木枯らしが深夜の窓を揺さぶる。
何度か建て替えの話もあったが未だに忠美との結婚生活を送ってきたこの場所を壊す決心がつかなかった。
瑞江は古い家を壊してしまったら忠美が帰る場所がないだろうとどこかでかんがえていた。
もう生きてなんていないことはわかっているのにこの目で遺体を見たわけではないので、いつかひょこっと帰ってくるかもしれないと思っていた。
夜中に、瑞江は一人で勉強していた。
中学を卒業してから勉学から程遠い生活をずっと送ってきた。
のみ込みも覚えも悪いと感じていた。努力するしかない。
カーテンの隙間から細い月が見えていた。
雲は強めの風に大きく流されて、勢いよく月をさえぎっていくのが見えた。
今年は初雪も早いかも知れないとおもった。
房子がどのように説得してくれたかは定かではなかったがマサは瑞江が進学することに反対はしなくなっていた。
甕が並んでいた。
いろんな大きさのいろんな形のそれらは何千何百と並んでいた。
瑞江は子供だった。
甕のむこうに青空が広がっているのが見える。
太陽がこんなにまぶしいのになんて寒い日だ、と瑞江は思っていた。
「天秤」と呼ばれる長い棒に水の入った桶が吊り下げられたものを肩にかけてバランスをとりながら瑞枝は歩いていた。
瑞江の甕は背が高い大きな甕だった。
なぜか瑞江はその甕にいっぱい水を汲まなければいけなかった。
ほかの人の甕よりもずっとずっと大きな甕に水を汲むことは大変なことだとは思っていなかった。
それなのにほかの人の甕の大きさと自分の甕の大きさを比べるとなんと理不尽なことだろうと急に悲しくなってしまった。
甕の上部は小さな瑞江にはとても高く、甕のふちが見えなかった。
それでも足場のための木箱に上がり、甕のふちから汲んできた水を注ぐ。
あと、何十回汲んだらこの甕はいっぱいになるのだろう。
「稼ぐなぁ・・」
突然、しわがれた声が聞こえた。
あの日。
父親の貞夫の初七日が過ぎ、大関の家に帰るまでの少しの間、車で少し遠出した。
外には甕が置かれていて、薄暗い小さな浜の小屋に招じ入れられて茹で上がる蛸を見ていた。
その時の老婆だと瑞江は直感的に感じていた。
やさしくて懐かしい老婆の声に瑞江は振り返った。
しかしそこには、硬い黒々とした甕があるきりだった。
もうあたりは明るくなりかけていた。
奇妙な夢だった。
夢の中で、あの老婆に無性に会いたいと思っていた。
これは夢なんだという認識があった。
あそこにいってみたい。行ったら、『富子』のことを訊いてみようと思った。
富子に瑞江は似ていると老婆は言った。
富子を思い涙を流す老婆は、瑞江にとって母のような存在に思えたのをいまさらながら思い出していた。
すっかり忘れていたがあの老婆は元気でいるだろうか。
今度会いに行こうと考えながらもう一眠りしたい欲求を抑え、むくりとおきだした。
みんなの朝ごはんを作らなければならない。
(女って仕方ないな。おさんどんは一生ついて回るらしい)
そんな風に思っても、家族にあてにされるのはいやではなかった。
人けのない寒い台所に石油ストーブを点ける。
ご飯は電気釜が炊き、ガステーブルでお湯を沸かす。
程なく部屋は暖かくなった。
ずっと幼いころの家の手伝いに比べたらなんと便利で楽になったことだろう。
朝食の支度ができたころ一番最初に起きだしてきたのは末っ子の裕子だった。
「おはよう、母さん、夕べもおそかったようだね。べんきょ?わかんないとこない?あったら教えるよ。」
「裕子、優しいねぇ・・ありがと。そのときはよろしくね。」
「母さん、なんだかね、顔つきが変わってきたみたいよ。」
「え?人相悪くなった?」
「いやいや、凛々しくなってきたってこと。ほんとだよ。」
瑞江はなんだか悪い気がしなかった。裕子は人をからかうようなことをする子ではなかった。
だから、瑞江はなんだか嬉しかった。
今日はここまで 続く