♪かっこいいね 唇
キスからすぐ始めたくなる…

突然、次の曲がはじまった。春花は困ってしまった。
「寒いですよね。どうぞ中でお待ち下さい。どうぞ」
木枯らしの吹き付ける暮れの昼下がり。対面販売で加工した食品を提供している春花は、強風で飛ばされそうな貧弱な老人を店内に招じ入れたばかりだった。

「鰯の炭火焼きなんて珍しいなぁ。しかもこんな山の中で。」
「はい、焼けるまで少しお待ちくださいね。」

片側二車線の国道沿いに春花の店『吾亦紅』はあった。

日本のチベット地帯とも言われる一帯は山また山が続き、国道沿いに忘れたころに人家が現れる。

「ご飯はあるの?」

「ご飯もありますよ。容器につめますか?おにぎりにしますか?」

「ここで食べるわけにはいかないの?」

老人は「Kissから」の曲が耳に入らないように春花に話しかけてくる。

「今は暇ですからいいですよ。」


 (どうしてこのタイミングにこの老人なのだろう・・・)

春花は本当についていないと思う。

別にサカリのついた猫でもないのだから、男がほしくてこんなところで商売をしているわけでもなかった。

それでも、人生のおまけでいいから素敵な男性が現れはしないかと少しは思っているのだった。

恵理子はパパをほしがっていた。

「どうしてエリにはパパがいないの?エリだってパパほしいもん」

春花はそんな時恵理子を強く抱きしめる。

結婚するつもりだった相手の男は春花の妊娠を知るとALTの任期が切れる7年前の3月に母国へ帰ってしまった。そして帰ったっきり何の連絡もなくなってしまった。

父は春花の不道徳を責め、母はおろおろするばかり。

世間体が悪いからと、遠く離れたこの地に小さな店舗を用意してくれ、春花はその店舗に『吾亦紅』と名づけた。

それでも、恵理子と二人食べていくだけはその小さな店舗でかせぐことができていた。


「ほら、焦げるよ。何考え事してるの?」

鰯の脂が炭に滴り落ちてそこから煙が上がりジュッと音を上げていた。

「あ、申し訳ありません。焦がすところだった。」

「ほんの少し、焦げ目がついてちょうどいい焼き加減だね。」

春花が長方形のさらに鰯と大根おろしを盛り付けると老人は目を細めた。

「どうぞ」

「これだけ年を重ねると、こういうシンプルな食事がうれしいもんだよ。おひたしの茹で加減も最高だね。」

そういいながら、老人は鰯を頭からかぶりついた。

 それから、老人はちょくちょく店に現れるようになった。

老人はいつも、穏やかなまなざしで、春花の話を聞いてくれた。

春花の大切な恵理子のこともかわいがってくれる。

春休み、夏休みなど恵理子は店によく来て遊んでいた。二人はまるで親友のようだった。

夏が過ぎやがて秋になった。

秋風が立ちはじめた国道沿いの山々は、赤に黄、黄金色にまるで山全体が燃え上がるように紅葉をはじめた。

どうしたことか老人はそのころから姿を現さなくなってしまった。

そのときになって初めて、春花はあの老人のことを何にも知らなかったことに気がついた。

恵理子は老人が来ないことを何度も何度も春花に訊ねた。無理もない恵理子の親友の消息が知れないのだから。

冬が過ぎて、明るい陽射しいっぱいの春がやってきた。

小ぬか雨の古夕暮れ時、店じまいをしていた春花はすっと大きな車が止まったのを感じて顔を上げた。

そこにはこざっぱりとしたあの老人が立っていた。

そしてその横には大柄な青年が。

春花は、老人の優しいまなざしを感じた。

そして同じような柔和なまなざしの青年をちらりと見た。

(親子・・)

確かに親子に違い無かった。

「ね、言った通りだろ?」

老人は息子に話しかけた。

青年の頷くのが目に入り、春花は意味も無く赤くなってしまった。

「悪いとは思ったが、長い間かけて品定めみたいなことをしてしまった。お嬢さん、悪かったね。実は息子の、嫁さんを探していたんだ。どうだろう?今すぐとは言わないが考えてくれないかな。」


春花はその後望まれて老人の家族の一員になった。

後で知ったことだが、夫には死別した元妻との間に一男二女がいた。

「『Kissから』が決め手だったんだって。」

夫は笑いながらそういった。

母となった人はやはりつやっぽさも忘れないでいてほしい。

家には華やかさも必要なものだと老人は言ったらしい。

「後は料理の腕前だね。いや、これは僕の意見だけど。」

夫は照れながら、春花を抱き寄せた。



                              <完>  



登場する人物や場所などは実在のものとはなんら関係ありません。