あたしは貴方の腕に身を寄せる。

前から、ずっと前から何度この場面を思い描いたことか。

そっと顔を寄せてみると、微かな貴方の寝息が聞こえる。

お風呂あがりのいい匂いがする。

起きて欲しい。もっとあたしのことを見つめてほしい。

あなたの、少し長いブラウンの髪の毛に爪を立ててみる。

あなたの髪の毛はとうもろこしの髭のように少しボサボサで真ん中から分けてあった。

部屋ははひんやりとしてとても落ち着いた色合いの壁が貴方のセンスの良さをうかがわせる。

網戸を通して入り込む夜気が心地よい。

貴方が見える位置にあたしは腹ばいになる。

夢にまで見た貴方がこんなに近くにいるなんて。

あたしの視線は痛い?

心ゆくまで、貴方を見つめていられるこの幸せは、すべてを犠牲にしたあたしの宝物。

思えば貴方のことは何も知らなかった。 

声しか知らなかった貴方。

あたしは貴方の声が好き。低くて男らしくて貴方にその声で話しかけられるとゾクゾクとした。

その貴方の右腕が伸びてきてあたしを軽々ともちあげ再び布団に誘う、貴方の優しい腕に巻き取られて、あたしは喉を鳴らす。

いつまでだって喉を鳴らす。

それはあなたへの忠誠の印だから。

あたしの鳴らすのどの調べは、心地よい眠りに貴方を誘う。

あたしが貴方にしてあげられることは、たったこれくらいのこと。

貴方はあたしの喉を優しく撫でてくれる。力を抜いてそっと優しく。

あたしは貴方の顔に舌を近づける。

恐る恐るあたしは貴方の顔に舌を這わせる。

耳たぶを噛んでみる。

貴方は、クックと笑い「やめて!」とあたしを押しのける。

そんなに邪険にしないで、あたしの憧れの人。

貴方に邪険にされたらあたしは悲しくなってしまう。

貴方は再び寝息を立てる。

あたしは、貴方を起こさないようにじっとしている。

貴方の寝息が、静かに規則的になって。。。暗闇と同化して。

あたしはまた布団を抜け出す。

貴方のぬくもりは好きだけど、でもこうして身を寄せていると、時々は暑苦しい。

そっと、貴方の顔の匂いをかいでみる。

なんと男性らしい、あたしの憧れの人の匂い。

こんどは貴方のやわらかい、二の腕を噛みついてやるの。

毎晩あたしと貴方は一緒に寝ている。

こんな幸せがなくなってしまう日が来るのは、耐えられないこと。

でもいつかあたしたちの仲は終わるんだろうと思う。

いつかは、二人の仲に終わりが来ることはわかっていたこと。

それは、どんな形でやってくるのだろうか。

あたしたちの終わりなんて、あたしたちの始まりには考えもつかなかったこと。

貴方が初めにあたしのことを好きになってくれたのよ。

覚えているかしら?

貴方は、あたしの書いたブログを見て

「私たちの間に愛の世界が始まると、私の第六感が告げました。」

と言うような内容の言葉を言ってくれたのよね。

でも、あたしはそんなことは信じなかった。

こんなに貴方に夢中になってしまうなんて考えてもいなかったんだんもの。

あなた、わたしにほんとうのこと教えてなかったのね。

そう、貴方の職業のこと。

貴方は外国のスパイだってあたしに教えたわ。

あの低い魅力的な声で話す貴方が外国のスパイだなんて、なんて素敵なんでしょうとあたしは思った。

でも、違っていたね。貴方は朝早くから夜遅くまでスタジオにこもりきりの日が多いとても忙しい人。

もう真夜中だから、寝不足の貴方の邪魔はしないようにする。

あたしは夜にはめっぽう強いから、こうしてあなたを一晩中見つめている。静寂が破られることのないように抜き足差し足あたしは貴方の足元にまわり夜が明けるまでの少しの時間、まるくなりまどろむ。

