日本に願っても無いチャンスが転がっていた
それというのもHBO(アメリカ大手ケーブルテレビ)が
スーパーバンタム級の統一王者ギレルモ・リゴンドウの
ボクシングスタイルが攻撃的では無く好評を博していないから
放送を見合わせているというもので、それにWBAの副会長が憤りを感じているという
重要な内容も含まれているので取り上げておきたい。
この話はHBOとゴールデンボーイの*1確執が連関しているといわれていて
それからリゴンドウがキューバ人ではなくアメリカ生まれの選手であったなら
アウトボクサーといえど違った扱いがあったかもしれないという
情報産業においてのボクシングの在り方が問われている。
副会長談話の要旨はHBOが視聴者数に繋がらないアウトボクサーやラテン系ボクサー
を排斥したところで視聴者拡大の解決策にはならないしパンチャーのみを養成することは
スポーツという観点からみても適切ではないというもので打開策も検討したいとしている。
副会長の主張は至極ではあるけれどもHBOが民間の情報産業として視聴者数が見込まれる
派手なものを希望したいという事は株主に対しての責任としても当然であり、
その選択も自由である。ただし、世界の一流選手どころが集う世界最強というものを
売りの一つにしているということを忘れていなければである。
なぜならこのことも株主の利益に関わるからだ
(ライバル会社のショータイムとの競争があるから)
だから、もしその道を歩むならばHBOのボクシング番組は今後、
最強という看板が下ろされて人為的最強となる可能性もあるし
プロボクシング全体がその道を目指すならばアマチュアボクシングに
最強の座を譲ればよいだけだ、ちょうどアマチュアがプロの世界に進出してきて
いるのだから良い機会でしょう。
アマチュアの技術はなぜ鮮麗、卓越しているのか?を考えてみれば、
この答えのヒントが見えてくる。アマチュアの世界は勝利こそが帰趨で最強であるから
インファイトやアウトボクシングを得意とするいずれの選手も勝利を目指してしのぎを削ることから
技術の向上がなされていて技術の向上にはこうした自然競争が適者生存の概念から見ても
*2最適である。一方のプロはより攻撃的なアピール性の強いボクシングをした方が
当然、人気を得られやすいしプロモーターらにも好まれ重宝されるから
このことはインセンティブとなるが、このインセンティブは勝利こそが帰趨ではない。
少し大袈裟に言うと、そこに人為的な力が極致に入り過ぎると、どうなるかは想像に難くない
量産型ガッティの誕生だ、まるで人気選手の後にエピゴーネンボクサーが満遍なく現れるように
しかし、ガッティの試合は激闘で確かに見てくれは良いがメイウェザーやデラホーヤに
軽く捻られているように現状のルールにおいては最適だとはいえない。
アマチュアからプロ転向という流れがあり
プロに転向した時点でアマチュアの選手でなくなるので、その線引きは容易ではないが
TOPで活躍する選手の殆どが元トップアマチュアということを見ても
すでに最適なのはアマチュアの手中にあるのではないのか?
プロモーター側の選別など様々な人為がすでに施されていているプロの世界に
そんなアナクロニズムな思考をさらに入れてaiba(WSB)のプロと試合をすればどうなるだろうか
ジョン・L・サリバン時代のボクシングスタイルが現代で通用するとでもいうのであろうか
j・コーベットに負けている時点で結果は見えているけれども
さらに研究し適応したボブ・フィッシモンズが勝利するのである。
このように選手の選別など様々な人為がすでに施されていているプロの世界と
アマチュアとの違いを挙げるとヘッドギアを使用せずラウンド数も多いという
勝負を決する為の制約が少ないところで、つまりこのことはアマチュアよりも
自然競争がなされていることが優位であり最適だという事であるのに
アマチュアが採点方法の変更やヘッドギアを撤廃するなどプロに近づいている今、
間接的とはいえ技術的なところにさらに圧力をかけるということはどういうことなのか
何が利点なのか考えてみた方がよいだろう。
前項に上げたJ・コーベットもそうですが、こうした話は近年だけではなくて
クインズベリールール制定前のベアナックル時代から存在していた。
もしかすれば、それ以前にも存在していたのかもしれませんが
ルールやグローブ(練習用)を考案したジャック・ブロートン(John Jack Broughton)の
登場である。彼のイノベーターとしての才能はグローブやルールに留まらず
ボクシング技術の一つ下がりながら打つ(striking on retreat)
今で言うヒッティング・アウェイ(hitting away)を考案して1730年代頃に大活躍した、
