短編映画を観た。時事ネタをつかった架空のありそうな話。それは事実を否定したりしていないのだが、当事者ではない人がどのような意図で作ったのか疑問が湧いてくる。本音はわからないけれど他人が感動すればよい?大衆が観て評価されて収入がはいればよい?自分の名前が売れればよい?感動的な話はいつも想像のものであり、想像した人だけが収益を得るのではないかと感情を荒立ててしまう。いつまでも治らない一方的な正義感である。純粋に感動したと評価できれば楽なのに。

 悪い癖だと何時も思うのに、自分以外のもののエゴサーチをしてしまう。大人になってから、自分をサーチすることはほぼやっていない。根拠のない自信がほぼ尽きてしまったから、自己防衛本能が働いているのだろう。

自己以外に関してエゴサーチをしてしまうのはどのような感情だろう。

他人の粗を探しているわけではない。私が感じたように他人も感じてくれていれば嬉しいと共感を求めているのか、それであれば自分から発信すればいいのだが、私の世界は小さすぎるので大勢には届かない。では、自分の感じ方は正しかったのか正解を探っているのではないかと思う。

考えてみれば、他人の導き出した論理的に見える意見をみて、不確かな正解を求めていることなので、ナンセンスだと思う。
正解は製作者の心の中、本人のインタビューや執筆記事を探すのが一番だろう。

評論家の意見はそんなに望んでいないのだろう。

 ネットワークの世界には、思考をもった人間が数えられないくらい居るので、両極端な意見はあるだろう。

自分がどのように感じるかが一番重要で、他人の感想は参考にしかならないのだ。

否定的な意見は無駄なことだとおもう。それでも否定的な意見にピントが合ってしまう。何を求めているのだろうか。

心のどこかに、純粋に感動する人達を見下しているのではないだろうか、悪人を探して自分を善人化しようとしているのだろうか。

 

 実際に発生した現象の当事者達の気持ちを知ることはできない。複数の場合、両極端な意見があるだろう。製作者はそんな複雑な心情は求めていなくて賛美だけ求めている作品にも巡り合う。エンターテイメントならば考え方としてそれでいいのだろう。芸術作品としての制作であればと考えてしまうが、それも製作者の自由なのだから他人がどのように判断するのも可笑しいと思う。

時間を非効率に使用している私のような消費者だけが、賛否両論を唱えて一人盛り上がって一人感情を乱している。

観方を変えれば、時間を贅沢に使用しているのだ。