私と他のボクシングクラスタ界隈とはどうしてこうも考え方に隔たりがあるのか?いつのころからスポーツ批評にありがちな想いに寄り添う感情移入型のものをしらっとして見るようになったのか?というようなことを少し書いてみたい。私も界隈と同じように其れしかなかったのですから想いに寄り添う感情移入型のものにどっぷりつかり見聞きしてきたしスポーツマンシップや公正というのもHAERETICUSでわかるように尊重はしているけれども「~の熱い想いが」的なものはすとーんと中に入ってこないどころか原理的に感じて心理的抵抗さえ覚える。この前もイチローのマリナーズ復帰の記者会見をたまたま見ていると記者の「目が潤んでいる・・」に対してイチローさんが時差の関係でしょうと答えていました。イチローさんが質問にイラっとしたなら気持ちはご理解できます。それでは感情移入がないのかと言えばテレビを通じて直接見たものに喜びや悔しいという感情が湧いているのでないことはない。しかし、想いに寄り添う感情移入型のスポーツ批評は陳腐に感じてしらけてしまう。自分がどうしてなのかは大体、理解できる。小、中学生の頃に習う道徳的なものは理想としては適当ですが社会に出て様々なことを経験すると最初から才能も違えば生まれ育った文化資本も違うから平等は方針の一種だと理解していくように加齢していく過程で弁証法など物事を思索する方法を身につけていくからだろう。つまりおっさんになって認識などが変容したからだ。子供のころあれだけ反発した親の説諭を今は理解できるのもそれで、本件も山中さんに、この試合に賭ける想いは当然あるだろうし体重超過が不心得者というのも、その通りなのだが、一方で ジルパテロールの陽性反応が出て今回は体重超過をしてしまったネリ陣営、 「陽性の嫌疑について確証が持てないから不問」として再戦命令を出した」認定団体、そして再戦に応じた日本側にも、それぞれの思惑がある中でボクシングの試合に時々ある体重超過の時に採用される「折り合い」をつけて試合を決行した。折り合いをつけた試合の決行は湧きでた懸念点を一切合切飲み込むということだから「陽性の嫌疑について確証が持てないから不問」も飲み込んだ時点で、この件は白紙、体重超過も一緒で「折り合い」をつけた時点で挑戦者が勝てば王者になるだけということが前提になる。そうした前提に向き合わずにネリの愚行ということだけに集約して、この試合に向き合うという奇妙なことをしている。愚行に触れるなら「それぞれの思惑」についても俎上に載せて吟味しないといけない。それぞれの思惑があり飲み込んだはずなのに日本側が負けると愚行と騒ぐけど勝利した場合はどうしたのであろうか?勝った場合も価値のない試合だったのだろうか?特にメディアは元チャンピオンの発言にもあるような「今回勝てば前回の負けがなくなる」という思惑に集約されたのではないのかと普通の大人なら考えると思うけど、そうではないようだ。そうした様々な思惑やIBFの件での真逆の反応をしていたことが疎外されたことに大人のいやらしさというものを感じてしまう。山中さんの雪辱(復讐劇)という思惑の立ち位置にいた人からすれば様々な思惑は存在しないのでしょうか。

 

中にはレストの件を持ち出し不幸を期待するかのような記述をしている人がいて驚いている。私は聖人には程遠い人間なので嫌いな人物が不幸に見舞われた時に瞬間的にはいい気味と思うことはあるが辰吉さんへの口撃で否定的感情を持っていた保住さんが2012年に逮捕されたという報道を見て媒体に見受けられる元ボクサーの犯罪がクローズアップされることの反感も手伝ってエントリーはしなかったが擁護するものを書いている。エントリーしなかったのは

 

「今回逮捕された理由は恐喝ということで犯罪情勢 を見ると

平成22年街頭犯罪(暴行、傷害 、恐喝)認知件数は61342件

昨年23年上半期の恐喝認知件数は2184名 そのうち検挙されたのは1343名で

21年、22年の認知件数が約5000件なので2012年の総数が5000人と推測すれば

5000分の2という話であって、この2を持ってボクサーと犯罪を結びつけるのは

こじつけというものである。もし揶揄するにしても恐喝は~20代が69%を占めている・・・」

 

多くの犯罪がある中で情報のエントロピーがあるからピックアップしているのであるという論旨で書いていたのだが恐喝は子供の犯罪に多く見られるという、保住さんは大人で不合理なのはよろしくないというのがあったから余計なお世話ですがお世話になったジムの会長さんの為にも罪を償って、これからは精進して頑張ってほしいと心の中で願うことに切り替えたように死ねばいいのに的な怨念はさすがに躊躇すると思うから不幸を期待するかのような記述に眉をひそめた。私がするのはせいぜい私の中で、その人のキャリア等が不器量になるだけですからたとえ眉をひそめても死ねばいいのにとは思わないのでご安心ください。悪いことをしたから天罰が下るみたいな公正世界仮説が不味いのは、それならKO負けした山中さんにも天罰が下ったということになるからだが、それは考えていないのでしょうか。

多くの人が閲覧する媒体は、どれだけつまらない発言でも公言に影響を受ける人がいるということは立派な権威だということを理解していないといけない。理解していたら杜撰なことは書けないでしょう。理解して意図的にしているなら影響を受けた事で起きる事象について責任があるということを理解していないということになる。そしてレストの件の教訓は本件と同じく責任のある人が責任を果たすということである。(それによって防げるものがある)

 

私の本件試合の見どころはカウンターの名手が相手のカウンターが起因になって敗れたということであって同じ「想い」でもカウンターの起因がむき出しの感情(浜田さん説)にあったかもしれないということに興味を惹かれた。一方で

 

体重超過があったから負けたのか?

 

ボクシング雑誌の編集長を何年も務めていた元ワールドボクシング編集長のように体重超過をやらかした選手は与し易い?とみている人もいる。(亀田大毅のソリス戦での批評)その通りなら体重超過は負けた理由にならないはずだ。私はドーピングと体重超過は結果が様様なので効果は不明瞭という答えだから、この解答は元ワールドボクシング編集長に聞いてもらいたい。

 

というように本来はいろんな見解があって他に見るべきところもあったはずだが、それが選手の想いと愚行に集約された報道によってかき消されたのではないか、それは機会の損失だと思っているが前にも言ったように不案内の方々が機会の損失であろうがどうであろうが想いに寄り添う感情移入型を希望しているというのなら、仕方がありませんが、それなら私はこの競技は所詮はその程度のものだと開き直るしかなくなるでしょう。

 

 


またもや日本の伝統芸の永久追放ですか。HAERETICUSの続きでは貴方方も事実上のなんたらで氷河期になる可能性があるのではというようなことについて書こうと思っているが、思っているだけなのでいつになるのかはわかりません。