スタンスの幅を広く取り後ろ足に体重をのせるスタイルは当時としては異形に見えたことだろう。
1790年代には科学的ボクシングの父である
ユダヤ系ボクサーダニエル・メンドーザ(Daniel Mendoza)が登場してくる。
メンドーザは力自慢の大男が殴りあう粗野なボクシングの世界に
テクニックを持ち込んだ革命児であり5フィート7インチ 160ポンドという
体格的な非をテクニックで補完して大男達に対抗した。
1886年代には一枚のハンカチの上に立ち素人のパンチを避けたという逸話を持つ
ヤング・グリフォ(Young Griffo)が登場、彼もパンチ力はないが攻防兼備を得意とし活躍した。
1900年代にはナットフライシャーやバートシュガーらボクシング専門家が
オールタイムランキング(フェザー級の部)の上位に選出するスコットランドのイタ公こと
ジョニー・ダンディ (Johnny Dundee )が登場、彼も330戦戦い22KOと
非力ながらも技術で活躍した一人で、その後もフィラデルフィア・ジャック・オブライエン
(Philadelphia Jack O'Brien)やニコリコ・ローチェらテクニシャンに受け継がれていく。
彼等はボクシング専門家には高く評価されているが、粗野な殴り合いに慣れていた
一般観客はその固定観念から彼らのスタイルを臆病者と酷評するものもいた。
しかし、彼等のボクシングスタイルがボクシング界に技術革新を起こして
今日のスタイリッシュなボクシングを生み出す礎となったのは間違いないことで
技術革新はボクシングが技術的に成長している証でもあるのです。
ボクシングの技術論だけなら、こうした論議を高めていくことで収まりが付くかもしれないが
この問題の本質は情報産業におけるボクシングの在り方である。
リゴンドウ×ドネアも専門筋や精通したファンには好評だった
それは10Rのダウンはリゴンドウのケアレスミスであり一瞬の気の緩みすらも許されない
心理戦が展開されていたということを理解しているからであるが
一方でリゴンドウはエリートであるがエンターティナーではない
見ているのは精通したファンや専門家ばかりではなく、その殆どはボクシングの
いろはを知らない一般の方々なのだから見てくれの良いボクシングをした方が
適当だという意見もある。ボクシングはエンターティーメントの人気商売だという事は
正論で確かに打ち合いは面白い、この観点からみると人為的最強も悪くない
在り方はどうであっても会場まで足を運んだ、いろはを知らない観客が求めているものを
提供する、興行とはそういうものだというのも得心のゆく意見だが
経験則から見ると注意点もある、それはありえない体格差の異種格闘技戦や
モンスター路線でもわかるように、そうしたファンのニーズに応えていると行き着くところは
闘熊 ということになりかねない、というのは冗談ですが
KOばかり期待させてニーズをかなえているとKOがありふれたものになるので
より過激なKOを求めてくる、そして実体よりも過度な期待を持たせるのは
その競技の本義とかけ離れることになる、人の欲望は果てしないのだ。
こうなるとファンの中から不満が噴出して競技の本質論などが巻き起こり
結局は原点回帰を言い始めるのは格闘技ファンなら記憶の片隅に残っているでしょう。
実体よりも過度な期待を持たせない為にはありのままの姿を見せて
そういうものだと(教育する)理解してもらうのが一番でしょう。
その前にアウトボクサーが足を止めて打ち合うのは
ファイターに対する手加減の要素であり、其れが外圧であるなら
それはファイターに対するただの肩入れに過ぎない
それから打撃戦と最適(最強)が一致するとは限らないということも
矢張り念頭においておく必要があるでしょう。
アグレシッブかつ最適というのがあれば問題はないのでしょうが技術の進化は
イタチごっこの要素があり留まる事をしりません。
このように海外の識者にはある程度のコンセンサスは醸成されていると思う。
それはアウトボクサーの能力も高く評価するが人気商売と考えた場合は
見てくれの良いボクシングをした方が適当ではないのか
「それでも」というジレンマで恐らく、この曖昧模糊な回答を繰り返すしかないのだろう。
パート2に続く
*1「メイウェザー×カネロを懇意な間柄のHBOではなく、ライバル社のショータイムで
放送したことにHBOが不満を募らせたという巷談であり、今後、HBOではゴールデンの
試合は放送しないとしている。」
http://espn.go.com/boxing/story/_/id/9067117/hbo-puts-end-partnership-golden-boy
*2最適としたのは環境(ルール)次第で結末も変わる可能性があるから。
