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東国山人の鳥日記

山人とは世捨て人のこと。世捨て老夫婦が集めた鳥たちの行動記録で、週2回程度更新します。基本スタンスは
(1)日常の中から一瞬の非日常を見つけ、シャッターを押す。
(2)ある時は科学的に、またある時は非科学的に、それでいて尤もらしく、即ちファンタジー風に。

人麻呂より半世紀ばかり後の万葉の代表的歌人。この時代になると鳥の題材が急に増えて来る。

 

 春の野に あさる雉(きぎし)の 妻恋に 己があたりを 人に知れつつ

家持10代の作。身を危険にさらしても妻を探して鳴く、その雉雄の情愛の深さを讃える歌だそうだ。が、その解釈には些か違和感を覚える。雉の雌はもともと多くの雄と交わる多感な鳥。雄もそれが分かっているから、誰の子とも知れぬ子育ての手伝いはしない。恋しながらも同時に餌を漁る、夫婦の真実は食欲と性欲の間、家持は若年にして万葉の世の中をそう見ていたのではないか。

(夫婦円満のように見えるが・・)

(それも一時、雌は早くも次の雄を求めて・・)

この歌は後に平安時代には家持の代表作として評価されたと言い、定家(1162~1241年)もこれを元歌にして

 楢芝も 枯れゆくきぎす かげをなみ 立つや狩場の おのがありかを

升目に沿って推敲に推敲を重ねた言葉を当て嵌める、如何にも定家風だ。

 

 行方なく ありわたるとも霍公鳥 鳴きし渡らば かくや忍はむ

  卯の花の 過ぎば惜しみか 霍公鳥 雨間も置かず こゆ鳴きわたる

「霍公鳥」は昔も今も「ほととぎす」と読む。この「霍公鳥」は、多くは主人公として登場する。人麻呂では鳥が小道具として扱われていた。それは兎も角、「霍公鳥」は果たして現在のホトトギスなのかどうか。鳴き声が分かれば手掛かりになるのだが、万葉集では鳴きを強調する割にその記録がない。唯一それらしいのが坂上郎女(家持の叔母)の歌に

 暇無み 来ざりし君に 霍公鳥 われかく恋ふと 行きて告げこそ

とあり、「かく恋ふ」と鳴いたように思わせる。万葉集の鳥は数の上で「ほととぎす」が圧倒に多いが、その中にはカッコウも入っていた。それを途中からカッコウだけ分別し「霍公鳥」の名を当てた、と言うことではないか。「霍公」は匈奴との戦に明け暮れし、24歳で夭折した前漢の名将、武門の家柄の大伴氏は家持も父の旅人も「ホトトギス」より「カッコウ」に思い入れが強かったようで、「霍公鳥」を用いて多くの作品を残している。

(ホトトギスの声と姿を同時に見聞した唯一の写真。鳴き声は「東京特許許可局」)

(カッコウ。ホトトギスが「かく恋ふ」なら私は何と鳴けばいいの?)

家持は歌人であると同時に軍の高官だったから、兎角政争に巻き込まれる。彼が当時政権の座にあった橘とその対抗花の藤を詠んだ歌では、面白いことに「霍公鳥」が家持の分身となって立ち位置を代弁する。

家持が臣従する安積皇子の薨去(744年)を承けて

 橘の にほへる香かも 霍公鳥 鳴く夜の雨に うつろひぬらむ

藤原氏の血筋でない安曇皇子の突然の死は、藤原仲麻呂の毒殺説が囁かれるほどに、藤原氏にとっては橘諸兄に取って代る絶好の機会と映ったはず。家持には橘氏の先行き波乱が予想されたことだろう。

その6年後  

 霍公鳥 鳴く羽触にも 散りにけり 盛り過ぐらし 藤なみの花

この時点では、皇位の空白を藤原氏系の孝謙天皇の即位で埋めて両者の立場ははっきり逆転する。だから盛りを過ぎた、とはよくも言ったもので、家持のあからさまな願望と受け取った方がよさそう。現実はその願望をなぞるように、光明皇后が死んで仲麻呂は後ろ盾を失い、14年後の失脚に繋がっていく。

(カッコウ類には他にツツドリ、ジュウイチがあるが、食べているのは毛虫。これでは歌の題材にならない)

(ジュウイチ)

(ツツドリ)

 

 鶉鳴き 古しと人は 思へれど 花橘の にほふこの屋戸

鶉(うずら)は当時中国から持ち帰ったものが、荒れ野に逃げ出し繁殖したのだろう。鶉の棲む庭からは廃屋を連想させるが、わが身とは対照的に、橘諸兄にはまだ威光は残っている、と詠む。先の「橘の にほえる香かも・・」と同日の作だが、橘を廻って揺れる家持の心の内が覗く。

鶉は伊勢物語にもあって

 野とならば うづらとなりて 鳴きをらむ かりにだにやは 君は来ざらむ 

とある。女が、別れを切りだした男に返した歌。あなたの訪れがない間に、この庭が荒れ野となったなら・・

「私は鶉となって泣いていましょう、どうぞ狩りに来て射止めてください」

鶉は普通の鳥ではない。文化の香り高い超先進国からやって来た話題の鳥。泣き寝入りしてしまいそうな弱い女と見せながら、その鶉を歌に取り入れることで時代を生きる自分を演じる、男はその芯の強さに感じ入ったのだろう。女と縒(よ)りを戻したと言う。

 

 カササギの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける

カササギが日本に本格的に入って来だしたのは17世紀。カササギが牽牛、織女のために天の川に橋を渡す話は前2世紀の中国の古典「淮南子(えなんじ)」にあるそうだ。この歌は家持の作とされるが、万葉の歌として素人目には言葉運びが妙に近代調。事実、万葉集にも入っていない。一体、何時の頃の誰の作だろう。

 

日本には天の川を舟で渡る話があったらしい。家持も万葉集に2首残している。

  青波に 袖さへぬれて 漕ぐ船の かしふる程に 小夜ふけなむか

小舟を手漕ぎするイメージだ。

 織女(たなばた)し 船乗りすらし 真澄鏡(みそかがみ) きよき月夜に 雲たちわたる

船で天の川を渡る。スケールの大きさと言い、残念ながらカササギ伝説には遥かに及ばない。だが、船とあるのが月だとすればどうだろう。また話が違ってくる。