愛愛子さまが皇太子になるべき100の理由愛No.63

 

国難

国家の災難。一国の危難。(出典:精選版 日本国語大辞典)
「国の存亡に影響するような、危機や災難」のこと。

 

過去、国難と言われる危機に対して、天皇はどのように民と向き合ってきたのでしょうか。
 
 

 TODAY'S
 
民と共にある皇室

 

今の日本という国が、天皇を中心に据え、他民族に征服されることなく続いていることは奇跡に近いことだと思います。

 

もちろん、海洋国家という地の利はあるにせよ、それでも何度か国難と呼ばれる危機が訪れても、その都度、時の天皇、そして皇族の方と共に克服してきたことが歴史の事実として残っています。

 

 

 

  天明の大飢饉と後桜町上皇

 

天明の大飢饉(てんめいのだいききん)は、江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。

 

全国的には1780年から1786年の間に92万人余りの人口減を招いたといわれています。

 

若き光格天皇を補佐していた、後桜町上皇(10代8人最後の女帝)は、飢えた人民に対し和リンゴ3万個を放出したり、お茶を配るなど出来る限りの救済措置を取ったようです。

 

それに影響を受けた光格天皇も、、

 

飢えた人々が御所を拝んで千度を踏んで歩く御所千度詣(ごしょせんどまいり)を聞いた際には、幕府が定めた禁中並公家諸法度を破り幕府に対して民衆の救済を申し出ました。

幕府は天皇の行動に驚きますが、訴えを聞き入れないと民衆の憎しみが幕府に向かい、天皇の求心力が強まる事を恐れ、米俵1500を民衆に放出しました。

日本史最後の女帝・後桜町天皇はどんな人?中継ぎで片付けられない功績 - ほのぼの日本史 (hono.jp)

 

という行動をとったようです。

 

 

 

  関東大震災と貞明皇后

 

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起きました。

 

当時、大正天皇は事実上引退していて、摂政であった裕仁親王は視察を繰り返しました。

 

貞明皇后(大正天皇の后)は、お見舞い、という、歴史上の皇室にとっては初めての行動に出ます。

 

日光に滞在していた貞明皇后は9月29日、東京に戻った。上野駅に到着したその足でそのまま上野公園を訪れ、被災者の収容施設を見舞った。浅草から焼け出された手山りん(49)という女性に「眼が悪いの?」と声を掛けた。また、御徒町(おかちまち)の富田いとが3人の子どもを抱えているのを見ると「兄弟は何人か、皆無事か」とねぎらった(『東京朝日新聞』9月30日)。

 

 

 

皇后の発意によって宮内省巡回救療班が組織され、9月14日から翌年3月までの間、無料で被災者の診察が行われた。これに当たったのは臨時に宮内省に雇用された医師、看護師、産婆(今の助産師)らであった。

 

 

 

  明仁上皇さまの被災地訪問の歴史

 

現代の皇室の被災地訪問のスタイルも、歴史的な変遷がありました。

 

1959年 伊勢湾台風の被害を受けた、愛知県への視察。

 

 

 

 

 

この時は、上から見下ろす、というのが基本で、ひざまづくといったスタイルではなかったようです。

 

また、訪問自体、好意的に受け入れなかった状況もあったようです。

 

 昭和天皇の名代(みょうだい)として訪問したものだが、当時は皇族が被災地を訪れた前例が少なく、歓迎の声ばかりではなかった。訪問前の新聞には「皇太子視察は考えもの」という題の投書が載り、「キレイごとの視察見舞いは、被災者の沈痛な心理に逆作用を起こすおそれがある」と厳しい内容だった。

 

 

 

しかし美智子さまが三原山噴火(1986年)の際の視察において、膝まづいて声をかけられる姿に影響を受け、そこからスタイルが変わっていったようです。

 

 

三原山の噴火で、避難した伊豆大島の島民に励ましの言葉を掛けられる皇太子ご夫妻=1986年11月29日

 

 

 

徐々に、天皇(皇太子)による被災地への訪問は、国民にも受け入れられるようになり、今となっては国民が望むものとなっているのは、皆さんご存じの通りです。

 

 

そして、2011年3月11日に東日本大震災が発生します。

 

石原慎太郎東京都知事(当時)は東北3県の様子を「悲惨で、想像を絶する」と説明し、「被災地は若い男宮を名代(みょうだい)に差し向けてはいかがでしょう」と提案した。

天皇陛下は黙っていた。だが、見舞いを終えて武道館を出る際、石原都知事に歩み寄ってこう告げた。

 

「東北は、私が自分で行きます」

 

翌4月27日、東北3県の訪問の最初として、宮城県を訪れた。

 

皇太子ではなく、天皇自ら足を運び、直接話しかけることを選んだのです。

 

 

国民に受け入れられない状況からここまでの経緯は、上皇さまのたゆまぬ努力と、ひたむきで誠実な態度があってこそではないでしょうか。

 

私は、象徴天皇という制度の中では、天皇陛下というお立場だけでなく、人間としての天皇の在り方がここにある、と考えます。

 

言葉を選ばず言えば、この公務こそが、天皇にとってのライフワーク(言葉が軽くすみません)であり、存在意義、もっといえば、人間として最もモチベーションが上がる類のものではないか、と拝察します。

 

 

宮城県南三陸町の避難所で、被災者に声を掛けられる天皇陛下=2011年4月27日

 

 

 

この仕事は、天皇でしかできないです。

 

 

このような天皇が奇跡的にいらしていただく我が国は、本当に幸運でありがたいことだと思います。

 

 

 

 

  上皇さまの意志を受け継がれたのは誰か?

 

 

この上皇さま、上皇后さまのお姿を見て、しっかり受け継がれたのは誰でしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、その方の背中を見て学ばれているのは、どなたでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  南海トラフ地震をどう対峙するか?

 

 

いつかはやってくると言われている南海トラフ地震。

 

 

youtube.com/watch?v=ijBxED8YLFg

 

 

日本に住む国民としては、備えなければならず、いつかは対峙する必要があります。

 

 

あっては欲しくはありませんが、家屋や慣れ親しんだ土地、そして肉親や家族、兄弟、友人を失うかもしれません。

 

 

 

その時、われわれ日本人は、どなたと共に、希望と勇気をもって進んでいくべきでしょうか。

 

 

男系男子と呼ばれる方でしょうか。

 

 

それとも、上皇さまの祈りの姿、民に寄り添う姿を受け継いだ方でしょうか。

 

 

 

 

 

愛子さまが皇太子になるべき理由 その63

 

「国民と苦楽を共にする」ことを天皇の務め、と定義した上皇さまのご意思は尊い。

 

国難と天皇との歴史をたどると、明らかに国民への接し方が変化していて、常にアップデートを続けていることがよくわかる。

 

男系の血だけを見て皇位継承を語るカルトが、いかに陳腐で矮小なことか!

 

われわれ大多数の日本国民は、皇統の血筋とともに、心の奥底にある崇高な精神を受け継ぐ直系のお子様にこそ、次代の天皇になって欲しい、と、心から願っているのである。