あたしは眠りは浅いほうで、わずかな物音ですぐ目が覚める。

外で微かな音がして、新聞配達の少年の足音が遠ざかっていくのがわかる。いつもこの時間だ。

窓のカーテンの隙間からやがて夜が静かに後退していくさまが見て取れる。

光が暗闇を徐々に、外界へ押しやって少しずつ町が活気を帯び始める時間だ。

一番列車がそろそろ出る頃に貴方は仕事に出かける。

あたしがどんなに貴方の目を見上げて寂しいと訴えかけても貴方はいつものようにさっさと支度を済ませ、あたしの頭を撫でて抱き上げあたしの鼻にKissをくれる。

そのときのあたしはとても幸せだけど、それでも、それがあたしへの別れの合図。

貴方の笑顔が大好き。そして、その低い声も大好き。

「じゃ、いってくるよ。おとなしく待っているんだよ。」

そうして、あたしの退屈な一日が始まる。

来る日も来る日も、死ぬほど退屈な貴方のいない時間。

あたしは貴方がお仕事から帰るのをひたすら待っているの。

爪を研いで。身づくろいも入念に。今夜もたっぷりあたしのことを抱き締めて欲しいから。

あなたの仕事は不規則で、スタジオにこもりきりになることもあってあたしは時に寂しく過ごす夜がある。

 

