私は現在76歳。

もういい加減な年寄りだ。

だけど自分では年寄り、高齢者と言う自覚はない。

だけど,残された時間はそうある訳ではないだろう。

そこで考えた。

これ迄自分が経験して来た病気についてここで書いてみようと。

勿論私は医師でもないし,医学の専門家でもない。

だから医者のようなコメントとか助言をするつもりはない。

が、患者になったことがあるというのは、ある種強みなのだ。

病の実態について体感している。

誰かが病の中で悩んでいる,苦しんでいる,そんな時にちょっとした助言は出来そうな気がする。

と、言う訳で今日は私の病歴をざっと紹介しておきたいと思う。

 

1。頸椎ヘルニア

  42歳のとき、アメリカの新聞社で働いていた時の話。ある日アメリカ人の青年とキャッチボールをしていた。彼は結構早い球を投げて来た。私は日本人の代表みたいな気分になって負けじと早い球を投げようとした,その瞬間首のあたりでグッキィという音がした。その時から首から左の腕に痛みが走り、左手の親指と人差し指が痺れて来た。帰国後医療機関をあちこち歩いて診てもらったがラチ開かず。結局最期の医者でMRI検査の結果「頸椎の4番と5番の間がずれて神経に触っている。これは手術しないと治らないね。だけど,下手すると神経を傷つけ下半身麻痺になるかもね」

と言われた。

  その言葉を聞いて私は心を決めた。手術などと言う抵抗は止めよう。これからの人生はこの痛みと共に生きて行こう!と。そう決めた時から左腕の痛みはさらりと消えた。だけど親指と人差し指の痺れは残った,今でも痺れたままだ。シャツなど着る際ボタンの掛け外しがちょっと厄介になった。

 

2。痛風

  49歳で新聞社を辞めテレビの世界に移った頃だ。

左足の親指の付け根が腫れて来て痛み始めた。最初は何か分からず,放置していたが,痛みは増すばかり。その様子を見た知人が「あ、それは痛風だよ」と指摘してくれた。痛みはドンドン激しくなってその日の夜は痛みで寝られなかった記憶がある。痛風というのは風に吹かれても痛い,という意味だそうだが,確かに布団が足に触っても激痛がした。

  友人の車で病院に行った。診断は「痛風です」

  尿酸値を計ると何と普通は6以下の所11もの値を示した。

  痛いはずだ。

  以来3度の発症は経験したが、医者の処方により「ザイロリック」という尿酸を排出する薬を朝晩と毎日飲み続けている。これは一生止められない。一度薬の予備が無くなり半月ほど薬を止めた。そうしたらなんと尿酸値が「9」に上がり発症一歩手前になったことがある。

  痛風では死にはしないが激痛という点では生活の質を下げる病だ。

  

 3。尿管結石

  50歳半ばの誕生日。仲間と伊豆にゴルフに行った。

夜は伊豆の旅館で皆が私の誕生日を祝ってくれることになっていた。

ところが,午前中ハーフを回って午後のスタート、ツウーホール目、ティーショットを打った後左の腰が急に痛み始めた。あ、腰を痛めたな!と思い、腰をさすりながらプレイを続けた。ところが,痛みは前のお腹の方にもやって来て左側の腹部、腰部が強烈な痛みに襲われた。

  私は異変を感じプレイを中断,クラブハウスに一人戻った。   

  だけど,痛みは減じるどころか増すばかり。

  私はこれは体の中で何か大変なことが起きているな、と激痛の中で考えフロントに這うようにして辿り着き,救急車を頼んだ。私は救急車で伊豆長岡の病院に運び込まれた。医師に言われたのは尿の採取とレントゲン撮影。しばらくして医師が「あ、これは尿管結石ですね。これはもう病気じゃありませんからうちでやることはありません。退院して帰宅して結構ですよ」

   だけど,痛いのだ,先生何とかしてくれよ!

