週末にアルコールを呑む際に、何か一つは手の込んだ肴を作る。
手の込んだ料理といっても、難しいことはできないので、完成まで時間がかかる料理という定義である。
豚足を煮込んだ料理が好きで、冷凍の豚足をきらさないように冷凍室にストックしている。今週は豚足を食べようと思い、冷凍室を開けると1本入りの1パックが10パックもあった。おそらく買い物に行く度に、豚足のストックが無いと思い込んで購入して、家にはまだあったという結果。あと2本たせば3頭分の足になるが、そんなことに何の意味も見いだせなかったので、とりあえず2本を料理することにした。
とりあえず買っておく考え方も直していく必要があると感じる。
自分の考えを文章に出力するようになって、好きなように書いているとどうしてもネガティブな事を書いてしまう傾向がある。
文章にすることで、ネガティブな思考を分解でき発想の転換をすることができると考えているのだが、ときどき思い出してやらないと趣旨を見失ってしまう。
通勤には電車を利用している。
私は体が少し不自由なので、ホームを渡る階段を手すりをつかって歩いているのだが、階段の途中で携帯電話を利用しているサラリーマンがいるので、手すりから離れて階段を降りるシーンがあった。
そのときに沸いた感情は、こっちは体が不自由で手すりを使いたいのに、なんで私の進行を邪魔するのか。もっと周りに気を使えなどと、自己中心的な意見の感情を世の中の正義や倫理のことのように当たり前に違和感なく思っていた。
もちろん口にだしては言わないし、その一瞬の出来事なので通りすぎれば忘れる出来事で、その個人に対して憎しみを今も持っているわけではない。
この出来事を振り返ったとき、そう思った自分の正義や倫理の基準が怖く、そして自己中心的な考えが憎い。
逆の立場で階段で立ち止まらないといけない事があったら、私も端に寄るだろう。
正義感や倫理観について、もっと見直していかなければならないと感じている。
先日、社会人セミナーで学んだキーワード、”遠慮はしないが配慮はする”意味をはき違えないように慎重に適用していきたい。
昔から、被害妄想が私の周囲の人たちと比較しても、大きいと感じていた。世間ではどのようなレベルなのかはわからないが、私の周囲で少数派であればおそらく、世間でも少数派であろう。
被害妄想が大きいことにメリットは見いだせていない。改善したい感情の一つである。治せるのは自分だと思っているので努力は続けようと思っている。
変わることが出来たのかどうか評価するのも自分になるのだが、自己肯定感が低い私には少し難しいと思う。
なので、他人の評価を得られれば努力の成果を感じることができるだろう。
まずは笑顔の練習と口数を減らす意識をしていこうと思っている。