 夫は隣に寝ている妻に手を触れた。

胸騒ぎのようなものがあったからだった。

眠りは浅かったのか。

あかるい太陽が真っ黒な雲にのみ込まれ、山の影が鮮明に延びてきて、あたりが一瞬にして真っ暗になる。

ぼ~っと半透明な光の塊が出現したと思ったらすっと消えてしまう。

うっすらと日がさし始めて、徐々に辺りが明るさを増し始める。

妻がいる。輪郭が判然としないのにそれは妻だとわかる。

そこに突然うっすらとした暗闇が現われて、妻の体のあるところから青白い光が立ちのぼっているように認識できた。

その光は確かに窓を通り抜け天空高く舞い上がっていったように感じられた。

意識がはっきりして、夫は辺りを見回す。

夢の続き…なんだろうか、と夫は考えていた。

まだ暗闇に目は慣れなくて妻のほうを見るが妻はピクリとも動いていないように思えるのだ。

恐る恐る、妻の傍に近寄った。

妻の体に触る。首筋、そして額に手を当てる。

感触はひんやりとしていた。

夫は、一気に目覚めた。

電気をつける。

だがそこは、いつもと違わない光景がひろがっているばかりだった。

どこに違和感を感じて飛び起きたのか、夫自身もわからないのだった。

耳を近づけてみるが妻は確かに小さな寝息をたてて眠っていた。

「あーや」呼びかけるが、返事はなかった。

肩に手をかけ揺さぶってみる。カクカクと頭が左右に揺れて、いくら呼びかけても反応はなかった。

夫は、突然意識がないようになってしまった妻を見つめていた。

胸騒ぎがする。

何か取り返しのつかないことが始まろうとしているのだろうか。

自分の胸に問いかける。この胸騒ぎは何かと。

そこにはなんと表現したらいいかわからない不安のようなものがぼんやりと形を成していた。

何の根拠もないのに、(大変なこと)が起きようとしているように思われた。

日が昇り朝になっても妻は目覚めなかった。

次の日も次の日も妻は目を開けなかった。

いったい妻に何が起こったというのだろう。

夫はそれからというもの、妻を診てくれる病院を探し回った。

どの病院も妻がどういう病気なのか解明できなかった。

何の治療方法もないまま時はむなしく過ぎていった。

しかし不思議なことに、食事を摂取しなくても妻は肉体の衰えはなかった。食事をしなくてもいい身体を手にいれたと言う事か。

何の手立てもないままに時ばかりが過ぎていく。

妻の意識は相変わらず戻らないまま、夫は途方にくれていた。
夫は妻のために出来る限りのことをした。

それなのに妻と目を見交わして話すことができないのだ。

眼前に横たわっている妻の体は瑞々しく、肌も美しくあの夜以前となんら変わるところはなかった。

それなのに、二人の間には透明で巨大な壁が存在していた。

いったい妻に何が起きてしまったというのか。

妻は相変わらず美しくて、なまめかしかった。

おまけに夫は横たわる妻のとなりに寝起きしていた。

罪の意識はあった。

 それなのに…
夫は、ある夜我慢しきれなくて妻を犯してしまった。

妻だから夫の自由にしていいはずだ。そうだろう?そんな言い訳を呟きながら心は激しい自己嫌悪におちいった。

しかし、夫の体の反応は心とは違っていた。

抑えていたものが一気に噴出した。

頭の奥からさらさらと泉が湧き出すような感覚に襲われた。

そして突然その泉のような感覚の中から妻の意識が読み取れた。

「あなた、とうとう私の体に来て下さったのね。。。あたしは、こころの不貞を働いてしまったの。だから。。。あたしは体だけはあなたのところに置いていくことに決めたの。あたしのわがままなの。あなたがあたしを抱いてくれたらあたしのメッセージがあなたに伝わるようになっていたのよ。。。心は、あたしの心はあたしの想い人のところに…でもね、体は、体だけはあなたのものなの。ずーっとよ。ごめんなさい。あたし、あなたのことを嫌いになったわけじゃないの。わかって欲しいとはいわないけど、聞いて欲しいの。あたしは…いけない女よね。ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。」

妻はさめざめと泣き出したように感じた。か細い声で夫に訴えているようだった。

不意に意識の空白がやってきた。

妻の意識はもう何事も夫に訴えかけはしなかった。

夫は我にかえった。

妻はあの夜のまま、小さな寝息をたてて眠っているばかりだった。

 

今のは何だったのだろう。

確かに、妻の声が聞こえた。

妻は心の不貞を働いていたと?体だけが俺のものだって…

夫はゆっくりと妻の体から離れた。

少しけだるい感覚が残る頭のまま夫はシャワーを浴びた。

それから鏡に映る自分の姿を見た。

妻は、この俺よりもいい誰かのことを好きになってしまったと言った。

中年に差し掛かったとはいえ、まだまだ引き締まった肉体をしている。若いときから筋肉質で少し浅黒いこの肉体はひそかに夫の自慢だった。

目だって涼しげでこんなに力を蓄えている。

強い意志の表れである眉毛だってこんなに立派だ。

世に甲斐性のない男は五万といるではないか。

社会的地位だって申し分ないはずだ。

年収だって平均よりは上回っている。

妻はこの体に不満が?。。。あろう筈がない。

妻の体はいつも十分満足だという反応を示していたではないか?ちゃんと段取りは確かに、時間もかけていた。

俺たちの儀式はいつも大成功だったのに。

そうだ。その証拠に妻は、心では不貞を働いていたとはいえ体だけはここに置いていったではないか。

夫のわずかな自尊心が誇らしげに胸を張る。

それなのに素性のわからないその誰かに、ムクムクとJealousyがわいてくる。

(しかし妻の肉体はオレのものだ。)

そこまで考えて、夫は、バスルームからお湯を汲んできた。

熱いお湯に浸したタオルををきっちり絞って、妻の体を丁寧に拭いてゆく。顔、耳たぶ、首、胸、脇の下、

して下半身と、何度もお湯を替え丁寧に拭いてゆく。

夫は妻の体を拭きながら、かつて妻の体をこんなにもいとおしく思ったことがあっただろうかと考えていた。

妻の体を拭きながら、涙が流れて仕方なかった。

(俺は普通じゃないな…妻を寝取られた男などというけど、妻の心だけ取られた男というのも実に滑稽ではないのか。古典落語の世界の主人公だぜ、俺…)

