これは2020年の5月に書いていたものです。

 

 

理由は本人のみ知ることなのかもしれませんが(本人もよくわかっていないということがあっても不思議ではない)女子プロレスラーの方がTVのリアリティショーの出演に端を発してインターネット上での「吊し上げ」にあい、それが痛心の一つになったかどうかはわかりませんが自死を選び騒動になっていた。自死については思うことがある、昨年、ネット上のいわゆるこちらだけが知っている人が自死を選んだらしい。その人は死にたくなる「病」で何度か未遂をしているそうだ。その人が言うには他の人とは見えている世界が違うということらしい。その人は配信サイトで配信していた人で「らしい」「そうだ」で解る様に、こちらだけが知っていると言っても本人談の一部分を微かに知っているだけで実際は何も知らないのだが同郷で配信に映し出される親しみのある景色が加わり気にかけていた。自死について私としてはショウペンハウアーの「自殺について」を読んで得心(ハウアーの反出生主義で厭世観のネガティブ思考に頭はついていけていないが)しているところがあっても、ハウアーが文中で喝破している教義(キリスト教)にも載っていない己の哲学で・・・と同じようにおのれの願望で生きてさえいれば良い事もあるだろうや、あなたのことを大切に思っている人のことを考えればと、標準的な道徳で人生に意味を持たせようと心の中で葛藤(抵抗)していた。しばらくし配信サイトとは疎遠になり、配信から、その人の近況を知ることはなくなったのですが、別のSNSから入院中とかの近況は自動的に情報として入ってきていた。そして去年、亡くなったという情報が他の人から回ってきた、自死したらしい。最初、事実ではないだろう、これまでのようにそのうち入院中とか(可笑しな言い回しいですが)元気な近況が聞こえてくるのではと願っていたが、たぶん訃報は事実なのだろう。ご家族のことを考えるとこんなことを考えるのは申し訳ないけれども、事実だと思った時に、もうこれで死にたくなるけれども生きなければならないと苦しまなくてすむねと、その人の自死を納得させようとしている自分がいた。勿論、自殺願望の願望にもいろいろあって有名な方の後追いのように(ウェルテル効果)衝動的なものの場合は助かるとあの時は助かって幸いだったというものもあって全部が一緒ということでもなく、せつない気持ちもなきにしもあらずだが、その件は私の自死についての考え方を少し改めさせた。

 

 

自殺を良いものとして捉えていない社会や宗教にもある条件を満たせば了承する節がある。利他的な自己犠牲が伴う時です。衆生救済(捨身行)としての人身御供、補陀落渡海、即身仏があり、千日回峰行も失敗は死で自死である。即身成仏は生きながらにして仏になることですが、昔、修行中(土中に入る捨身行)の坊さんが土中から警察官らに引きずり出されているニュースを視聴したことがありまして、現代の倫理観では修行の一種も自殺行為と判断されている。他に特攻、武家社会に見受けられる切腹などが利他的な犠牲に該当し、こうしたことをデュルケームは自殺論の中で集団本位的自殺(利他的自殺)と分類している。時代の倫理観によって変化は見受けられますが、自殺にもある種の(崇高な)目的があれば了承されるものがあり絶対否定ということではないようだ。安楽死はどうだろう?苦しみしか残されていないわずかな生命に自らの選択で終止符を打つ。苦しみから逃れる為に自死を選んでいる?それまで十分に重篤な病と闘い苦しみに耐えてきているのだから、それは付属でしかない、死は誰もが逃れることが出来ないもの、老いて寿命として受け入れるというものもあるが少し他の人よりも早く達観(悟り)したから受け入れたと考えるのが妥当だろうと、能書きを垂れているおっさんの私は、もうなんか生きるのがしんどくなってきたなということはままあって、寝たままの突然死、これが一番理想的で、次にロードワーク中に心不全かなんかでそのままというのが楽だろうなと考えることがあるが、キューブラーロスの5段階の死の受容プロセスのように死に繋がる病気を告げられたら、気が小さく短気で猜疑心が強いと、まるで映画レオンに出てくる「Everyone」と絶叫するスタンスフィールドのような性格の私はきっと頭が真っ白になって必死に死を否定し生にしがみつこうとするだろう。しかし病気は容赦なく襲い掛かってきて恐ろしいものだとしてもいつしか死を見つめ受け入れなければならない日が訪れる。要するに達観は非常に難しいという話で、難しいのは、私の望む死は発見されなかったらいわゆる野垂れ死にと言われるもので畳の上で死ぬというものがあるように野垂れ死にの方がより悲惨なようにも思えるが、即効性という点では病院で告知されて闘病のすえ最後を迎えるや自死を選ぶよりは急死は畏怖の程度は軽いと私は考えていて、つまるところ死にかたに畏怖を抱いているからです。


