井岡一翔の刺青の件、試合を見て思ったのは刺青が明視できたのでJBCに喧嘩を売っているなと、それから騒ぎになっているのを知って媒体は煩わしい事柄によくも口を出せるなというもので、考えていないからできるのでしょうが気楽なものです。

 

私が記者とかライターとか形式だけでもジャーナリズムを掲げているなら、最初にJBCがそれ相応の処分をくださなければ、この組織は機会主義的に物事を判断する風見鶏の組織であり組織の刷新もやむを得なしという論陣を張る。それ相応とは、今も司法にて係争中だが管理が行き届いていないと間違いだけでジム会長らにライセンスの更新をさせずに選手の移籍とジムの新設を認めず選手の日本でのキャリアを止めたのだから、それに照らし合わせると現役の世界チャンピオンが泥酔して他人の車を破壊した器物破損に対して3か月試合停止の処分は考えられない。整合性を考えると3年の停止処分が妥当だろう。井岡の件は前々から指導されており、その後、刺青が増えていていることを付け加えれば、今後、日本で試合をするなら移植手術を義務づけて従わないのなら日本での試合を認めないがバランスのとれた処分になるだろう。人気者だから何しても許されるのはおかしい、ルールを制定する権威が処分を決定して下すというのは、それぐらい重い責任が発生するということです。そうならないのであれば機会主義的に物事を判断する風見鶏組織、ジャーナリズムを掲げている媒体が、そこに批判的精神を持たずしてどこに持つという話。ただし私は罪の重さと罰の重さが釣り合うのが妥当だと考えているので、整合性を合わせて厳しい処分が下されたら罪の重さと処分が釣り合っていない不当処分と非難もします。そういうことになりますから権威が私情と空気に沿って処分を決定してはいけないと前々から主張しているのです。しかし、以前に亀田陣営との違いはよく考えているとしているように井岡側から騒動以後大した声明が出ていないのはやはり賢いというほかない。例えば「JBC職員の立ち合いの下、リングに上がったのだからJBCの管理に問題の根源がある」という正論でJBCと真っ向から対立すると処分に私情が上乗せされかねない、それが亀田の負けても王者の件であり、正義は貫かずにだんまりを決めておとなしくしていれば大岡裁きも期待できるということで実はこの件のことはあまり心配していません。

 

 

刺青を否定するのは時代遅れだ、というものは多様性を否定することに対するものなら、そういう見方もあるかもしれませんが、刺青自体は文化的ではあるが文明と考えたら背進しているものではないのか、というのも刺青は部族的であり宗教などの精神世界が背景にあるからです。「そういう考え自体が古いんだよ、今や刺青もカジュアルでファッションなの」ここら辺は感性の違いだと思いますが、私にも当然、若い時もあったのですからカジュアルでファッションは理解しているつもりです。今から30年以上前にパンクロックにはまっていてパンクファッションに身を包んでいた。当時は男性がピアスの穴をあけることはゲイを疑われたもので、右じゃなく左耳だからゲイではないとよくわからな理由を述べていたものです。かなり奇抜なファッションでしたから大人から敬遠されていたことが逆に心地よく他の人と違うということに酔っていました。ここら辺はカジュアルな精神性です。バレラの胸部あたりにあるボクシンググローブの刺青やジョージクルーニーが映画フロムダスクティルドーンでしていたトライバルの刺青を入れるならこれだなっと思ったぐらいですから、もし若い時に刺青がカジュアルなファッションであったなら私も入れていたかもしれません。しかし、私が若い時代はパンクにも刺青をしている人はいましたが自分がするとなればかなり難度の高いもので、周囲に指に指輪のような刺青(いわゆる年少リング)を自分で入れている人がいたので見慣れてはいましたが、ドロップアウトした知人が1年ぐらい月日が経過したぐらいかな、会いに来たのですが上半身に刺青が入っていて指も欠損していた。その時に指を詰めると言っても何かやらかすことに第一関節から詰めるということを聞かされて、短い期間に3回も何かやらかしたのか、その理由は聞かなかったのですが度し難い人間の下についたんだな、彼は短命かもしれないと思ったのを今でも覚えていて反社会的な人間がするものだという認識は今も残っていると、私にとっては今も難度の高いものだということは変わりません。なので若い人が本格的なものをいれているのを見ると暴力団でもないのにどうしていれるのだろうという気持ちになるのが正直な感想です。「だから、そういうのが時代遅れなんだよ」、それは分っています。ピエール・ブルデューがいう目は歴史の産物というように、これは私が生きてきた環境で見聞きしてきたことで備わった価値感、その視点から刺青を彫っている人の対置にある人の価値観を変えるのは難しいという話をすると、日本にとって刺青は東夷伝(魏志倭人伝)に描かれていることからも歴史的で罪人に施すものや、そこから派生して芸術性を高めたものまであり文化として存在していた。一方でお上からすれば行き過ぎるとおやめなさいと布令をだしたがるもので明治に入り文明開化が起きると、その傾向は加速するものになった、加速とは、時代が変わったのだから品のないことはおよしなさいというもので、今の軽犯罪法にあたる違式詿違条例によって(違式罪 刺青 春画の販売 混浴の風呂営業 男女相撲、蛇遣い等の見世物)などなどが禁止されることになった。しかし敗戦後に自由権が出てきて違法ではなくなったのですが自由になったから刺青を入れるかというと、そんなことにはならなかった。刺青愛好家の人たちもいるのですがどちらかというと特定の人がいれるもので戦後(環境的に成りてが出やすい)と高度成長にのり勢力拡大、本来は裏道で生きていく人たちが表の世界でも存在感を表していたので暴力団=刺青というイメージをより強く作り出したのでしょう。こうしたことから日本でそれを経験してきた年齢層が刺青に嫌悪を抱くのは自然なことといえるでしょうから、このイメージを覆すには相当の時間と苦労が必要だと思います。他方、芸術性のある文化であり有名人がしていることで魅力的なものにもなるのでしょう。