夫は、妻の心はいつ『奴』に奪われてしまったのか疑問に思った。

二人に、どんな出会いがあったのだろう。

妻は人付き合いは豊かな方ではなかった。

どちらかといえばあまり社交的ではなかったはずだ。

そんな妻がよその男に心奪われるなんて、思いもしなかった。

部屋の中に何か痕跡はないものかと考え、探すことにした。

妻はケイタイをどうしたことだろう。

そういえば、あの不思議な夜以来妻のケイタイを見ていない。ケイタイのありかなんて考えてもいなかった。

夫は、自分のケイタイから、妻のケイタイを呼び出してみることにした。呼び出し音は鳴っているようだが、すぐ通話中になってしまうようだ。何度もリダイヤルし、耳を離して部屋中の音を聞く。

しかし何の音もしない。部屋にケイタイはないということなのか?

夫はなおも探したがとうとう見つけだすことができなかった。

こうして妻の心の不在は続いた。

しかし夫の体は困ったことに、夜が来るのが楽しみで仕方なくなっていた。

もちろん、罪の意識を感じながらの妻とのsexが魅力ではあったが、そうすることによって妻の意識と交流することができるからであった。

妻の心は今、どこにいるのだろう。

夫の心に次なる疑問がわいてきた。

教えてくれるのかどうか解らないが今夜尋ねてみようと思った。

あのさらさらの感覚のあと、妻の意識が読み取れる。しかしいつまでも、妻の意識が感じられるわけではなかった。それはごく短い時間に限られていた。

その日、夫は妻に問いかけるように念じた。

妻は答えてくれるのだろうか。

来た、あの感覚。さらさらと泉のわくような感覚…

「あなた、あたしに喋らせようったってそうはいかないわ。あなたに探されたくはないわ。あなたの考えそうなことはあたしにはわかるわ。こうして、ここへあたしの意識が飛んでくることは、とても体力を消耗するのよ。あたしの命を脅かすの。それとね、あたしをあまり頻繁に抱くとあなたの体も心配よ。あなたの体が悪くなることをあたしは望んでなんかいないわ。だって、あたしはあなたが嫌いになったわけじゃないのよ。あたしは、素敵な人を見つけてしまったの。仕方のないことだったの。どこって?そんなに聞くならこれだけ。。。北の方角ってことだけね。。。これしかいえないわ。探さ・な・い・・で・・・・」

妻の意識は弱々しく遠のいていき途絶えた。

夫は妻を愛していた。

妻の心がいなくなって初めて気付いた。

こんなにも妻への愛情が深かったなんて少しも認識していなかった。

そんなに愛している妻の命が脅かされるのは本意ではなかった。

夫は妻のためにあまり妻の体を欲しがらないようにしなければならないと自分を戒めた。

 

 

 姿も見えないのに足音だけであたしは貴方が来たとわかる。

今日は残業もなかったのね。床に耳をつけて聞いていると、たくさんの足音の中から貴方の足音が浮かび上がってくる。

どんな大人数の足音がいちどきにしたって、あたしは貴方の足音がわかるの。

かなり遠くから貴方の足音を聞き分けてあたしの心臓は高鳴るの。

あたしはすばやく窓辺に寄りレースのカーテン越しに貴方の姿が見えるのを待つの。

貴方の姿が見えたら今度はドアのそばに行って貴方を迎えるの。

鍵が開くこの瞬間が好き。

あたしはドアが開く瞬間を狙って貴方に飛びつく。

貴方はあたしを抱きとめ、kissをくれるの。

貴方のkissが好き。世界中の誰のよりも貴方のkissが大好き。

あたしはすこしからだの力を抜いて貴方に抱かれ、その腕にやわらかく爪を立てるの。

貴方はあたしを床にそっと置く。尻尾をピンっと立ててあたしはゆらっとしてみる。

あたしは尻尾をたてて貴方の足に腰をすりつける。

「あとであとで」貴方はかまわず、自分のための料理を作り始める。

本当は、お料理は得意なんだけど作って待っているわけにはいかないの。

貴方のために得意な料理を作ることができたらどんなに幸せなことでしょう。

あたしはいつも夢想するの。

あたしは貴方のために身の回りのことをしてあげたいのはやまやまだけどあえて『猫の手』に徹することにしているの。

あんまりうるさくすると男の人は嫌がるんだよねぇ。解ってる解ってる。

貴方が料理を作っている間、あたしは貴方の敷きっぱなしのお布団にいってサッサと丸くなるの。

あなたとの出会いの夢でも見ながらね。

 

