愛子さまが皇太子になるべき100の理由
No.90
女帝シリーズ最後を飾るのは、第117代天皇である、後桜町天皇です。
名前の印象、とても雅ですね。
後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)
1740年9月23日- 1813年12月24日)は、日本の第117代天皇
(在位: 1762年9月15日- 1771年1月9日)。
諱/いみな は智子(としこ)、幼名は以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)
こんなのを見つけましたが、なかなかおもしろいです。
後桜町天皇 pic.twitter.com/uRmrNXZOvv
— すきえんてぃあ@書け (@cicada3301_kig) May 7, 2024
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江戸の世にも存在したダンケー
さて、後桜町天皇が践祚(せんそ)したとき、とても悔しがる人がいました。
公家の野宮定晴という人は、
(『定晴卿記』)と怒りを書き留めています(wikiより)
めちゃくちゃ怒っていますね
頭を冷やしたもれ
こう言ったかどうかは定かではありませんが、事実として女性天皇が復活したことは、痛快なできごとでした。
いつの世にも、男じゃなきゃダメだ、という奴はいるもんですね。
国母と呼ばれた理由
さて、紆余曲折ありつつも天皇の座に就いたわけですが、在位期間はわずか9年と短いものでした。
後桃園天皇にバトンを渡した後は、太上天皇となります。
で、サポート役に徹する予定でした。
しかし、後桃園天皇も、皇子を残さず、若くして崩御されてしまいます。
やむを得ず、傍系の典仁親王六男、9歳の祐宮(光格天皇)を迎え入れます。
4代も遡らないと天皇の血につながらないため、立場は不安定でしたので、後桜町上皇はそのサポートを献身的に行いました。
この献身的な行動から後桜町天皇は国母(こくぼ)と呼ばれ、ただ男子の天皇が誕生すればそれで終わりの中継ぎではなかったのです。
父の位が低かったことを不満に思った光格天皇が、幕府にクレームをつけ、太上天皇の称号をつけようとひと悶着が起きました。(尊号一件)
それを諭したのが、ほかならぬ後桜町上皇だったのです。
「御代長久が第一の孝行」
一番に考えるべきは皇室の安泰であり、それこそ最大の親孝行になりましょう
と諭し、天皇はその言葉を受け入れました。
光格天皇の在位は37年間にも及びましたが、この時我慢した事で、朝廷の権威は徐々に復活していき、そして最終的には国学の発展や尊王思想となり倒幕へとつながっていくこととなりました。
その後皇室は権威を高めて明治維新へと繋がっていったのです。
民と苦楽を共にする慈悲深い心
そしてもう一つ、後桜町天皇といえば、天明の大飢饉への対応、です。
光格天皇は傍系から即位した関係で、古代の天皇のようなより天皇らしい天皇を目指し、昔に廃れた皇室の儀式を復活させました。
国民は宝であるという考えから政治状況にも敏感であり、天明の大飢饉で京都にも餓死者が出て、飢えた人々が御所を拝んで千度を踏んで歩く御所千度詣を聞いた際には、幕府が定めた禁中並公家諸法度を破り幕府に対して民衆の救済を申し出ました。
幕府は天皇の行動に驚きますが、訴えを聞き入れないと民衆の憎しみが幕府に向かい、天皇の求心力が強まる事を恐れ、米俵1500を京都市民に放出しました。この時、後桜町上皇も飢えた人民に対し和リンゴ3万個を放出したり、お茶を配るなど出来る限りの救済措置を取っています。
光格天皇に絶大な影響力を与えた後桜町の、民を思う気持ちがよくわかるエピソードですね。
ちなみに、和リンゴ、現代人にとってはちょっと酸っぱいようです(笑)
まとめ
このように、後桜町天皇は、明正天皇と同様、江戸幕府という強大な権力を背景とした権威としての存在であり、奈良時代の女帝とはまるで違う役割ではありましたが、国勢をしっかり見極め、賢く聡明な女帝として、江戸の世に存在しました。
国母は、そんなメッセージをわれわれが生きる現代の日本人へ投げかけているように私は思います。
愛子さまが皇太子になるべき理由 その90
男性優位の武家社会において、1度ならず2度も女性天皇の践祚が行われた江戸時代。
この事実を、日本人は見逃してはならない。
男系男子で繋ぐための万策が尽きた今、愛子さまを軸とした女性宮家の創設による皇統維持しか、もはや方策は残っていない。
「一番に考えるべきは皇室の安泰である」
後桜町上皇が光格天皇に示唆した言葉が、現代のわれわれに重くのしかかっている。