 

 

ハンニバルの自死のように歴史上の人物にも自死する人は存在していることから文明に自死はつきものなのでしょう。そこで哲人たちの自死についての見解を見ていきたい。日本の初老の天国に近い島と言えばニューカレドニアになると想定されますが、古代ローマ人の天国に近い島と言えばトゥーレ(シェトランド島 フェロー諸島 ノルウェー アイスランド オークニー諸島 スカンジナビア)と呼ばれていた理想郷があり、そこにはアポローンを崇拝していたヒュペルボレイオス民族が住んでいて、大プリニウスの博物誌にヒュペルボレイオス民族は「そこでは風が心地よく暖かなので、生命は一般に住民各自の意志によらなければ終らないのであるが、しまいに人々は生きることに疲れ飽きてしまうから、一定の高齢に達すると、通例、最後の御馳走を食べたのち、特にこの用にあてられている高い岩の上から海に飛びこむ」と書かれている。また、ハイパーボレアとしてスウェーデン(中央アジア説もある)にも身を投じたりする断崖はÄttestupa(エッテストゥーパ)と名前を付けられていて映画ミッドサマーの元ネタにもなっている。~名所というものは本邦にも存在しておりますが、トゥーレ、ハイパーボレアはネガティブな意味づけも見方によってはできますが、アノミー的自殺としての意味が強いようです。ただし、近世の厭世観としての死ではなく死自体は生きているより良いという楽天の意味が強く死についての解釈は真逆で、アノミーといえば、それまでポリスの規範に沿って生きてきた人々はアレクサンドロス3世の征服によってポリス規範(宗教的)は薄れ、コスモポリタンとしての考えを持つようになった。またソクラテスが人生とはの答えを示さなかったのでヘレニズム(自分の幸福を考える)が誕生して多くの学派(考え方=哲学)が各々の考え方を持つことにもなった。その中、個人主義の観点からストア派、エピクロス学派、キニク学派のように自死を肯定する学派も出ている。それに昔のマルセイユではお年寄りや、それなりの理由がある希望者には六百人会議の承認が得られれば役所で毒人参を煎じた薬が公然と手渡されていたという。モンテーニュ随想録2巻の第3章ケア島の習慣にもケア島の老人が毒物を飲んで自死した話を参考に「 死はすべての苦痛に対する万能薬である。 」「最も自ら欲した死こそ、最も美しい死である。生は他者の意志による。死は我々自身の意志による。他のいかなる場合においてよりも、死に臨んでこそ、最も我々自らの意志に従わねばならない。…もし我々に死の自由がないのならば、生きるということはむしろ屈従である」と語っている。ソクラテスは「死を恐れるのは知恵がないのにあると思っているとこに他ならない、なぜなら誰も死を知らないから」と語り、エピクロスも「死は悪いもののうちで最も恐ろしいものではなく我々にとっては何ものでもない、それは死は経験できないから」としている。ヴィトゲンシュタインも「死は人生の出来事ではない、人は死を経験しないのだから、永劫回帰としてみれば現在生きている者は永遠に生きる」としている。ストイムズのストア派は般若心経の照見五蘊皆空、度一切苦厄の仏教と似た考えを持っていて、ゼノンは転倒し足の指を折ったので息を止めて死んだという一説がありますが、食事を取らずに衰弱死したというのもあります。

