「サーマンとガルシア、2人とも素晴らしいファイターだと思うが、試合には失望している。自分がファンの立場であれば、(1980年代の)レナードやハーンズのような戦いぶりを望むんだよ。サーマンとガルシアはともに距離をとって危険を冒すことはなかった。結果として、退屈な技術戦を見せられたという訳さ。視聴率がとれたことはボクシングにとって良かったけれどね」 スポーツアネックスから抜粋
ほぼ完成品のトップアマチュアからの引き抜きを得意にしている人のセリフらしいですが、これら文言の同義語は人の話に耳を貸さない意識が働かない選手になりなさいということではないでしょうか。世界一流のプロモーターということは疑う余地はありませんけれどもサーマン、ガルシアはゴールデンボーイの興行と他所の興行にまで4強時代を持ち出して小言をいうのは宮下あきらの漫画、極虎一家に出てくる「網走の冬は寒かった~」を連呼する極道爺さんのようで、私はまた言っているのかぐらいにしか捉えていませんが、金科玉条のように祭り上げられることもあり、これは何を言ったかより誰が言ったかが要用されるというのは世界に共通することなんでしょう。この手の話に引き合いに出されることが多い4強時代、この引き合いの立役者は誰なのかと聞かれたら私は先ずもってヒットマン・ハーンズを推す。どこから見てもハーンズの持ち味はあの長い手足と強打を生かした戦術で、それが見事にはまっている時にはデュラン戦のような勝ち方が出来るけどバークレー戦にしろ負けた試合は見事にウィークポイントであるガードの悪さを突かれてKOされていて、つまり相手の戦術にはまったミスにつけ込まれた敗戦であるというのはハグラー戦はハグラーの奇襲攻撃とディフェンスの甘さをつかれてやられてしまったけれどもレナード、バークレー戦は途中まで有利に試合を進めていてた試合を落としているということから理解できるのはないでしょうか。レナード、ハグラー、バークレー戦どれにしてもハーンズコーナーからすれば、あのがら空きのガード(デトロイトスタイル)を考慮して間合いを取って攻撃しろ接近して打ち合うなと考えるでしょう。当然、相手コーナーは欠点をつくようにアドバイスする。身体的に不利があり回転力の速さが持ち味のレナードは間合いを詰めないと勝機を得られないからハーンズの打ち終わりをカウンター狙いながら中に入り込みたい。ここでハーンズが意識を働かせて間合いを取ると、あの激戦は生まれなかった可能性もありますがハーンズの逸リのおかげで活かせたレナード側のトレーナやプロモーターからすれば「やらかしてくれた」しめしめと喜んだことでしょう。4強の中でレナードが勝ち抜いたのもレナードはキャリア終盤にいろいろと戦略の関係からブーイングで迎えられていたこともあったけれども、デュラン2戦目は同じ轍を踏まずno mas、ハグラー戦もスロースターターで自意識が強い(初戦のビト戦、ディラン戦でもこれが出たのが精彩を欠いた理由とみる向きもある)というハグラーのウィークポイントをついて勝利を得ていてハグラー推しの私としては試合の判定を待つハグラーが余裕のタコ踊りをしているのを見て「違うだろーこの禿が」と怒りに駆られたのを覚えていて映画レッドブルーの中でジェームスベルーシ演じる刑事が犯人のハグラー似のスキンヘッドの黒人を逮捕した際にハグラーみたいな顔してとキャンブルで摩ったことに怒りをあらわにしていて共通意識に微笑しました。このように4強(デュランはサイズが小さいので最初から不利)の中でレナードが一番、適応能力に優れた選手だったということで、狡賢い(意識を働かさせれる)選手が勝ち残る結果になった。レナードXデュランも第一戦目はレナードがデュランのかく乱戦法で惑わされて選択ミスをしたから面白い試合になりましたがミスが無ければ戦前予想どおりに最初からno masになっていた可能性もありましたけれどもNO MASの試合は面白かったですか?両者が学習したレナードXハーンズ2やレナードXデュラン3もしかり。だからここでいうところの面白い試合というのは有能選手同士ならトレーナの話に耳を貸さない意識が働かない選手か若しくは穴の多い選手がいないと成立しないということです。事前に相手の手口が探り易い時代に、尚且つメイウェザーXパッキャオのようにどちらも意識を働かすもの同士だと、あのような展開になってしまうのは仕方がない気もします。そういえばメイウェザーXパッキャオが凡戦になったのはメイウェザーの責任になっていましたが意識を働かせたパッキャオもあと一歩踏み込まなかったのですから、当該プロモーターの「危険を冒すことが無かった」はパッキャオにも当てはまるのですが、そうした指摘が無いのは「網走の冬は寒かった~」の影響なのでしょうか?面白い試合を望むのは業界人としては理解できますが、其れならトップアマチュアからの引き抜きを得意にしている、このセリフ主が率先して人の話に耳を貸さない意識の働かない選手をプロモートして負け側に立ってくれるのなら、この主張も尊重できますが自身はそつのない身体、適応能力に優れたトップアマを選定しては勝者側に立っていては説得力に欠けるというものです。そもそも身体、適応能力の高いトップアマチュアを呼び込んで競い合えば自然に技術力が上がるのは当たり前なのですが、一体誰が、その流れを作ったのでしょう。