 あの日、午前3時。

あと一時間半も待てば一番列車が出る頃、まだ暗い歩道の上であたしはひたすら貴方を 待っていた。

街灯の光を背に黒いシルエットがクッキリと認められて、人影がゆっくりと近づいてくる。

あたしの心臓が高鳴った。 

歩いてくる貴方がひと目で貴方だと解ったから。

あたしは貴方を見たこともなかった。

知っているのは貴方の書くあたしへの愛で一杯の文章とたまに電話で話すその魅力的な声だけ。

あたしたちはメールのやり取りをしていた。

生い立ち、幼いころのこと。親、兄弟、自分のパートナーのこと。仕事のこと、料理のこと、お酒のこと。貴方の仕事のこと。日常生活の詳細までもよく話した。

まるで、いつも貴方が手の届くところにいるように。あたかも二人は近所に住んでいるように。

相談ごとも、夫に話せないようなことも。

貴方は元恋人の話を少しだけ教えてくれた。

ベッドでの女性の扱いなども教えてくれた。

どうしてあたしにそんな話をするの?

あたしはJealousyを覚えたけど、貴方はかまわずにその話を続けて…

貴方の声はあたしの脳細胞の中で増殖しつつある貴方のイメージとピッタリ重なったの。

まるでずっと昔からの知り合いのように、貴方のことを身近に感じていたの。

貴方のお声は。。。素敵だった。低い声は魅力的で、あたしの体の芯に共鳴したの。

貴方の姿を認めたときあたしの脳細胞は震えてしまった。

貴方は少し疲れたような足取りで、ゆっくり歩いてきたわ。

あたしは、夜は得意だから、貴方が来るのをこの路地でずっと待っていたわ。

そう、前日の辺りが暗くなる頃からまっていたの。

闇に紛れてうずくまるあたしのことなんて誰も不思議になんて思わないよう通り過ぎていったわ。

あたしは歩いてくる貴方の前に身を投げ出して、くねくねして見せたの。

突然現れたあたしに目をとめてあなたはあたしを抱き上げたの。

貴方は手をそっとあたしの顎の下に差し入れてあたしの喉を優しくなでてくれた。

貴方は、明るく振る舞っていても、とっても寂しい人だってわかっていたから、貴方は無類の猫好きだって知っていたから、あたしは貴方の前に身を投げ出したの。

そして、絶対貴方があたしを持ち帰るって自信があったの。

だってね、貴方が彼女と別れてしまったのを知っていたから。

あたしはどうしても貴方と暮らしたかった。

いつも寝顔を見て、いつも抱きしめてもらって、あちこち触ってもらって、貴方の低い声で好きってささやいて貰う。

あたしはそれだけで十分だった。それがよかった。貴方との二人だけの生活。

貴方は、思い通りあたしを拾って帰った。

あたしはとても幸せに思った。

貴方は最初の夜、あたしを連れてお風呂にはいってくれた。

なぜって…それはあたしが白いところが灰色に見えるくらい汚れていたからなの。

あたしは大人しく洗ってもらった。ほわほわの泡が気持ちよかった。あたしの鋭い爪はぴたっとしまいこんで、あたしは貴方に身を預ける…

 

 うたた寝のつもりがかなり深く眠ってしまったようだ。

いつもは眠りは浅いのに少し疲れていたのかしら。

あたりは明かりが落ちていて。。。。

貴方?泣いているの?

