昼になるころ上空にヘリコプターの飛ぶ音がバラバラと聞こえる。
目の前の県道は、広報車が大音量で、海に近づかないようにと呼びかける。
パトカー、消防車、救急車も赤色燈を点けて何台も通り過ぎる。
「大津波警報」が発令された。
私は今まで警報は耳にしたことはあるが、大津波警報とは初めて聞く。
私の住居は海岸からは離れている。
徒歩で移動することができるので、近いといえば近い。
そして、私の仕事場は海岸通り。
私は、仕事場にいたが、職場放棄して展望台に向かった。
海岸が遠くまで見渡せる、大きな岩が近くにある。
それはそれは大きな岩で展望台になっている。
眼下に鳶の背をみることができるほど。
鳶が旋回するさまは、たいていならば私たちは見上げることが普通。
私はその大岩に登った。地元の住民が40人くらい、海を見守っていた。
今は、こうして情報が早く、津波が来るかも知れないと集まった人たちは固唾を呑んで見守る。
沖が見える。はるか沖に漁師たちが船の安全のために出した漁船が何十隻もみえた。
朝から、男たちは船を沖までもっていって待機しているのだ。
何事もないように、と祈る気持ちで船をだす。
その昔、この沿岸にチリ地震の次の日、大津波が押し寄せた。
今のように情報が早くなかったから、恐ろしさを知らない住民たちは、大きく引いた海のそこに魚やうにあわびなどを見て、ほしいと思った。
バケツを持って、『獲物』を獲りあさっていた。
恐ろしい速度で波は近付き逃げ遅れた人がそのまま帰らなかった。
当時中学生だった男子児童の母も、波にさらわれたまま帰らなかったという。
その後、活発だった少年は、校舎の窓から海を見てばかりの寡黙な少年になってしまったという。
私はその話を、学校の先生から聞いた。
胸が痛んだ。
母も子も。
命の危険を感じていたかは知らない。
もし・・・感じていたとしても、命と引き換えにしても、『食べ物』がほしかっただろうか。
まだ、貧困が蔓延していた、そんな時代だったから。
今は、危険だと海岸の住民に呼びかける。
どうやらさきほど、ただの警報に変わったらしいが、それでも決して海に近付いてはいけないのだ。
私は、今現在は海から離れた自宅に帰ってきた。
浜に続く道は警察や消防の人が監視している。
おそらくこの警報が解除されるまではその状態が続くのだろう。
私が眠る頃も、彼らは人々の安全のためにその場にとどまっているに違いない。
3メートルの予報が大げさだなんて思ってほしくない。
何事もなかったのはそれはそれでとてもいいことだと思う。
関係者の方々は本当にお疲れ様だと思う。