 

明治5年~昭和23年文身禁止令

 

 

「ボインは赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ~、お父ちゃんのもんとちがうのんやでぇ~」

 

実はこの件には簡単な解決方法(本質には解決しないが)があります、ロングスロープを着て試合をするというものです。メリットは出血をした選手がレフリーのシャツで血を拭うというのがあるように自分のもので汗や血を拭える、デメリットと言えば見慣れていないので違和感があるというぐらいです。上半身裸ではないと違和感がある、鍛え抜かれた体が見たい。それなら男女平等ですから女性もおっぱい出して試合をしていないのは不自然と感じないといけません。パンクのスペルマのラン子はおっぱいを出して歌っていた。「頭がおかしいのか」という声が聞こえてきそうですが、まじめな意見です。私は筋肉質(他人の筋肉より自分の筋肉という意)なので軽量級ボクサーの鍛え抜かれた肉体をどうしても見たいとは思いませんが、見たいと思うのはもしかしてサウナに行くといやらしい目で私のことを見てくる同性がいるのですがそれと同じようなものなのでしょうか?上半身裸で殴り合いをしていることに不自然さを感じない、これは見慣れたものなので感じないでしょう。一方、女性がおっぱいを露出して試合をする、これは見慣れていないので違和感がある。どうして違和感があるのか?女性のおっぱいをいやらしいものと捉えているからでしょ。しかし、それは男性に対しても肉体美と形容しているぐらいですからセクシュアリティなものがある可能性は否定できません。それに違式詿違条例の所で「註違罪 往来での裸体または服脱ぎ行為」をあえて外しておいたのですが、明治のころは混浴風呂、炭鉱で働く女坑夫や女相撲もおっぱい丸出しだったようで、今とはおっぱいに対する感覚も少し違ったのかもしれません。そして条例で禁止されたのはそういう人もいたということの表れで文明により刺青と同じく品のない項目に据えられたということになる。つまり公衆の面前で上半身裸というのは文明から背進しているものになるからロングスロープを着て試合をする一番のメリットは文明的であるということです。アマチュアは以前から服を着て試合をしているでしょ。おっぱいが必要以上にいやらしいものに変化していったのも気品の為に隠すようになったからとか、二束三文の男のものとは違い、その方が価値が高くなるとか、知らないけど。ボクシングにおける上半身裸の由縁を辿ってみると紀元前ミノア文明のフレスコ画に裸でボクシングをしている少年が描かれているように紀元前からの慣習なのでしょう。どうして裸なのかはフレスコ画の男性の肌色が赤銅色でクレタ島の気候が温暖ということから普段から裸で生活していていたことが窺える。それから服はリネン素材のエクソミスということで運動に適しているとは言えない、なのでふるちん(全裸と書いたほうがいいかな)にグローブのようなものを付けてボクシングに勤しんでいたのでしょう。ちなみに女性はカラフルな服を着ているが胸元は大きく開かれおっぱいは隠れていない。ベアナックルボクシングの時代になるとさすがに文明としてスパッツのようなものを穿いていますが、ボクシングの上半身裸は紀元前2千年(そのまえからあるでしょうけど、日本は縄文時代)の慣例で恐らく裸で生活をしていたからというのが理由だと推測できる。

 

ここまでまとめると刺青は暴力団がしていることで負のイメージが強化されたということもあるけれども、根底にあるのは文明開化ということから湧き出た品がないという価値観は就職活動などの社会生活にも浸透している。ここまで読んでいただければ目は歴史の産物で対置にある人の価値観を変えるのは難しいという話も理解していただけると思う。刺青も違和感、服を着て試合をするのも違和感、女性のおっぱいも違和感と、このような話をアマゾンの奥地に住む裸族が知ったら、それこそ「頭がおかしい」と考えるのではないでしょうか。まさに目は歴史の産物、価値観というものは、そんなものです。それから、この刺青の話は多様性、男女平等、セクシュアリティ、倭人の刺青をオマージュしてタトゥを入れていないのなら文化の盗用と煩わしいものが複雑に絡み合っていて気軽に口が出せるものではないでしょう。