あたしは暗闇の中の貴方を凝視していた。貴方の手にはケイタイが握り締められていた。

ケイタイの番号を見て唖然とした。あたしのケイタイの番号だったから。

あたしは貴方に電話することを禁じていたのを思い出した。

だから貴方からは一度もあたしに電話がかかってくることはなかったわ。

かけるのはいつもあたし。

あたしがあなたの低い心地よい声を聞きたいときだけ電話で話したの。

あたしたちは無言で意思疎通をしていたの。いつも、液晶画面を見つめてお互いの気持ちを確かめ合っていたような気がする。

あたしはきっと寂しかったんだと思う。

夫が会社に出た後、子どももいないあたしは少しばかりの家事を終わると退屈な毎日だった。

かえって来る夫はいつも疲れているようで、何を話しかけても帰ってくる言葉は「あ~」とか、「うん」ばっかりだった。

いつもあたしの心は寂しがっていたんだと思う。

そんな時、「あなたが好きですから…」といってくれた貴方。

一生懸命に気持ちを伝えてくる貴方に根負けしたような形で、あたしたちの愛は恐る恐る始まったのよね。

 

 あたしが分裂した今、貴方はあたしと連絡が取れなくなってしまったのよね。

ここ何日も貴方は元気がないように感じていたの。

考えが浅かった。

あたしは貴方が今の形のあたしに触った時あたしの心が貴方の近くにいるって当然わかってくれるものだと思っていたの。

わからないの?あたしが。こんなに貴方のことを愛しているあたしが。

あたしは暗闇の中で、虚しい呼び出し音に耳を押し付ける貴方を見て、奇妙なとにケイタイの向こうのあたしに嫉妬してしまったわ。

あたしはあたしの肉体を思った。

きっと、あたしの心を寂しくした夫の隣りで、あたしの肉体は、規則的に寝息をたてているのよね。

あたしの肉体。

あたしが失ってしまったもの。

こうするしかなかった。

あたしの貴方への思いは本物。

でもあたしは人妻。夫以外の人を受け入れてはいけないともう一人のあたしが言うの。尤もだと思う。

だからこんな方法しか思いつかなかったの。

貴方は、連絡の取れなくなってしまったあたしを恋しく思っていてくれたのね…

でも。

これがあたしなの。あたしだってわかって欲しい。あたしを愛して欲しい。

傍にいるあたしをうんと抱き締めて。

あたしなの。あたしを見つめて。そして気がついて。あたしを抱き締めてほしい。

あたしは切ない心を抱いて一人で寝たふりをした。

だって男の人って人知れず泣いている時の涙なんて見られたくないものなのよね。

何度連絡をしようと試みても、あたしとはもう話せないの。

あたしがそうしたの。

貴方の暖かい手に毎晩抱き締められるためにはこの方法が一番だったの。わかって欲しい。

メールでの無言のお話は、いくら話しても現実味がなかったの。

メールで話して、声を聞いて実際に逢って話す。

でも、現実にそうはなれなかった。あのまま突き進めばきっとどちらも破滅なのよ。

もし逢ってしまったら、あんなに引き合う二人だもの、きっと離れられなくなってしまう。それは二人とも同じ考えだったじゃない?

貴方はあたしのことを思ってくれて

「貴方の家庭はこわしません。貴方に会いたいけど我慢します。心が痛いけど我慢します。」

っていってくれたものね。

あたしはその言葉をもらって涙が流れて仕方なかった。

だから。

この方法が一番よかったのよ。

貴方は暗闇で何を泣くの?何を嘆くの?