 

 

毒人参といえばソクラテスの死刑にも持ち入れられたもので、ソクラテスは脱獄も可能であったが「単に生きるのではなく善く生きる」として死刑を受け入れている。この善いというのはギリシャ語でエウタナシアといい安楽死はエウタナシアからきている言葉で善い死という意味もあるからヘレニズム時代では善い生き方=善い死で場合によっては自死もそれなりに受け入れられていたかもしれないが、ソクラテスは死自体は生きているよりも断然、良いものとしているものの人間は神の所有物だから勝手に死んでは駄目で死は他から与えられるのが好ましいと自殺には否定的で、アリストテレスのニコマコス倫理学は「自殺は、例え、その人自身の身柄にとっては、不正ではないとしても、国家に対する一つの不正である」「自殺は正しくない行為の一例であり、法はそれを禁止している、自己を死滅に導くものに対しては一定の貶責 (悪い評価をあたえる)が与えられ、自殺者の手は胴体と離されて埋葬された。」そして「恐ろしいものは、しかるに死である。けだし、 死は極限であり、死者にとってはもはや善も悪も およそいっさいのものがないとされるのだからである」としている。アリストテレスの場合は最高善を目的とするポリス共同体、そのポリス共同体の法律は善を目指す最上のもので、その律を破る自死は国に対する不正だとし、マサダの悲劇やワルシャワ・ゲットー蜂起に見られるようにヘブライズムのユダヤ人は(タルムード(ラピ)最後まで戦う)という思想から自死はご法度という考えも存在している。現代も社会影響を倫理的に考えると国が自死を肯定するわけにはいかないけれども、宗教的規範が薄れてくると哲学的規範が出てきて条件付きで安楽死を認める国も現実に出てきている。

 

 

「映画brother 、白瀬(加藤雅也)の青酸カリ手渡しから考える人道問題

 

最後まで戦うという思想は、これを許していないが

白瀬は手下に「マフィアに捕まると壮絶な拷問が・・・」捕まったらこれで死ねとニヤリとしながら青酸カリを譲渡、その白瀬はマフィアが仕掛けた爆弾により暗殺され手下の石原らが報復に出かけるが、一人の若者は殴り込みの前に車中で手渡された青酸カリを飲み自殺、他の手下は討ち死にした。奴隷や拷問の末に殺されるぐらいなら自死を選択できるというのは人道的になるのか?尊厳に値するのかである。

 

最後まで戦うというのは敵前逃亡による士気の低下と戦略にダメージを与えかねないということから脱獄兵にはそれなりの報いが加えららるように戦争など変事において重要な思想であると考えられる。そして「仲間の為に」は畏怖を感じる死を超越する効力を持つことから味方の為に命の限り戦う思想はそれなりに理にかなっている。一方、捕虜や奴隷になるぐらいなら自死を選んだ方が潔いというのもマサダ攻略の取っ掛かりになった崖の埋め立て工事のように、敵に、その力を利用されるという点で自死を選ばさせるというのもそれなりに理にかなっていると、どちらもそれなりの理屈はあるけれども、どうせ死は避けられないのなら自らの選択でというのは人道的なのか?ピコデラミランドラの「人間の尊厳について」には自由意志とそこから湧き出る理性が他の動物には無い人間の尊厳とし、プリニウスは自殺は人間が神から授かった最上の賜物で人間だけが持つ特性としている。これらを前提にすると死しかない人に選択があるというのは人道的で人間の尊厳の一つになるのかもしれない、とすると白瀬のニヒルな笑みのこれで死ねも人道的なのかもしれない。ちなみにバッファロー、イルカ、レミングら一部の動物にも集団自殺のようなものが見受けられるが、これらは病気などが要因(事故)と見られている。