それというのもHBO(アメリカ大手ケーブルテレビ)が
スーパーバンタム級の統一王者ギレルモ・リゴンドウの
ボクシングスタイルが攻撃的では無く好評を博していないから
放送を見合わせているというもので、それにWBAの副会長が憤りを感じているという
重要な内容も含まれているので取り上げておきたい。
この話はHBOとゴールデンボーイの*1確執が連関しているといわれていて
それからリゴンドウがキューバ人ではなくアメリカ生まれの選手であったなら
アウトボクサーといえど違った扱いがあったかもしれないという
情報産業においてのボクシングの在り方が問われている。
副会長談話の要旨はHBOが視聴者数に繋がらないアウトボクサーやラテン系ボクサー
を排斥したところで視聴者拡大の解決策にはならないしパンチャーのみを養成することは
スポーツという観点からみても適切ではないというもので打開策も検討したいとしている。
副会長の主張は至極ではあるけれどもHBOが民間の情報産業として視聴者数が見込まれる
派手なものを希望したいという事は株主に対しての責任としても当然であり、
その選択も自由である。ただし、世界の一流選手どころが集う世界最強というものを
売りの一つにしているということを忘れていなければである。
なぜならこのことも株主の利益に関わるからだ
(ライバル会社のショータイムとの競争があるから)
だから、もしその道を歩むならばHBOのボクシング番組は今後、
最強という看板が下ろされて人為的最強となる可能性もあるし
プロボクシング全体がその道を目指すならばアマチュアボクシングに
最強の座を譲ればよいだけだ、ちょうどアマチュアがプロの世界に進出してきて
いるのだから良い機会でしょう。
アマチュアの技術はなぜ鮮麗、卓越しているのか?を考えてみれば、
この答えのヒントが見えてくる。アマチュアの世界は勝利こそが帰趨で最強であるから
インファイトやアウトボクシングを得意とするいずれの選手も勝利を目指してしのぎを削ることから
技術の向上がなされていて技術の向上にはこうした自然競争が適者生存の概念から見ても
*2最適である。一方のプロはより攻撃的なアピール性の強いボクシングをした方が
当然、人気を得られやすいしプロモーターらにも好まれ重宝されるから
このことはインセンティブとなるが、このインセンティブは勝利こそが帰趨ではない。
少し大袈裟に言うと、そこに人為的な力が極致に入り過ぎると、どうなるかは想像に難くない
量産型ガッティの誕生だ、まるで人気選手の後にエピゴーネンボクサーが満遍なく現れるように
しかし、ガッティの試合は激闘で確かに見てくれは良いがメイウェザーやデラホーヤに
軽く捻られているように現状のルールにおいては最適だとはいえない。
アマチュアからプロ転向という流れがあり
プロに転向した時点でアマチュアの選手でなくなるので、その線引きは容易ではないが
TOPで活躍する選手の殆どが元トップアマチュアということを見ても
すでに最適なのはアマチュアの手中にあるのではないのか?
プロモーター側の選別など様々な人為がすでに施されていているプロの世界に
そんなアナクロニズムな思考をさらに入れてaiba(WSB)のプロと試合をすればどうなるだろうか
ジョン・L・サリバン時代のボクシングスタイルが現代で通用するとでもいうのであろうか
j・コーベットに負けている時点で結果は見えているけれども
さらに研究し適応したボブ・フィッシモンズが勝利するのである。
このように選手の選別など様々な人為がすでに施されていているプロの世界と
アマチュアとの違いを挙げるとヘッドギアを使用せずラウンド数も多いという
勝負を決する為の制約が少ないところで、つまりこのことはアマチュアよりも
自然競争がなされていることが優位であり最適だという事であるのに
アマチュアが採点方法の変更やヘッドギアを撤廃するなどプロに近づいている今、
間接的とはいえ技術的なところにさらに圧力をかけるということはどういうことなのか
何が利点なのか考えてみた方がよいだろう。
前項に上げたJ・コーベットもそうですが、こうした話は近年だけではなくて
クインズベリールール制定前のベアナックル時代から存在していた。
もしかすれば、それ以前にも存在していたのかもしれませんが
ルールやグローブ(練習用)を考案したジャック・ブロートン(John Jack Broughton)の
登場である。彼のイノベーターとしての才能はグローブやルールに留まらず
ボクシング技術の一つ下がりながら打つ(striking on retreat)
今で言うヒッティング・アウェイ(hitting away)を考案して1730年代頃に大活躍した、
