを導き出すことは叶わなかったかもしれない。その中、そこらへんのおっさんの私が突然死を理想としたのは自分の死に向き合いたくない死を否定し生きたいというのがあるからであって、生まれた瞬間から死に向かって歩み、仏教的には、その「答え」も出ているに対して、生きたいという意思はその答えに抵抗しているということになるけれども、では一体何に抵抗しているのか、それはおいおい答えが見えてくるとして、死に向かっているのに、突然、舞い降りてくるように感じるほど人間は普段、死について無頓着でいるのは、生きたいという意思が自覚させないように忘却させているからだろうか?まずは死について考えてみよう。
ところで死とは何だろうか?医学的には脳死、心肺停止、多臓器不全ということなのかしら、それだけなら死は単純明快で肉体の機能不全=死=すべての終わりと、2行で済むのですが、相対性理論的(死後に量子もつれように光の速度以上の速さで移動できるとして)な前世、来世の魂は不滅の輪廻、または永劫回帰、そしてイデアの世界のように別の世界が存在している2元論の形而上学のお話が出てくると「?」となりますように宗教、哲学で提唱される次のステップ(天国への過程 輪廻転生 )の為の死が入ってくると難解なものに変化し、死に対する畏怖や死生観(生き様)に影響を及ぼしたりします。肉体が死んだ先には何かあるのでしょうか?(肉体は死んでも魂(意識)は残るのか)、臨死体験はステップ先の存在を暗示する。フジテレビのアンビリバボーで「プルーフ・オブ・ヘヴン」の著者エベン・アレグサンダーの特集が以前に放送されていて、内容は脳神経外科医で一元論者でもあった著者が瀕死状態になり臨死体験をするというもので、幽体離脱し家庭の事情で一度も会ったことのない夭折した妹に出会うという死後の世界を示唆する摩訶不思議な話でした。臨死体験が幻覚ではない根拠としては大脳皮質が細菌性髄膜炎によりダメージを受けていて脳外科医の見地から幻覚を見る状態ではなかったとしている。こうした臨死体験にはキリスト圏なら空中を飛ぶ、仏教圏なら綺麗なお花畑や三途の川を見たなどお国柄(宗教)が出るものと、トンネル、光に包まれた、すでに亡くなっている親類縁者などの迎えがあったとする同一の体験や立花隆の臨死体験の調査には体外離脱、臨死体験の際にfeeling of peace 安らいだ 、joy 喜びを感じる人が多数を占めているとしたアンケート結果もある。空中を飛ぶということには覚えがありまして、小学生のころ転校先の最初にできた友人が日曜礼拝に通っていた関係で一時期、私も教会に出入りしていて、その際に雲の上でイエスと信者たちが死後に楽しそうに語りあっている冊子を見せられながら熱心に布教されましたが、そのころには富士山に登山経験があり、気づいた時には雲を見下ろしているから内心は雲の上には乗れないでしょうと思っていたけど、子供だからよくわからない振りをして場を繕っていた、けれども信心のある人にとっては空を飛びイエスの元に行けるというのはかけがえのない思想なのだろう。こうした信心が深層心理となり幻覚を見せているのだろうか?しかし、其れでは説明できないこともある、エベン・アレグサンダーの場合も面識のない夭折した妹に会い(後に写真で確認)、病室で幽体離脱した際に見た内容と実際の出来事が正確に符合していたという話です。他にも移植で前者の記憶が残っている記憶転移やイアン・スティーヴンソンの転生調査の話も同様に脳内現象(一元論)だけでは説明できないこともあるようです。脳内現象(一元論)に目をみけてみれば虫に寄生するハリガネムシは生殖の為に外部に出る際にはたんぱく質を寄生している虫の脳に注入して宿主をコントロールして水に飛び込ませるというのがありまして(その習性を悪用してカマキリのお尻を水に付けてハリガネムシを出したりするあれです)人間もアルツハイマーはアミロイドβペプチドの沈着がタウ病理を形成しcaponたんぱく質が脳を萎縮させているのが原因とみられていて、脳の変化が認知能力の低下など意識に影響を与えていると考えられている。映画「恐怖」にも出てきましたが、脳神経外科医のワイルダー・ペンフィールドは脳の神経細胞の異常により発生するとみられているてんかんの外科手術で病巣を探す為に脳に電気刺激を与えることでホムンクルス(機能局在)があることを確認(のちに生活習慣によりホムンクルスは変化する場合もあるということも認められるようになった)、運動体に電極を充てるとてんかん症状が現れ、シルビウス裂(外側溝)に電極で刺激を与えると臨死体験に似たことが頭の中で経験(音楽が聞こえたり、神のようなものに出会えたり)できるということを看取した。これらは脳が意識を司っているということを示唆しているが、ワイルダー・ペンフィールドは「脳と心の正体」で医学的アプローチで心身二元論を提唱している。その脳に電流を流す判断を下しているのは何なのかという疑問です。はたして意識と身体は別物で意識(魂)は身体が滅しても存在し続けているのだろうか?。どうですか胡散臭さそうな話でしょ?これからさらに深みに入っていきます。