公共の場に出ると理不尽に感情を乱す時がある。家の外に出なくても理不尽を感じることもあるから、確率として確実に上昇するということになる。自然現象や生理現象に感じる理不尽はあっさりしていても、他人に感じる理不尽は粘りがあって濃い口である。理不尽に感じたからといって加害者に対して反撃したり、威嚇したりしても更に心を削るだけで何のメリットも見いだせない。基本的に口を閉じるように心がけている。我慢して耐えているだけであって、いつか心が決壊する時があるその時を不安に思っている。フラストレーションが増えたら少しずつ減らして、許容量をこえないようにコントロールしている人もいるだろう。そんな器用な人は長持ちするかもしれないが、一瞬で決壊する人もいる。いずれの場合も結末は決壊するしかない。人それぞれに許容量の差はあるだろうけど、その差は微々たるものだと思う。日々すれ違う他人に色々な感情を抱き、その人に気持ちを伝えることもなく、自分ひとり勝手に憤っている。そんな感情は、自分以外知る由も知らない。私の存在すら気づいていないかもしれない。私の目立ちたがる行動は、こんな背景を根底に持っているのだと思う。皆に認識してもらいたいのだろう。

仕事や街中で理不尽な場面に遭遇したとき何度も振り返っているのだが、進歩していない。

 

 強い雨が好きだ。もちろんデメリットのほうが多く、自分が濡れたりするのはすごくストレスである。けれど雨はいい天気だと思える気持ちはある。それは自分が映画の登場人物のような感覚なのだとおもう。具体的な映画作品があるわけではないが、抽象的なイメージでそう感じている。雨をテーマにした映画作品は多数あって、いずれも上質な作品だと自己評価していて、映画における雨にはネガティブなイメージがない。映画の主人公に自分を重ねているのではなくて、スクリーンに映る空間に自分を登場させるイメージを重ねているのだと思う。

先日、酒場で呑んでいたときに雨が降り出して、それをネガティブにいう客がいた。雨を被害と被る人には、筋のとおった主張である。私も濡れて帰ることになるので被害者であることは同じ。けれどその時もネガティブには思わなかった。

なぜなら心に余裕があったのだと思う。