 

 

人道(人命)で想起するのはダッカ日航機ハイジャック事件で当時総理大臣であった福田赳夫の「一人の生命は地球より重い」であるが、サミュエルスマイルズが1859年(日本では1871年)に出版した自助論の中で「生命は尊貴である 一人の生命は、全地球よりも重い」と提唱している。本が出版された19世紀と言えば18世紀後半にフランス革命が起きて国民国家が誕生し産業革命の時代である。明治維新が起きた日本も自助論が100万部売れたという。ちなみに貴賤上下の差別なくの福沢諭吉の学問ノススメは1872年に発行されて約70万部売れたのこと、ジョンスチュアートミルの自由論も1850年代。封建時代が終焉を迎え立志で成り上がれる時代に変化して日本の人々にも自己啓発的なものが活気づいたのでしょう。

 

 

おさらいすると、神の存在が強い場合は勝手は神が許さないという理由で自死には否定的になる傾向がある、神の存在が薄れると哲学が出てきて個人主義を前提に自死に肯定的になる学派も出てくる、テオドシウス1世がキリスト教を国教化し三位一体論と唯一神信仰を掲げて人類を救うのは神だけであるという救済論を掲げるアタナシオスが実権を握ると再び、勝手は神が許さないと自死を否定する。しかし啓蒙主義が出てきて教義にも書いていないのに聖職者らが勝手に言っていると自死を肯定する面々が出てくる。その対立の立場としてはカント(苦しみから逃れることを目的にしているのはよろしくない目的は生きることであって、そのための快を求めていく、だから自死は否定)デイヴィッドヒューム(神の法則に適った場合は認められると言いつつも、残された家族等に悔恨が残るので好ましいものではないとしている)という標準的な道徳があります。他にはネーゲルの死が悪なのは人間の善を奪うからだとする死の略奪説に対して、死によってすべては消滅するとするルクレティウスは、死が不幸なことではないということは生まれなかった人が不幸せではないと一緒だとしている。哲人の間でも考えに隔たりがあるのは、死に関するだけに神の概念が出てくるからですが、その神に対する考え方の開きが、そのまま隔たりになっている。例えばソクラテスはダイモニオンで人格神、プラトンはイデア、アリストテレスは不動の動者、ポリス崩壊後にヘレニズムとその一派としてのヘブライズム、日本風にいうと日蓮と日蓮以後の仏教の関係といったところでしょうか。神という同じ名称でも信仰の対象は違いますし、その教義も違うので死生観に大きな隔たりが出てきています。平時においては神は存在するのかしないのか、その教義は正しいのかなどのような問答の繰り返しになると思われますが、ある条件を満たせば自死を了承する節があると書いたように、変事になるとキリスト教も11世紀~13世紀十字軍運動や神道でもわかるように集団本位が優位になり利他的な犠牲が求められて「望まなくても」人命は石ころの重さ程度の扱いになる、逆に自己本位が優位の国は命の価値が相対的に上がるところが見受けられる、現在の日本がまさにそうでしょう。人は本質的に死に向かっているのであり他者の死から死というものを理解し死の先駆(死ぬことを前提にやるべきことを決めて行動する)を提唱したハイデガーに対してサルトル(実存主義的無神論者)はそうはいうてもいつ死ぬかはわからへんでと「偶然が死を決定する」を提唱し人生と死は関係ないから人生を実存で切り開いていこうとしたサルトルは晩年病気に苦しみ狼狽して神を意識したということなので、やっぱ問題は死に方やで、突然死が理想的、独居死なんて恐れずに足らずを提唱するカメプロといったところでしょう。

 

 

ざっと、哲人たち( with そこら辺のおっさん一人)の自死についての見解を見てきました。これだけなら簡単なのですが、プラトン「魂は不滅である」とか言い出すのが出てくると死が複雑になっていきます。次はそのことについて書いていきます。

 

 

