愛子さまが皇太子になるべき100の理由No.56
男系固執派の切り札である「旧宮家系の男系男子による皇籍取得」案。
「戦後GHQの陰謀により無理やり臣籍降下(皇族→一般国民)させられた。
それは不自然なので元に戻そう!」
という主張です。
果たして本当に、GHQの陰謀によって一般国民にさせられたのでしょうか?
歴史の事実を見ていきたいと思います。
男系固執派は陰謀論がお好き
歴史の事実を先に書くと、臣籍降下が行われた1946年よりもずっと前に、増えすぎた皇族を臣籍降下するルールが決められていました。
元々リストラ候補だった
大正9年(1920年)に制定された「皇族降下準則」です。
これにより、天皇の玄孫まで(4世子孫)までを皇族とし、特別な理由がない限り5世以降は臣籍降下させて華族とするように決まりました。
もちろん、当時の皇族からは反対意見も多く、単なる内規であり効力は無効だった、と男系派の主張もあります。
しかし、このような降下準則が議論されたバックグラウンドは何なのか?
それを見落とすと大局的な歴史の流れを見落とすことになります。
当時の政府は、伏見宮系皇族の血の遠さ(崇光天皇から約600年)を問題視し、そのリストラを考えていたため、という状況がありました。
このままでは皇族が無限に増えて、国家財政を圧迫し、また皇室の権威を傷つけるものが出てくる、という懸念がありました。
その背景には、北白川宮能久親王の問題行動があったことが大きいようです。
・討幕運動に加わらず、幕府の味方についた(彰義隊に担がれた)
・皇族のドイツ人女性との結婚問題(謹慎処分→のちに婚約破棄)
・側室以外の女性とのあいだに、二人の子供(隠し子)をもうけていた
これは、、かなりキッツイですね。
また、伏見宮系以外の3宮家は後継者がなくなった、
・閑院宮は明治5年(1872)年に伏見宮系の親王が継承
・桂宮は明治14年(1881)年廃絶。
・有栖川宮は大正2(1913)廃絶が確定。
という状況でした。
天皇の弟が創設した「直宮系」(高松、秩父、三笠)以外は、血の遠く離れた伏見宮系だけとなっていました。
自ら降下を希望した東久邇宮家
戦前から直宮系以外の宮家を減らす動きがあったことは明らかでした。
そこへ、大戦後の新憲法の制定の流れの中で、直宮系を残し、それ以外を臣籍降下しようとする動きが加速しました。
参考になるのが↓の森暢平さんの記事です。
日本政府のほうが離脱に積極的で、GHQがそれにストップをかけていた事実もある
えーーー!
全く逆やん
敗戦3カ月後の45年11月11日、『毎日新聞』が東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)らが「臣籍降下」を決意したと報じる。東久邇宮はさらに注目すべき内容を『毎日』記者に語った。
「皇族の範囲を極めて小範囲に限定すべきで、例えば、秩父宮、高松宮、三笠宮様のように陛下の御肉親のみに限定して、その他の皇族は臣籍に降り、一国民として仕え奉るのがよいと思う」
では、なぜそのようなことを言ったのでしょうか?
その背景がこちらです。
枝葉を刈る、という発想
GHQは、日本に民主的な政治を行うため、皇族のための歳費を皇族が決めるのではなく、その歳費はいったん打ち切り、国会がその歳費捻出を決定するようにしました。
つまり、歳費の範囲を国会が決める=国民が決める、という形にしたのです。
しかし、戦後間もなくのことですから、当然潤沢な歳費があるわけでもない。
よって、宮内省の態度は明確でした。
「各皇族が品位を保たれるに充分な国家支出をなすことは困難と考えられ、皇族方の共倒れを救う一つの道は臣籍降下である」(外務省「皇室に関する諸制度の民主化」)とするものだ。大きな幹を残すために「枝葉を刈る」という発想だった。
こうして、伏見宮系11宮家は皇籍離脱することになりました。
GHQが押し付けたんじゃなくて、日本人(宮内省)が決めた、というオチでした。
むしろGHQは、
え、ほんまに降下させるん?
なんで?
いつ、どうやって?
そんなんできるん?
という反応だったようですね。
昭和天皇も臣籍降下に賛成、推進
当時、元首としてGHQとも対峙していた昭和天皇も、臣籍降下に賛成だったようです。
昭和天皇は11月29日、皇族たちに対し、「色々の事情より直系の皇族をのぞき、他の十一宮は、此際(このさい)、臣籍降下にしてもらい度(たく)」「時期は来年(47年)一月末か二月頃がよかろう」と通告した(『梨本宮伊都子妃の日記』)。昭和天皇も宮内省と一体となって宮家の皇籍離脱に動いた。
貞明皇后の反応
大正天皇の后(昭和天皇の母)である貞明皇后は、11宮家の皇籍離脱を聞いた時、眉一つ動かさずにこう言ったそうです。
これでいいのです。
明治維新この方、政策的に宮様は少し良すぎました。
天皇から最も遠い血筋の宮家でありながら、自身の特権を守るために汲々とし続け、中には平気で君臣の矩を越え、皇室の品格に傷をつけかねない者までいた伏見宮系皇族に対して、皇后がどう思っていたか・・・
それが端的に現れた一言である。
小林よしのり「新天皇論 p203」
┗引用元 筧素彦 『今上陛下〔昭和天皇〕と母宮貞明皇后』
お上品なお言葉の裏にあるのは、
潤沢な歳費を使って好き放題にやらせ過ぎだコノヤロー!
ということですね。
まとめ
- 戦前から増えすぎた皇族を減らす策が検討されていた
- 素行のよくない皇族も実際にいた
- 戦後、GHQは皇族の範囲を国民が決めるよう促した
- 宮内省、昭和天皇が主体になって臣籍降下を決定した
- 背景には予算削減と皇室の品位維持があった
以上により、GHQの陰謀により強制的に旧宮家が臣籍降下させられた、というのは真っ赤なウソだった、という事が真実のようです。
愛子さまが皇太子になるべき理由 その56
GHQの意志によって旧宮家が臣籍降下させられたわけではなかった。
日本の意志として、当時の宮内省、及び昭和天皇が決定したことであった。
GHQの強制で降下させられた旧宮家を今こそ復帰させよう、というストーリーは真っ赤なウソである。
ウソのストーリーを元に復帰させようとしている自称保守系政党(自民、維新、公明、国民、諸派)の案は、日本人全体をだまそうとしているようなもの。
そんな怪しくもろい方策は今すぐ撤廃し、男女の別をなくした皇位継承を実現するべきなのだ。