スタンスの幅を広く取り後ろ足に体重をのせるスタイルは当時としては異形に見えたことだろう。
1790年代には科学的ボクシングの父である
ユダヤ系ボクサーダニエル・メンドーザ(Daniel Mendoza)が登場してくる。
メンドーザは力自慢の大男が殴りあう粗野なボクシングの世界に
テクニックを持ち込んだ革命児であり5フィート7インチ 160ポンドという
体格的な非をテクニックで補完して大男達に対抗した。
1886年代には一枚のハンカチの上に立ち素人のパンチを避けたという逸話を持つ
ヤング・グリフォ(Young Griffo)が登場、彼もパンチ力はないが攻防兼備を得意とし活躍した。
1900年代にはナットフライシャーやバートシュガーらボクシング専門家が
オールタイムランキング(フェザー級の部)の上位に選出するスコットランドのイタ公こと
ジョニー・ダンディ (Johnny Dundee )が登場、彼も330戦戦い22KOと
非力ながらも技術で活躍した一人で、その後もフィラデルフィア・ジャック・オブライエン
(Philadelphia Jack O'Brien)やニコリコ・ローチェらテクニシャンに受け継がれていく。
彼等はボクシング専門家には高く評価されているが、粗野な殴り合いに慣れていた
一般観客はその固定観念から彼らのスタイルを臆病者と酷評するものもいた。
しかし、彼等のボクシングスタイルがボクシング界に技術革新を起こして
今日のスタイリッシュなボクシングを生み出す礎となったのは間違いないことで
技術革新はボクシングが技術的に成長している証でもあるのです。
ボクシングの技術論だけなら、こうした論議を高めていくことで収まりが付くかもしれないが
この問題の本質は情報産業におけるボクシングの在り方である。
リゴンドウ×ドネアも専門筋や精通したファンには好評だった
それは10Rのダウンはリゴンドウのケアレスミスであり一瞬の気の緩みすらも許されない
心理戦が展開されていたということを理解しているからであるが
一方でリゴンドウはエリートであるがエンターティナーではない
見ているのは精通したファンや専門家ばかりではなく、その殆どはボクシングの
いろはを知らない一般の方々なのだから見てくれの良いボクシングをした方が
適当だという意見もある。ボクシングはエンターティーメントの人気商売だという事は
正論で確かに打ち合いは面白い、この観点からみると人為的最強も悪くない
在り方はどうであっても会場まで足を運んだ、いろはを知らない観客が求めているものを
提供する、興行とはそういうものだというのも得心のゆく意見だが
経験則から見ると注意点もある、それはありえない体格差の異種格闘技戦や
モンスター路線でもわかるように、そうしたファンのニーズに応えていると行き着くところは
闘熊 ということになりかねない、というのは冗談ですが
KOばかり期待させてニーズをかなえているとKOがありふれたものになるので
より過激なKOを求めてくる、そして実体よりも過度な期待を持たせるのは
その競技の本義とかけ離れることになる、人の欲望は果てしないのだ。
こうなるとファンの中から不満が噴出して競技の本質論などが巻き起こり
結局は原点回帰を言い始めるのは格闘技ファンなら記憶の片隅に残っているでしょう。
実体よりも過度な期待を持たせない為にはありのままの姿を見せて
そういうものだと(教育する)理解してもらうのが一番でしょう。
その前にアウトボクサーが足を止めて打ち合うのは
ファイターに対する手加減の要素であり、其れが外圧であるなら
それはファイターに対するただの肩入れに過ぎない
それから打撃戦と最適(最強)が一致するとは限らないということも
矢張り念頭においておく必要があるでしょう。
アグレシッブかつ最適というのがあれば問題はないのでしょうが技術の進化は
イタチごっこの要素があり留まる事をしりません。
このように海外の識者にはある程度のコンセンサスは醸成されていると思う。
それはアウトボクサーの能力も高く評価するが人気商売と考えた場合は
見てくれの良いボクシングをした方が適当ではないのか
「それでも」というジレンマで恐らく、この曖昧模糊な回答を繰り返すしかないのだろう。
パート2に続く
*1「メイウェザー×カネロを懇意な間柄のHBOではなく、ライバル社のショータイムで
放送したことにHBOが不満を募らせたという巷談であり、今後、HBOではゴールデンの
試合は放送しないとしている。」
http://espn.go.com/boxing/story/_/id/9067117/hbo-puts-end-partnership-golden-boy
*2最適としたのは環境(ルール)次第で結末も変わる可能性があるから。