9日の21時過ぎに関空に着いて、それから特急はるかで京都→琵琶湖線で深夜24時過ぎに滋賀県の娘宅まで帰り着きました。
夕食を食べ損ねていたので、食べないで寝てもよかったのですが、簡単に雑炊など作って食べたため、寝たのは3時頃だったと思います。
(沖縄旅行の記事はカメラ写真が多いので、また自宅に帰って整理してから書くことにします。)
翌日は遅くまで寝ていられるかと思ったけど、7時前には目が覚めてしまい、沖縄から送った宅配が10時ころに届くため、のんびりに寝ていられません。
旅行の疲れと睡眠不足もあるだろうに、あろうことか午後から「石山寺に行こう」
昨年12月にも石山寺に行きましたが、生憎紫式部の人形は大河ドラマの出演直前もあってか、衣装の修復で出張中のお留守。
3月に元の位置に収まりましたということと、今回は石山寺で大河ドラマ館開催中というので行く予定にしていたのです。
(福井県越前市でも大河ドラマ館を同時開催中)
娘宅から石山寺までは、車で30分弱の近さ。
午後14時過ぎに寺に着きましたが、ドラマの影響もあって参拝者の多い事。
駐車場には観光バスも何台も停まっていて、特に中年の女性が多く見られました。
後方の山門前では団体客が集合撮影中なり。
モミジなどの深緑も鮮やかな参道。
いつものクマではなく、今回はぶりっこハムスターがご案内しますね。
参道の途中の「名王院」という建物でドラマ館が開催されています。
ここで履物を脱いで、スリッパに履き替えて、
女性が主人公の大河ドラマなので、タイトルも美しい細筆文字。
ドラマでまひろ(吉高由里子さん)が着た、平安の衣装が展示されています。
「五節の舞姫に選ばれたまひろが、花山天皇や貴族の前で舞を披露した時の衣装」
舞いながらまひろが目にしたものは、道長とその隣に座る道兼。
母を殺した憎い男が、思いを寄せる道長の兄であるという驚愕の事実をと知ったまひろは・・・・
後方写真はまひろが手紙を書くシーンの自宅。
手前はその時の硯と手紙。
ドラマで使われた筆文字なので、紫式部の筆跡ではございません。
漢字は中国から伝わった漢文などから日常的には男性が使い、平仮名文字は遅れて文字を使い始めた女性が広めたものでは?ということでした。
撮影スポットで、まひろ紫式部、ききょう清少納言とスリーショット。
足元のスリッパがひどいけど、まひろも裸足に草履だしね~
ハムスターの頭がでかいのはどうにかならんのか?
ドラマ館を見終わって本堂への石階段を上がります。
そびえ立つ天然記念物の硅灰石。
後方の多宝塔や本堂は、硅灰石の上に建っていることから「石山寺」の名がついたのだとか。
天智天皇の時代、この地は石切り場があり、寺の基礎石にするため奈良まで運ばれた歴史があるそうな。
本堂入口の横に、「紫式部源氏の間」があり、
お色直しの終わった紫式部が鎮座されていました。
お帰りなさいませ
説明文も新しくきれいになっていました。
ここで琵琶湖の湖面に映る中秋の名月を見て、「源氏物語」の構想が浮かんだというので・・・・
本堂入口。ここから先は撮影禁止。
ドラマではこの寺のシーンもありましたが、実際のロケはありませんでした。
本堂の裏の方に登ると宝物館などもありますが、以前見たこともあるので今回は上りませんでした。
横には涼し気なモミジや竹藪があり、日陰では涼風が吹いてきますが、日が当たる場所はなにしろ暑くて暑くて、とても歩けたものじゃありません。(沖縄より暑い)
いつも忘れがちな朱印帳も持って行ったので本堂で御朱印をいただき、これで終了。
帰りに参道の店で「ほうじ茶ソフト」を食べて涼みました。
ソフトクリームの後ろにちょこっと石碑が見えますが、この辺りはアジア最大級の淡水貝塚が発見された場所で、この場所は紀元前7000年の縄文時代のものだそうです。
土器、石器、人骨などが多数見つかっていて、その昔から石山寺の地域は湖と山の幸に恵まれた済みやすい土地だったことがうかがえます。
☆☆☆
昨日は時の記念日で、近江神宮では漏刻祭(天智天皇が日本で初めて時計を取り入れて時刻を知らせたことにちなむ行事)が平安時代の装束で行われたそうで、そのことを知ったのは石山寺からの帰り道の17時前。
知っていれば近江神宮に先に行ったのに~
(画像はYahoo!からお借りしました)
近江神宮とかるた、漏刻については、2022/6/25の記事に載せています。
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