 

 

日本ボクシングは戦後、青天井の興行に力自慢の荒くれものが集まってきたので、社会からはみ出し者の集団と見られないようにしようというのが努力目標としてあったと思う。その一環が刺青の排斥です。刺青排斥は「高度成長にのり勢力拡大」には興行も関連し暴力団=刺青というのがあるので暴力団との距離を置くということを#1連想しますが、まったく関連がないとは言いませんが、どちらかというと品のない項目に対する対策と見た方が正しいでしょう。なぜなら刺青を排斥しても暴力団を敬遠できないからです。ルールは問題解決のために存在しているとすると、例えば暴力団の影を排斥したければジムや選手にチケットを販売さすことはやめてコミッションや協会が管理することをルールにする、こちらの方が問題解決に適している。それを考えるとこのルールはサウナのタトゥお断りと一緒で他の客を不愉快にさせる可能性のある刺青の排斥にしかなりません。その排斥は厳たるもので基本は試合はあきらめるでしたが、人情味のあるジムの会長さんがいて情熱を燃やして練習している若い人に何とか試合をさせてあげれないものだろうかと捻出した策が移植手術です。(その当時にもファンデーションは在りましたが、それだけ厳たるものであったということ)そうした刺青排斥による効果は鬼塚は引退後にタトゥを入れたようですが平成の中ほどまでは身ぎれいを演出できたのではないのか。(在日米軍や輸入ボクサーと言われた人たちも大規模に刺青を入れている人がいたという記憶はないんですがバレロあたりからたがが外れたのでしょうか?ここら辺は記憶があいまい)それではどうして厳たるものを維持できなかったのか?それは若い人が自然に集まってきた時代は厳たる対応で通せたのでしょうけど若い人の入門が減ってきたので対応を軟化させたというのが実態に近いのではないでしょうか?世界タイトルに関わる上位選手に刺青をしている選手が現れた。そういうことで厳たるや軟化は業界の都合で変化したということになる。これは相撲の世界でも舞の海が身長が足りずシリコンを頭に埋め込んで新弟子検査に挑んでいたが以後は軟化した基準になっていることから若い人の入門が減少したところが抱える悩みなのかもしれない。社会状況に適応していくということ自体は何も悪いことではありませんが、おいしい部分だけ選定するということは可能なのでしょうか?厳たる排斥は上半身裸のプロスポーツに従事する際の足かせになることから刺青を入れる抑制効果になったがファンデーションで隠すと問題にならないのなら抑制効果は期待できないし、隠した所で消えてしまうわけでもなく、ルールというものはすべての選手に適用されることが前提なので、そのルール適用が末端までひろがれば、これまでもボクサーの犯罪の強調がメディアから行われてきましたが、部屋とワイシャツと私みたいな感じで犯罪と刺青とボクシングがリンクされることが考えられる。(上半身裸で刺青を強調させた笑顔の写真は使い勝手がよい)また、ドリフターズのコントに刺青の数で威圧してマウントをとるというのがあって最後に全身刺青の高木ブーが出てくるというオチだったが海外ボクサーにも見られる刺青は段々増えてくるというところも考慮しておかなければならない。社会からはみ出し者の集団と見られることを避けたいというのがルール制定の背景になっていたと推測すると、JBCは、これらが一番気になるところでしょう。それを許容できるならルールを廃止すればよいが、許容しかねるのでルール(リングに上がれない)を残したまま軟化の対応で誤魔化していたら、今回のことが起きたのだけれども、刺青は隠した所でなくなるわけではないのでいずれこのことに向き合わなければならないかもしれません。要は許容できるのかできないのかというものです。

 

#1 観客席に暴力団関係者が観戦していたことで暴力団との繋がりを匂わすものがありますが、常識的に考えると、昔ならいざしらずボクシングで金になるなんて一握りどころか一粒ぐらいしかいないから格闘技との親和性を考えると嗜好というほうが妥当でいうなれば私たちと同じくファンという方が多いと思う。友人、知人、OBとかにそういう人がいたとして、その中でお金を持っている人が困っているところに援助したりチケット販売で人脈を使うとかの応援ということが考えられる。それを癒着と言われれば癒着なのでしょうが皆さんが観戦したというものを読んで想像するものとは違うことが多いと思う。松村Xカオサイのように会場がざわめいたのでカメラが抜いたら著名な人がいて、そういう著名な人たちの入場をお断りすることは可能でも顔を知らない人までお断りするのは難しい。