  医師は言った。

  「うちではこれ以上何も何もやることは出来ません。後はビールとかお茶を飲めるだけ飲んで,そうですね,庭で縄跳びをしてみて下さい。尿管の途中にひっかっている石が出るのを待つだけですね」

  こうして私は退院,恐らく痛み止めのモルヒネかなんか打たれてぼんやりした状態で友人が運転する車で自宅に戻った。伊豆の旅館で私の誕生祝いをしようと待っていた友人達には後で散々嫌みを言われた。

  翌日夕方近くトイレに行ったらコロリと金平糖のようなギザギザの石が出た。

  後に知り合いの医師に聞いたら、腎臓にあったカルシュウムまたはシュウ酸カルシウムの塊が尿管に転げ落ち,途中の結節でひっかって神経を刺激していたのだという。その後何度か腹部のエコー検査で小さいけれど何個かの石が腎臓にはあるらしい。またいつ突然尿管結石でのたうち回るハメになるかもしれない。

  しかし,今度は尿管結石のことを知っているので冷静に対処出来そうだ。

 

  4。メニエル病

  60歳の年、ゴルフ場でショットを打とういう瞬間、背後の虫のなく音が気になった。後ろを振り向いたけど,そこには芝生が広がっているだけで虫が留るような樹木はない。帰りの車の中でも同じ虫の音がした。車を止めて車内を細かく調べたが虫はいない。あれこれ詮索の結果辿り着いた結論は「虫は自分の耳の中にいる」。つまりは耳鳴りだったのだ。

  耳の聞こえも悪くなり結局長女が通っていた北里大学病院に入院して検査。

  医師からの通告は「メニエル病」だった。

  メニエル病は耳鳴り、難聴、めまい。この3点セットを発症する。

  24時間耳の中で蝉が何十匹も鳴いている状態は非常に辛い。

  正直私は「ああ,人間はこういう辛さから逃げようとして自殺するんだなあ!」と自殺者の心理が理解出来たような気がした。

  医者から出された薬など何種か飲んだが,効き目は無し。

  今も耳鳴りと付き合い,難聴は補聴器で何とかカバーし,めまいは出ないことを祈るだけだ。幸いめまいが起きるのは自律神経の副交感神経優位の時に出易い。交感神経優位の活動的な状態ではなく,休息中に出ることが分かっているので割と安心している。講演中にめまいが出たらアウトだもんなあ!

 

  5。がん

  65歳のとき,大腸がんが見つかった。2005年10月6日に腹腔鏡手術で直腸を20センチほど切除。ステージは2と言われた。しかし、1年3ヶ月後左肺に転移が見つかり,今度は胸腔鏡で手術肺の一部を切除。その時点で「鳥越さんの大腸がんはステージ2と申し上げましたが,肺転移がわかったので、大腸がんは4期でした」と言われた。

  大腸がん4期の5年生存率は17〜18%だという。

  しかし、私は大腸がん手術から11年経っても生きている。

  その後,右の肺転移の疑いで手術したが、これは良性だった。やれやれ!!

  がんはしつこいのだ,これで終わりではなかった。2009年2月10日、肝臓の転移が見つかり,肝臓の70グラムを切除。今度は内視鏡を使う手術は出来ず、右脇腹を38センチ切開した。

  肝臓の手術からもう6年半経っているので一応私のがんとの戦いは一応これで終わった形だ。

  検査はその後も継続している。

 

  6。脊柱管狭窄症

  数年前から腰から腿にかけて痛みが続いた。

  都内のクリニックでお尻にブロック注射をしてもらっていた。暫くは痛みが引くがやがてまた痛み出す。病院でMRI検査の結果「脊柱管狭窄症」と診断された。

病院は何軒か回ったが,結局千葉大学医学部病院整形外科で手術をした。

  簡単に言うと腰椎の5番目、脊髄の後ろに脊柱管という管があり,その中を神経が通っているのだが、脊髄の後ろにある椎弓という骨と脊髄を繋いでいる靭帯の一部が管の中を通る神経に触れて痛みを発生させている。その部分を削り取るという手術だ。簡単なように思えるがうっかり神経にでも触ろうものならえらいことになる難しい手術らしい。でも,千葉大医学部病院整形外科の大鳥精司先生は名医だ。ジムで知り合った人も先生に紹介したらきれいに治ってジムで時々会うが,調子はいいそうだ。

 

  以上が私の人生後半に出て来た病の全てだ。

  これだけの病を経ながらも私は元気に生きている。

  そのことを皆さんに知ってもらいたかった。

  私に何がしかの助言が出来れば幸いだ。  

  

  11月22日記す