日本にボクシングが伝来したのは1854年マシューペリーの黒船来航で
同行していた水夫が関取と手合わせの際にボクシングを披露したのが
最初だとされている。また異種格闘技戦である柔拳試合も時好となり
力士を廃業した浜田庄吉がアメリカでプロレス修行を積み帰国後にボクサーなどを
引き連れ西洋相撲として興行を打っている。
1896年アメリカ帰りのジェームス北條、齋藤虎之助が横浜市石川町にメリケン練習場を開設、
1909年嘉納健治が国際柔拳クラブ(のちの大日拳)を開設
1921年には日本ボクシングの父と言われる渡辺勇次郎がアメリカから帰国して
日本拳闘クラブを創設、日本ボクシングが本格始動することになった。
然しながら今のようなジム同士の競技という興行スタイルは確立されていなかったので
差し当たり興行は同門が手を合わせるというものであったが
大日拳が日本選手権を主催してチャンピオン制度を設ける。
大日拳主催の第2回選手権では帝拳の選手がチャンピオンに
挑戦するというジム同士の対抗戦というスタイルが生起し
全日本プロフェッショナル拳闘協会が作られたが
フランスやフィリピンなど海外から選手を招致して対抗戦を行うのもポピュラだったようだ。
そのフランスとの対抗戦で頭角を現したのが日本代表決定戦で中村金雄を破った
ピストン堀口でピストンはフランスとの対抗戦でユーグを破り、
前フライ級チャンピオンのプラドネルと引き分けた。(フランスとの対抗戦は読売新聞が企画)
そしてフランスとの対抗戦を契機に分散していた各クラブが大同団結することになって
誕生したのが全日本拳闘連盟で連盟は毎日新聞と共催して全日本選手権を開催、
その全日本選手権の準決勝で病院送りになるほどの怪我をピストンが負ったので
ジム会長の渡辺勇次郎は決勝戦の不戦を指示するが、
出場を欲求していた大会役員がピストンを説得「試合をストップしない」
というピストンの条件を飲むということで決勝戦に出場することになった。
試合は血の十回戦とのちに表現されるほど壮絶なものであったが
ピストンは勝利し日本フェザー級チャンピオンの座を手にする。
日本チャンピオンの称号を手にしたピストンに東洋選手権を企画した
拳闘連盟が出場を要請、しかし12月26日の全日本選手権での怪我を理由に
1月31日、2月15日の試合出場を会長が拒否し不出場になると
「日倶は単独に利益を壟断(ろうだん、ひとりじめ)せんとし、連盟の統制を乱すゆえ、
連盟規約九条によって除名する」を理由に連盟は日倶を除名、
そしてピストンのタイトルも剥奪した。
郡司さんのリングサイド50年によると
連盟は決議だと称してガゼット社に使いを寄こした。
「ピストン堀口は、ボクシング界発展のガンである。貴紙でも一切記事にしないよう希望する」
あえて記事にするようなら、生命の保証はしないと脅かしてきた、とある。
日倶の渡辺勇次郎も連盟解散を宣言し大日本拳闘連盟を新設
こうして日本ボクシング界は再び四分五裂となったが、分裂、消滅というのは
日本ボクシング界にはしばしば見受けられたことで
全日本拳闘連盟もピストン×イーグルの判定問題が要因となり消滅、
それでもピストン×玄海男、ピストン×笹崎の好ファイトを輩出して戦時下でも奮闘したが
大日本拳闘協会も1944年決戦非常措置要綱に順応し解散。
1945年日本はポツダム宣言を受諾し敗戦国となった。
戦後復興が始まりGHQの指揮の下、民主化政策として財閥解体、農地改革、
労働改革が行われる中で日本ボクシングも1946年日本拳闘協会と
日本拳闘株式会社を設立して新たな幕開けを迎えた。
市民のボクシングに対する熱も一向に下がっていなかったが
1948年今度はクラブ制度(家父長制としてのジム制度と個人としてのマネージャー制度)
を巡って再分裂、日本拳闘協会の離脱組が全日本ボクシング連盟、自由拳闘連合を結成
1949年には日東拳がボクシング愛好会を結成する。
しかし、この後、白井義男が頭角を現し世界戦の始動、コミッションの誕生、
そしてラジオからTVコンテンツとしてのボクシングと
新たな段階を迎えたことでボクシング業界は再度、大同団結していくことになる。
1972年黒い霧を端に発した(キック同時興行問題)金平さんの第二協会や
1983年池田さんの日本IBFの分裂が、その後に起きましたが事実上のなんたらに
統制されていないといえるのは1950年代前半までと見てよいだろう。
(1950年、電波三法が成立 1951年民間放送局2局誕生
1952年NHKが国際放送を再開 1953年2月にNHKが本放送を開始
1953年8月には民放の日本テレビも放送開始、
街頭テレビでボクシングやプロレスが放送された NHKが白井×エスピノサを実況放送)
1952年の白井×マリノは後楽園球場に4万人の観客を集める大興業であったが
テレビのより広く(全国区)便利(家にいながら無料で観られる)
に情報を提供する力は効率的で有力だ、ボクシングは興行なので情報産業の一環であり、
その影響を受けるのは止むを得ないそれに復興と高度成長期の波に乗って
日本ボクシング界もテレビの恩恵に与かり、
それなりに繁栄して地方ジムにトリクルダウンの影響を与えただろう
それは十分に理解できるけれども、以後、興行からTVは欠かせないものとなり
生産手段を他者に握られることになった。(極道からTVに移っただけかもしれないが)