ここからは最近、追加した部分で、話のついでに書いておくと、

キリストはユダヤ教の律法主義、形式主義を批判し、はりつけにされたが、次はキリストの名(ヘブライズム)が独り歩きして、ルターらによる宗教改革が起こるも止まることはなく、勝手に解釈されたヘブライズムは今やリベラルやポリコレなどという名に変えて外面だけは正しい(教義の外に壁を作る)形式が蔓延し社会を混乱させている。それは価値観のアップグレードと呼ぶらしいけど、その目的はたんに善を行いたいと思っているのか、善い行いによって天国に行きたいと思っているのかは知らないが、運動の中身を見ると、「それって~だから」という人権啓発ポスターがありましたが、そうしたものに、それはおかしいのではありませんか?という疑心に対し、ヘイトやー!!差別主義者やーとしか返せないどころか自身の差別心については問題にせず必要悪という態度で、その程度のもの。それってキリストに対してあんたらの信徒は食事前に手を洗わなかった、どうして律法を護らないんだとした形式主義、そのものである。(キリストは律法というがあなたたちは律法の父母を敬うを守っていないでしょと言葉を返した)そんな形式が現代では善として崇められ社会に蔓延している。主張のごり押ししかできないのは、例えばガンディは非暴力非服従を掲げていましたが、暴力反対としても、それが実際にできるのはそれをできる力を持った人物でありとして内実を理解したうえで「非暴力」としているのとは違い、内実など知ったことではなく外面こそが重要だからではないのか?外面と言われたくなければ、子供のころから十戒を守ってきた人にキリストは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」を実行すればよろしい、なので私はアフガニスタンの復興を手伝っていた中村哲さんに対しては考え方が違ってもすごい人と認めているでしょ。マタイ23.13~36を読めばわかりますが、最低限の敬意もない外面の人たちはキリストを磔にしたように権力側を味方につけてキャンセルカルチャーをするのはごく自然の流れというもので、権力側の考えも似たようなものなので主張に内実がなくてもごり押しできている。そしてマタイ36にはこの報いはこの時代の上に来ますと、あって次の世代にその報いが来ると啓示している。キリストは善き行為というのは、救われるという目的のために善き行為につとめるのではなく、救われた結果として、善き行為が出てくるとしているが、キャンセルカルチャーと社会混乱の結果から出てくる半分は憎悪なのではないのか。キリストの律法だけではなくということはソクラテスの魂の配慮でもわかりますように全人格を磨いて信仰と敬意をもっていこうということです。それは日本においても日蓮の念仏批判は日蓮の教えを信仰しないと国が亡びる以外はおおむね正しいと私は思っていて、どうして神になって釈迦の教えを勝手に変えるのか?世俗に変えた方が万人受けが良いとしてもさすがに贖宥状の販売と同様に念仏を拝んだら極楽浄土には正道なのか?どうせ戒律を守っているのはごく少数なんだからせめて出来る範囲の基本ぐらいは守った方が良いのではと、出来る範囲の基本とは?釈迦が実在したのかどうかはわかりませんが、伝えられた言葉はそれほど難しいことを言っているのではなく、映画「冷たい熱帯魚」で、でんでんが言っていた「今日も元気でいこう、はきはき挨拶、てきぱき仕事、今日やることは今日やる!」現在の一瞬だけを、強く生きねばならない、これが良い一日を生きる道である、そして人格を高めていこうぐらいが世俗向け(上級者向けは近親者が死んでも嘆き悲しむな、死は避けられないのだ)だと思うけど、都合の良いほうに改変(私は改悪と考えている)されていく。税金で強制的に福祉をやって自己満足をするのではなく自己完結をしていこうな。そして人は善き行動によって天国や極楽浄土に行きたいと思っているかもしれませんが、古代ギリシャ時代は死者の魂は冥界に行き、アニミズムは他界に行くというもので天国地獄というものはヨハネ黙示録やカルヴァンの2重予定説のように後から出てきている都合に合わせて。