転んで怪我をしてしまった。久しくコンクリートの固さや匂いから遠ざかっていていたのだが、懐かしくも感動的な感情は一切湧いていない。ただ痛みがあるだけ、得と考えられるものは何もないのだが、不思議と後悔などの感情は芽生えていない。何かと引き換えにと考えれば、自分の業がこれで一度清算されるのであればと思う。怪我の状態を考えれば、けっして安くないのだが。 怪我をして、そのまま音楽イベントの本番に入る。体が興奮しているせいか、腫れあがっているせいか、なかなかに楽器をコントロールできなかったと思う。興奮しての現象なのか、練習不足なのか、自分でも解っていないけれど、周りの人達よりは練習量がすくないと自覚している。けれど他人の練習量に合わせるつもりは今もない。
イベントの終わりに、久しぶりに打ち上げ花火を観た。打ち上げ玉数と開催時間の計算が頭の中で行われるのは、無粋だと思う。数年ぶりに観た打ち上げ花火に気持ちを高揚させる。嫉妬心や不安から解放された時間だったけれど、身体の痛みは消えなかかった。ずっと体は痛い、けれど耐えられないことはなく、嫉妬心や不安と引き換えになるのならばそれも選択の余地があるような気がする。どっちがいいのだろうか。どっちも嫌だととうことは贅沢なのだろう。
週があけて病院通いが始まる。怪我をしただけで、気持ちは疲れていないはずなのだが、通常以上の食欲と睡眠量だった。
怪我をするだけで、体力を大きく奪われるのだと知る。炭水化物と動物性たんぱく質を大量に採る。食べる、眠るの繰り返しが続いたので体重を測ってみたが、日々平均から変動していない。摂取したエネルギーは何処に行ったのだろう。体重計を疑ったが、答えは解らないので忘れる事とする。体調が少しもどってきたので、日々のルーチンワークを再開し始める。傷跡にできた瘡蓋が気になり、何度も指でなぞる。病院からは触るなと言われているのだが、無意識に触っている。日がたてば傷が閉じる前に剥いてしまうのだろう。なぜ自分のためにならないことばかりに意識がいくのだろう。世の中の利口な人は瘡蓋をさわらないのだろうか、落ち着いて考えれば、瘡蓋ができるような事をしないのだと思う。
病気になった後遺症から、体半分の体感が違っている。外気温が高くなってくると右半身から汗が滲んでくる。体を動かして多くの汗をかくと、シャツは綺麗に半分だけ濡れる。左半身も汗はかくので結局は全身汗をかくことになる。