同行していた水夫が関取と手合わせの際にボクシングを披露したのが
最初だとされている。また異種格闘技戦である柔拳試合も時好となり
力士を廃業した浜田庄吉がアメリカでプロレス修行を積み帰国後にボクサーなどを
引き連れ西洋相撲として興行を打っている。
1896年アメリカ帰りのジェームス北條、齋藤虎之助が横浜市石川町にメリケン練習場を開設、
1909年嘉納健治が国際柔拳クラブ(のちの大日拳)を開設
1921年には日本ボクシングの父と言われる渡辺勇次郎がアメリカから帰国して
日本拳闘クラブを創設、日本ボクシングが本格始動することになった。
然しながら今のようなジム同士の競技という興行スタイルは確立されていなかったので
差し当たり興行は同門が手を合わせるというものであったが
大日拳が日本選手権を主催してチャンピオン制度を設ける。
大日拳主催の第2回選手権では帝拳の選手がチャンピオンに
挑戦するというジム同士の対抗戦というスタイルが生起し
全日本プロフェッショナル拳闘協会が作られたが
フランスやフィリピンなど海外から選手を招致して対抗戦を行うのもポピュラだったようだ。
そのフランスとの対抗戦で頭角を現したのが日本代表決定戦で中村金雄を破った
ピストン堀口でピストンはフランスとの対抗戦でユーグを破り、
前フライ級チャンピオンのプラドネルと引き分けた。(フランスとの対抗戦は読売新聞が企画)
そしてフランスとの対抗戦を契機に分散していた各クラブが大同団結することになって
誕生したのが全日本拳闘連盟で連盟は毎日新聞と共催して全日本選手権を開催、
その全日本選手権の準決勝で病院送りになるほどの怪我をピストンが負ったので
ジム会長の渡辺勇次郎は決勝戦の不戦を指示するが、
出場を欲求していた大会役員がピストンを説得「試合をストップしない」
というピストンの条件を飲むということで決勝戦に出場することになった。
試合は血の十回戦とのちに表現されるほど壮絶なものであったが
ピストンは勝利し日本フェザー級チャンピオンの座を手にする。
日本チャンピオンの称号を手にしたピストンに東洋選手権を企画した
拳闘連盟が出場を要請、しかし12月26日の全日本選手権での怪我を理由に
1月31日、2月15日の試合出場を会長が拒否し不出場になると
「日倶は単独に利益を壟断(ろうだん、ひとりじめ)せんとし、連盟の統制を乱すゆえ、
連盟規約九条によって除名する」を理由に連盟は日倶を除名、
そしてピストンのタイトルも剥奪した。
郡司さんのリングサイド50年によると
連盟は決議だと称してガゼット社に使いを寄こした。
「ピストン堀口は、ボクシング界発展のガンである。貴紙でも一切記事にしないよう希望する」
あえて記事にするようなら、生命の保証はしないと脅かしてきた、とある。
日倶の渡辺勇次郎も連盟解散を宣言し大日本拳闘連盟を新設
こうして日本ボクシング界は再び四分五裂となったが、分裂、消滅というのは
日本ボクシング界にはしばしば見受けられたことで
全日本拳闘連盟もピストン×イーグルの判定問題が要因となり消滅、
それでもピストン×玄海男、ピストン×笹崎の好ファイトを輩出して戦時下でも奮闘したが
大日本拳闘協会も1944年決戦非常措置要綱に順応し解散。
1945年日本はポツダム宣言を受諾し敗戦国となった。
戦後復興が始まりGHQの指揮の下、民主化政策として財閥解体、農地改革、
労働改革が行われる中で日本ボクシングも1946年日本拳闘協会と
日本拳闘株式会社を設立して新たな幕開けを迎えた。
市民のボクシングに対する熱も一向に下がっていなかったが
1948年今度はクラブ制度(家父長制としてのジム制度と個人としてのマネージャー制度)
を巡って再分裂、日本拳闘協会の離脱組が全日本ボクシング連盟、自由拳闘連合を結成
1949年には日東拳がボクシング愛好会を結成する。
しかし、この後、白井義男が頭角を現し世界戦の始動、コミッションの誕生、
そしてラジオからTVコンテンツとしてのボクシングと
新たな段階を迎えたことでボクシング業界は再度、大同団結していくことになる。
1972年黒い霧を端に発した(キック同時興行問題)金平さんの第二協会や
1983年池田さんの日本IBFの分裂が、その後に起きましたが事実上のなんたらに
統制されていないといえるのは1950年代前半までと見てよいだろう。
(1950年、電波三法が成立 1951年民間放送局2局誕生
1952年NHKが国際放送を再開 1953年2月にNHKが本放送を開始
1953年8月には民放の日本テレビも放送開始、
街頭テレビでボクシングやプロレスが放送された NHKが白井×エスピノサを実況放送)
1952年の白井×マリノは後楽園球場に4万人の観客を集める大興業であったが
テレビのより広く(全国区)便利(家にいながら無料で観られる)
に情報を提供する力は効率的で有力だ、ボクシングは興行なので情報産業の一環であり、
その影響を受けるのは止むを得ないそれに復興と高度成長期の波に乗って
日本ボクシング界もテレビの恩恵に与かり、
それなりに繁栄して地方ジムにトリクルダウンの影響を与えただろう
それは十分に理解できるけれども、以後、興行からTVは欠かせないものとなり
生産手段を他者に握られることになった。(極道からTVに移っただけかもしれないが)