愛愛子さまが皇太子になるべき100の理由愛No.25

 

 

今日は歴史の話です。

 

飛鳥~奈良時代ごろまで、女性天皇が輝いた時代が確かにありました。

 

592年の推古天皇が即位してから、称徳天皇が退位する770年までの約180年の間、女性天皇が8代、男性天皇も8代いた時代、です。

 

単純な合計在位期間だけで見ると、女性天皇の期間の方が長い、というのもすごいですよね。(男性:87年、女性91年)

 

つまり、この時代においては、女帝は例外ではなく、普遍であった、という事が言えます。

 

 

 

 

また、43代元明天皇から44代元正天皇においては、母から娘へ女系継承が行われています。

 

この時代、今の世のような、男系でなければならない、といった縛りはなかったことが、歴史的に証明されています。

 

よって、令和の世で、愛子さまがが皇太子になられても何ら問題はない、という事がわかるかと思います。

 

 

しかし、ここで男系固執派は、元正天皇の父親は、草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)なので、男系継承だ、と強弁します。

 

 

 

全然違います真顔

 

 

 

皇位継承は、その名の通り「皇位」を引き継ぐことです。

 

43代 元明天皇 

 ↓

44代 元正天皇 

 

 

 

なんで、天皇になっていない草壁皇子が、「皇位」を引き継いだことになるのかムキー

 

常に論争の的となっていますが、どう考えても女系継承です。

 

 

 

 TODAY'S
 
古代女性活躍時代からのメッセージ

 

 

  女帝が多く存在した理由

 

さて、この時代、なぜこんなにも女帝が多く存在したのか?

 

 

義江明子「女帝の古代王権史」によると、、

 

 

 

 

倭の社会の親族構造は双系的なものだったので、世襲主権の下では男子だけでなく女子も王位継承候補となり、統治能力に優れた女性王族は、状況に応じて群臣の支持を集めて王位に就くことが可能だった。双系的親族構造と王を"えらぶ"システムの存在が、女性を排除しない古代王権の特質につながったといえよう。

 p53 第二章 世襲王権の成立 より

 

とあります。

 

つまり、

 

・倭(日本)はそもそも、世襲が原則であったため女子も継承できた。

・群臣から信頼を得られれば=実力があれば、男女問わず選ばれた。

 

ということです。

 

まさに 女性活躍時代 だったようです。

 

 

 

 

  その後父系社会へ

 

しかし、その後は、残念ながら父系社会へ傾斜していきます。

 

藤原氏の台頭、シナ文明の影響によるところが大きく、そして武家政治が始まっていくことから、女帝の時代が終焉を迎えるに至りました。

 

 

王権中枢を構成する女性は、"王者"から"母"へ、そして"妻"へと、時代によってその位相を変えてきた。女帝の有無だけではなく、女性の国政関与という面から見た時の前近代と近代の落差は大きい。近代の皇后は極めて困難な生き方を余儀なくされたといえよう。

同書 P238 終章 国母と摂関の時代へ向けて

 

 

 

 

  まとめ

 

今回の投稿で私が言いたいことは、

 

確かに女帝が活躍した時代があり、それは決して「中継ぎ」などではなく、実力で選ばれ君臨し、統治していた時代があった

 

ということです。

 

今の世は、権力は政治が、権威は天皇が、それぞれ担うことで、成熟した社会が成り立っています。

 

 

権威に男女の別は必要か?

 

 

古代の女帝たちから、そのように問いかけられてはいないでしょうか。

 

 

 

 

愛子さまが皇太子になるべき理由 その25

 

日本の黎明期は女王/女帝が多数実在した。

それにもかかわらず、今はちっぽけな男系固執派が、男系男子こそが正統、とうそぶき、幅を利かせている。

 

愛子さまの誕生は、日本本来の姿に戻すチャンスが到来したと考えるべきである。

これは古代の女帝たちからのメッセージである。