それともやはり、人間の形をした女でなくては満足しないのかしら。

近くにこんなにも貴方のことを思っている女心があるじゃないの。ねぇ、気がついてよ。

でも貴方はあたしに面と向かって涙を見せることはなかった。

いつもの貴方はあたしの頭をなで抱き寄せ頬ずりしたりくすぐったり、たくさん話しかけてくれた。

あたしは益々貴方が大好きになっていった。

いつまでもこの幸せが続けばいいなぁと思っていたの。

いつまでも、ずっと。

あたしたちのそんな生活は1年半モ続いた。 

 

 あたしの幸せ、貴方の傍にいるというささやかな幸せはある日突然哀しみに変わった。

あたしはただ、貴方に撫でられて貴方を見つめて貴方と一緒に暮らせればそれでよかったのに、あたしがずっと貴方の傍で暮らすことは、嫌なものも受け入れなければならないことに変化していったの。

貴方はある日、人間の女を連れてきたの。

こんなに貴方のことが好きなのに、あたしは貴方を満たすことなんてできないのだもの。考えてみれば当たり前のことなのよね。

あたしは貴方の寝室で、貴方が女を愛撫するのを黙ってみているしかなかったの。

それからは辛い悲しい毎日が始まった。

あたしが寝ていた貴方の横にはあの女が。。。

貴方のやわらかな腕も、耳たぶも、その広い胸もみんな女のものになってしまったの。貴方は、素敵な低い声で、女に愛を囁くの。

あたしは僅かにあいたドアの隙間から、悔しさに身を捩りながら、ただ黙って二人を見ていたの。

あたしの心はとても傷ついた。

そんなあたしはまた苦しむことになった。

マルボロを銜えてゆっくりと煙を吐く貴方に、あたしを見ながら女は訴えたわ。

「ね~ぇ、貴方の飼っているあの猫だけど、気持ち悪いの。私たちが愛し合ってるのをジーっと見てるのよ。気味悪いよ。あれ…嫉妬に狂う女の目よ。」

「まさか…可愛いんだぜ、あれな、喉のところ撫でられるのが大好きなんだよ、可愛いんだ。」

女は嫉妬の焔をたたえた目であたしを真正面から見据えて、さも嫌な物でも見たような顔をするの。

貴方…よりによってこんないけ好かない女を連れてきて。

でも、あたしに勝ち目はないわ。わかっているの。

あたしは貴方の愛を繋ぎとめておける肉体なんてない。

でも、あたしが選んだことだもの。

あたしはたったこれだけの時間だったけど、念願どおり貴方と一緒に暮らせたわ。

幸せだったと思わなければならないのだと思う。

貴方は、新しい人をみつけたんだもの、それが貴方の幸せならそれでいいとあたしは思ってるの。

もともと、無理な話だったのよね。

あたしは恋していけない人に恋してしまったんだから、あたしが悪いの。

わかっているから。

迷惑なんてかけないから。

やがてあたしの仮の姿はひっそりと誰の目に触れることもなく朽ちていく運命なの。

そして貴方の記憶からもさらさらと砂がこぼれる様に消滅していくはずよ。

でも、ときどきはあたしのことを思い出して欲しいの。

これはあたしのわがままかしら。

 

 

 

 季節はめぐり、新しい生活は希望に満ちていた。

彼と彼女はとても幸せに暮らしていた。

迷い猫は、ある日その家を出たまま二度と帰ることはなかった。

彼はしばらくの間、本気で迷い猫を探した。

猫が散歩に行く川原や、商店街の魚屋の前の道や、大きなお屋敷の板塀の上などもなく探した。

今頃になって彼は思うのだった。

なぜか、あの迷い猫はずっと以前から知っていたような気がするのだった。でも、そんなような気がするだけで、ほんとうのことには気付きもしなかった。

訪ね猫のポスターを作ってあちこちに配った。

道行く人にもたずねあるいた。

彼は、彼女ができたからと言って猫が邪魔になんかなったわけでなかった。

そんなこと考えたこともなかった。

どうして突然、猫が出て行ってしまったのか理解できなかった。

いくら捜してもあの猫の行方は 突き止められなかった。

猫のことも、メールで愛した女性のことも彼は忘れたわけではなかった。

しかしそれをおおっぴらに日常に持ち出すわけには行かなかった。

そのうち、彼と彼女には赤ちゃんが出来た。 

彼はだんだん、猫との暮らしの記憶を日常から追いやり、そのうちたまにしか思い出さなくなっていった。