ところでKOが生まれる要因はどこにあるのか?私は、実力差がある、実力者同士ならミスor自滅(調整ミス、スタミナ配分の失敗)の結果が背景にあると考えていて、つまり実力伯仲同士でダウンの応酬の試合はミスの多い試合ということになる。スポーツの世界に限らず一般的にはミスが少ないというのは良いこととして認識されるがボクシングという興行の世界ではKOが好まれる=ミスの多い方が良い試合という評価になるようです。TOP同士の逸材だからミスが少ないというのは自明だけど、それなりの金をもらっているのだからノブレス・オブリ―ジュ的なものが要求される。それは理解できますが、シチュエーション次第で変節するものを真として良いのでしょうか?私は以前からこのことに疑問を持っていて、例えばWBSC主催の国際試合プレミア12の準決勝で韓国と対戦した日本は先発の大谷翔平が力投して7回一安打無失点11奪三振 3-0でリードしていたが8回にリリーフを送って9回に4点を入れられて逆転負けした。試合としてはあのまま大谷が完投して3-0で終了するよりも面白かったはず、特に逆転勝利を得た韓国からすればご機嫌な試合になったことでしょう。しかし日本は小久保監督が続投ミスをしたとしてやり玉に挙げられており、つまり日本は面白さよりも勝負(勝利)を優先していたことになる。これは国際競技のオリンピックも同じで際どく勝利しても文句どころか普段は見ない競技でも喜んで応援している。(アマチュアという意見に対してはオリンピックも商業ビジネスでしょう)一方、ナショナリズムという国家の威信にかかわるオリンピックの舞台で見どころを作ろうと余計なことをした結果、負けてメダルを逃したらどうなるでしょうか?ボクシングも、もし、今の時代にジョールイスXマックスシュメリングのような政治的に利用されるような環境で試合があれば退屈な技術戦になったとしても負けた方は文句を言うだろうが勝った方は国を挙げてヒーローと称えるでしょう。このようにシチュエーション次第(イデオロギーの関係)で変わることを真と断言するのはいぶかしく思う。私がメイウェザー等のスタイルを擁護する理由の一つは野球でいうところの完全試合をする人と捉えているからです。野球の完全試合もヒットが一つも出ませんから見ようによってはつまらない試合になるのかもしれませんが達成者が悪く認識されるというのは聞きません。キャンディ・カミングス(ゴールドスミスという他説もある)がカーブを考案してから様々な変化球が生まれ、こうした技術革新は完全試合の達成等に貢献していると考えられるが、ボクシングのこうした話はどんな場面でも男は黙ってストレート勝負と言っている感じがします。技術進歩とともに見方も進歩すれば無難なのでしょうけど、見方は固定化されて技術進歩のようにはいかないようです。
そうはいってもホラー映画を観てノルアドレナリンが放出し感情が高揚する。ホラー映画の場合の期待は怖さになるので怖ければ怖いほど高揚感は高まり満足をもたらす。ボクシングの場合のノルアドレナリンを放出させる因子は殴り合い?人が倒されることへの期待?選手に対する情動感染?それぞれあるでしょうが期待に殴り合いや人が倒されるがある以上、満足をもたらすには、それらは不可欠なのでしょう。一方でホラー映画で期待したことが実際に身の回りで起こった場合には予見(映画の場合は期待)していることが外れることで安堵感をえる、シチュエーション次第で「期待」は変節するように自分が路上でトラブルに巻き込まれて殴り掛かられたときに相手のパンチが外れるミスは良い事として認識する・・・要するに他人事だからになるのですが、他人事で尚且つ普通の人がしないことに価値があり商売になっているので、これは仕方がなくイデオロギーのように内包するものは現実的かつ我がこととして見ることも可能だけど、そいう風に見られない時のボクシングは現実世界から隔絶し虚実皮膜の中に漂っている存在だと考えて腑に落ちるとしよう。