往転雑感#1 往転とかいてオウテンと読みます
今までお世話になってきたパソコンにもまだまだ頑張ってもらうつもり、なのだけど、新しいパソコンの書き心地があまりによくって、何か文字を打ちたい、という衝動に駆られる。執筆時期はパソコン机に座るのすらいやな私にとって、これはひじょうにいいことです。
だから、その気持ちが熱いうちに、久しぶりにブログを書いてみようと思う。
せっかくなので、この時期は「往転」にまつわるあれやこれやを書いていこうと思う。
一回きりで飽きるかもしれないけれど。
(真面目に演出してる風の私。真面目に聞いている風の置田)
『往転』という脚本を書いたのは2011年。
去年映画が公開された『ひとよ』と同じ年で、上演も同じ頃。
いわずもがな東日本震災の年だけれど、作品にその影響が出たのは『ひとよ』のほうで、『往転』はまだ震災前。
書き上げたのは忘れもしない、1月8日だった。
何で忘れもしないかというと、忘れないぞと思っただけなのだけど、描けないまま年を越した2010年の年の瀬がともかくつらかったのだと思う。
この作品は世田谷パブリックシアターのプロデュースで依頼を受けて書き下ろしたもの。
だけど、キャストが決まっていないなかで脚本を書くのはほぼ初めての体験で、当て書きばかりしてきた私にとってはすごくむつかしい作業だった。
演出は青木豪さん。尊敬する作家が演出ということもものすごいプレッシャーだった。
はじめは、全然違うはなしを描いていた。
アルコール中毒になった兄と、愛憎混じりながら介護する弟、彼らの母親を軸にした話で、『亀とスッポンは兄弟』とか、そんなタイトルだった。
けれどこの案はいろいろあってボツになり、まったく新しい話を考えなくてはならなくなった。
ちなみにこの兄弟の話は後に『彼の地』という舞台のなかで生まれ変わり、日の目を見ることになったからこれでよかったのだと思う。
けれど新しい話と言われてもちっとも思いつかなくて、バラバラに小さなあらすじを思い浮かべては消し、そんなことの繰り返しであるときついにプロデューサー陣から呼び出しを食らった。
私に依頼してくれたプロデューサーは辛抱強く私を待ち、何度も話し合いに付き合ってくれ、ずっと味方してくれてたのだけど、上司にあたる別のプロデューサーからは冷え冷えとした声で、最終締切日を言い渡された。そこまでに描けないなら降ろされるということだ。
そして、
「これで描けなかったならあなたはきっと、描けないんですよ」
そう言われた。
体が震えた。ものすごい脅しを受けたような気分になった。
これで描けなかったら私は脚本を描けない人になるのか。
そんなわけあるかい、と今なら図太く思うだろうし、そのときだってばっきゃろーお前に決められたくないや、くらいは思ったけれど、実際に描けてなかったから、恐ろしいやら情けないやら悔しいやらで、泣きに泣いた年越し。
こんな風に人に切り捨てられるのか、という怖さとか、自分は要らない人間なのかなというさみしさとか、つまづいて立ち上がれない感覚とか、そういうものを半分やけくそに、半分はそんな自分を救うつもりで描いたのが『往転』という作品だったのかもしれない。
稽古を通して『往転』を見ていると、なんと生きるのがへたくそな、つまずきじょうずな、あちこちに擦り傷や打ち身だらけの登場人物たちだろうかと改めて思う。
こっけいで無様で痛々しい。だけども俳優さんたちの体を通すと、そんな傷や痣も笑えたり、許せたり、時々すごくまぶしく見えたり、生きるあかしなんだと思えるから不思議だ。
(オレノ君の指導によりとっても難しいことをしている峯村リエさん)
(西山聡さんの指導によりある意味難しいことをしている米村君)
こうしてたしか、死刑宣告(締め切り)ぎりぎりの年明けに書き上げた本。
もうこれでダメならダメでいいやと思って翌日パチンコに行ってたら、脚本を読んだ青木豪さんから電話が来た。慌ててパチンコ屋から出て、漏れ聞こえるチーンジャラジャラの喧噪のなかで、面白かったよ、これで行こう、と豪さんが言ってくれたあのとき。
あれが脱稿した瞬間で、1月8日なのだった。
わたしが生きながらえた記念日なのだった。
震災があって、またしても『往転』は上演中止(というか演目変更)になりかけた。
物語の舞台が福島と仙台だったから。
そんなことで、と思われるかもしれないけれど、あの当時は「はいわかりました」と素直に言ってしまったくらい、皆が敏感にならざるをえない状況だった。それでも豪さんと私に声をかけてくれたプロデューサーが闘ってくれ、二転三転あり無事、上演できたのだった。
豪さんありがとう。私の本と、「描けない死」から救ってくれた人。
(そしてそのとき闘ってくれたプロデューサーが、現在の穂の国とよはし芸術劇場PLATのプロデューサー・矢作勝義さんなのでした。
2003年に明石スタジオの桟敷席でKAKUTAの公演を見てくれたときからずっと、矢作さんは私とKAKUTAの恩人なのです。
しみじみ頭が上がらない。実る穂となって頭を垂れ芸術文化アドバイザーとして恩返ししていこうと思います。)
(表情もポーズもイラッとくる多田先輩。しかしこれも重要な役作り)
そんな道行きをたどった『往転』。
震災後の初演時はやはり、いろいろな箇所を震災のことと絡めて解釈されたけれど、今はまた違うふうに見てもらえると思います。
それでは今日はこのへんで。
チケットまだまだあるのですよ。ぜひみにきてくださいね。